苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令
[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/05/25(Thu) 19:59)]
昔、明治になるまでは平民が「苗字」を名乗ることはできませんでした。
よくテレビ番組で「苗字」についてやってるが、祖先が藤原氏だとか武田(信玄)だとか思ってしまうが、
間違いです。
日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、
明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。
姓名はどうやって名乗ったか〜それは明治8年2月13日に遡ることが重要です。
[46:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/10/03(Wed) 22:58)]
苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=495709999&ls=50
[47:疑問解決したい爺 (2019/01/14(Mon) 08:30)]
「斎部」は使ってはいけない名字なのでしょうか?
また「忌部」「斎部」はなぜ皆、改称したのでしょうか?
何か、調べる手立てがあるならばおしえてください。
[48:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/04(Tue) 08:20)]
テレビで日本人の名前とかやってるが、日本人の殆どは明治時代に姓をもった。
寺院とか、名主だった人につけてもらったりしたもの。武将だとか地域の有名な人の
名にあやかったりしてつけたもの。
江戸時代から姓を持っていた名主など名家は必ずどこかに古文書や墓石,石碑等に名が残っているはず。
コタツでミカンを剥きながらテレビを見ていたかのようなテレビ番組の全員姓名論は荒唐無稽。
古文書や墓石に名が残っていない限り、明治時代初期の法律により以下の法令で義務化されたことにより急遽つけられたもの。
明治3年 平民苗字許可令
明治8年 平民苗字必称義務令
日本の歴史は飢饉の歴史、明治以降も東北地方では例外による飢饉が頻発、最後の飢饉と言われた昭和6年から9年にかけての昭和東北大凶作、
東北の人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えを凌ぐ惨状。
宮沢賢治の「雨にも負けず」は昭和6年の冷害のことをうたったもの。
雨にも負けず風にも負けず‥この最後には夏の寒さにも負けず、寒さの夏はおろおろ歩きとある。
江戸時代以前ともなれば燦たるものだったろう。
昔、平民でも全員姓をもっていたとか抜かす輩がいるようだが、こういうのは歴史を知らぬ人の考えること。
[49:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/04(Tue) 08:30)]
日本の歴史、それは飢饉の歴史、多くの名もなき庶民が餓死し、餓死した人の人肉を食べた、
現代の日本では、どんなに貧しくても餓死というのはあり得ませんが、江戸時代においては多くの人が餓死で亡くなりました。
特に全国規模で起こった天明の大飢饉のときの被害は、とても大規模なものでした。
1782年に各地で起こった大洪水や関東地方の大地震、1783年の浅間山の噴火などにはじまり、1787年まで続いた天候不順により農作物が壊滅的は被害を受けたのです。
天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれていますが、大地震や浅間山の噴火、洪水などで亡くなった人の人数を合わせると、100万人以上の人が亡くなったといわれています。
1700年代の日本の人口は2800万人から2900万人であったと推定されていますから、100万人以上の死者というのが真実だとすれば、日本の総人口の3.5%ほどの人が亡くなったことになります。
30人に1人が亡くなったことになりますから、その被害の大きさは想像を絶するものであったといえるでしょう。
特に東北地方での被害は甚大でした。
弘前藩では人口の3分の1が餓死したといわれており、津軽藩でも人口の3割〜4割にあたる8万人が餓死をしたそうです。
また、盛岡藩でも死者が6万人にのぼったという記録が残されています。
飢えをしのぐために人肉を食べた人もいた!?
天明の大飢饉では、飢えによって多くの人が亡くなりましたが、一部の人たちは飢えをしのぐために餓死をした人の人肉を食べていたといわれています。
食べるものがなくて極限まで追い込まれると、人間はそういった行動に走ってしまうのかも知れません。
八戸領における天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述が残っています。
天明4年にある宿屋に1人の女性が訪ねてきて、次のように言ったそうです。
「こちらの家で爺さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」
つまり、その宿屋で亡くなった爺さんの、片身でも片股でもいいので譲ってほしいということです。
そして、自分の家の爺さんが亡くなったら返しに伺いますという。
にわかには信じられないような話ですが、実際にそういった話は江戸の町まで伝わってきていて、のちの杉田玄白が「後見草(のみちぐさ)」の中で、この人を食べた話についてリアルに記述しているようです。
さらにこの「後見草」の中には、信じられないような記述もあります。
「橋の下で、死骸を切り裂いて股の肉を籠に持っている人がいるので、何にするのかと聞いたら、これに草木の葉をまぜて犬の肉だと偽って売るのだと答えた」
これはもう狂気としか言いようのない話ですが、人間は極限まで追いつめられるとこういったあり得ないような行動をおこしてしまうのかも知れません。
[50:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/04(Tue) 08:36)]
日本における飢饉の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50
[51:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/04(Tue) 08:49)]
日本は未だ、世界の「人身売買」の規制対象国となっています。
「山椒大夫」の話、「安寿と逗子王」の話は説話ですが人身売買の話です。
日本にも古くから人身売買がありました。少女や少年などが売られ、庄園の労働力や売春、男色〈男の子)や外国への人身売買などです。
こうした背景には、貧困が有ります。
今では想像すらできない貧困国だった日本、現在のような豊かな?国になるのは、人々のたゆまぬ努力の賜だったことでしょう。
貧困と、飢饉、疫病、多くの民が死んだ歴史。飢饉では死んだ子供の死体さえ食う飢餓地獄、姨捨山伝説など、それが日本の偽らざる歴史。
決して、民が姓をもっていたなどということはないのです。
[52:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/04(Tue) 08:55)]
日本における貧困と人身売買の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50
[53:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/09(Sun) 22:38)]
今では想像すらできない貧困国だった日本、現在のような豊かな?国になるのは、人々のたゆまぬ努力の賜だったことでしょう。
貧困と、飢饉、疫病、多くの民が死んでいった日本の歴史。飢饉では死んだ子供の死体さえ食う飢餓地獄、姨捨山伝説など、それが日本の偽らざる歴史。
決して、民が姓をもっていたなどということはないのです。
[54:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/09(Sun) 22:49)]
NHKの「日本人の名前」さえ、もはや姓の話などでてきませんね。
[55:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/06/23(Sun) 23:00)]
明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、しかしそこには意外な理由が存在していたのだった・・・。
江戸時代までは、武士階級などを除く多くの平民(農民・職人・商人などの庶民)は「何々屋(屋号)の誰それ」とか「何処の誰々」といったように、携わっている職業やその居住地の地名を名前の上につけて名字(苗字)の代わり(識別の為の呼称)としていた。
それが明治時代になると、前述の様に平民もすべて名字(苗字)を付けなくてはならないという法律が出来たが、この国民全員が名字(苗字)を付けるという決まり事は、身分制度の撤廃を優先した発想によるものではなかったのだ。
結論から言うと、国民全員が名字(苗字)を名乗ることになったのは、実は「徴兵制度(ちょうへいせいど)」との関係が強いとされているのだ。そしてこの制度とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度のことで、「志願兵(募兵)制度」の対義語である。
国家が強力な常備軍を維持し、また一朝事ある時には速やかに戦力の拡大を要することを考慮して(国民皆兵のもとに)多くの兵員を集め、また一定期間にわたり兵役に服すことを可能とした体制を整備したのが「徴兵制度」である。但し、明治6年1月10日発布の法律では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。
さてこの「徴兵制度」を確立する上では、何処に何と言う名前の者が住んでいるのかを正確に把握することが最も重要であった。兵士となる候補者を集める上では、江戸時代までの様な多くの庶民が適当で(いい加減な)呼び名で呼ばれていた状態では確実に「徴兵制度」を遂行することは能わなかったし、同様に何処に常住しているかを知る必要もあったのだ。
そこでこの「徴兵制度」をスムーズに遂行・達成する為に必要なものとされたのが、徴兵対象者を含む国民全ての年齢・性別や氏名と住所を記した「戸籍(こせき)」の整備であったが、この「戸籍」とは、「戸」と呼ばれる一定の家族集団単位で国民たちを登録・管理する目的で作成された公文書類のことである。
江戸時代までの徳川幕藩体制下では、人民把握の基礎となったものに「人別帳」等があったが、近親の家族以外にも遠縁の親類縁者や使用人なども含めた「家」単位で編纂されていた。
しかし明治時代になると、我国は中央集権的な国家体制の樹立を目指して、それ以前の時代の「家」間の主従関係や支配者側と被支配者側の立場の解消が企図されたのである。
そこで律令制の頃の「戸籍」に範をとった制度を復活させて、江戸時代までの「家」単位ではなく「戸」単位での国民に関する情報の掌握体制を確立して、それまでの「家」制度が封建体制下では公的なものであったのが、以降は私的な繋がりの集団・組織へと改変されて、国家は「家」を通さずに直接的に個別の国民を個人単位で管理することが可能となったのである。
こうして、明治期以降の「戸籍」は徴兵制や徴税の効率を上げる為に設けられ、戦前(第二次世界大戦終結以前)の新たな「家」制度の根幹となっていく。この制度は、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された我国固有の家族制度であり、親族関係を有する者の内で更に狭い範囲の者を、「戸主(こしゅ)」とその家族として一つの「家」に所属させて、「戸主」に「家」の統率権限を与えた制度のことである。またこれは、江戸時代に発達した武士階級の「家父長制」を基にしていたと考えられている。
read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)