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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:43)]
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


[249:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 21:03)]
【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
h ttps://bubble4.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1154785781/


[250:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/18(Thu) 18:49)]
いちうた ― 君の住む街・市原は
h ttp://music1930.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-469a.html
2012年7月20日 (金)

影を慕いて


[251:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/24(Sat) 22:43)]
当時のヒット曲「君恋し」道頓堀行進曲「浪速小唄」「女給の唄」などそうしたカフェーや女給、あるいはそれらに象徴される都会風俗を主題とした作品でした。また「唐人お吉」や「侍ニッポン」も映画化されてそれぞれヒットし、かなりのエピソードもありますがここでは省略します。

●古賀メロディの登場


昭和6年9月19日の勃発した満州事件。現在ではこの柳条溝(湖)爆破は関東軍によって計画され、特務機関付の今田準太郎大尉により実行されたことは明らかになっていますが、当時の人々はもちろんなにひとつ知らされていません。

武力を持って満蒙の生命線を守り、直接行動をもって国家改造を行わなければならないとする思想が、急速に台頭し、複雑な絡み合いが、外に対して満州事変を引き起こし、内にあっては二・二六事件への道となります。

この時期、この時代を見事にうつして急降下の世界に古賀政男が登場します。先に、古賀メロディーの特徴は書きましたからここでは省きます。
大ヒット曲「酒は泪か溜息か」がいかに当時もてはやされたかについては、この歌をテーマに松竹蒲田が「想ひ出多き女」という映画をつくったこと、この人気に便乗して「夢は泪か想ひ出か」と言う歌がつくられ、これに対して昭和9年4月14日に東京地裁が著作権侵害を認める判決をくだしていることなどからも察知されます。
この歌の大ヒットの余波は、まだ音楽学校在学中であった藤山一郎(本名増永丈夫)が、禁を破ってアルバイトをしたことが学校側に知れ、退学処分になるところを乗杉嘉寿校長の温情で、卒業までレコード吹き込みをしない旨の誓約書を入れて
一ヶ月の停学処分で済んだというエピソードもあります。

藤山一郎が池田憲一の語ったこととして「すでに吹き込んだレコードの曲目リストも一緒に提出させられたが、そのリストに入れておいた「影を慕ひて」は実はまだ吹き込んでおらず、翌7年早々に市政会館二階のスタジオであわてて吹き込んだそうです。なんでも「みぞれの降りしきるひどく寒い日でした」と述懐しています。

こうして古賀政男の属するコロムビアと、西条・中山晋平を擁する日本ビクターとはライバルとして激烈なヒット合戦を展開することになります。
この時期、単に歌手のみでなく、作詞、作曲家もレコード会社の専属となり、ヒット曲をつくる、と言う体制が強化され、同時に一つの歌に対する歌唱はひとりの歌手のみを原則とする形が、以来一般化してゆくのです。

古賀メロディの原点ともいわれる「影を慕ひて」は周知の通り、昭和3年、自ら創立した明大マンドリン・クラブの秋の演奏会(古賀政男にとっては在学最後の演奏会だった)に、佐藤千夜子が歌い、彼女の推輓により昭和6年ビクターから発売されたが、話題を呼ばず、7年に藤山一郎のものがコロムビアから発売されヒットした歌でありました。






[252:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/24(Sat) 23:00)]
昭和歌謡曲の軌跡−やがて古賀メロディの擡頭
いわゆる忠治三部作=|「忠治旅日記−甲州殺陣編」「忠治旅日記−信州血笑編」「忠治旅日記−御用編」で伊藤太輔監督の下、国定忠治の落莫の人生を見事に演じた大河内伝次郎は一時新穀劇に戻っていたが、再び映画界に復帰し、そのカムバック第一作となった辻吉郎監督「沓掛時次郎」が封切られたのも、また昭和4年でした。


この映画の主題歌として、原作者長谷川伸が作詞、浅草オペラ全盛期の金竜館で楽長をつとめた奥山貞吉が作曲、川崎豊・曽我直子がデェユットして男女の掛け合い形式をつくったのが、後の股旅歌謡の先駆ともなったとされている「沓掛小唄」です。

当時の浜口内閣は金解禁を行って日本経済の立て直しを図る井上準之助蔵相の積極的経済政策を施策の二本柱とし、翌五年一月十一日金解禁を断行します。
ところがすでに、昭和4年24日には、後に魔の木曜日≠ニよばれるこの日、ニューヨークのウォール街を株式大暴落が襲い、アメリカのブームに終止符がうたれ、世界恐慌の荒波がわが国にも押し寄せてきていました。
二本は大打撃を受けますが、ここでその昭和恐慌については詳しく述べている余裕はありません。

このような政治不信、不景気等時代の風潮は退廃をもたらし、都会ではジャーナリズムがエロ・グロ・ナンセンス時代≠喧伝しました。

「エロチシズムとナンセンストと時事漫画風なユーモアとジャズ・ソングと女の足と−−」と川端康成が『浅草紅団』で模写した第二次カジノ・フォーリーでは、警視庁が「股下三寸未満、あるいは肉色のズロースを使用すべからず」他8条の通達を出すほどに派手な脚線美をみせてくれたし、「道徳は罪悪の認識から始まる」のキャッチフレーズで平凡社から『世界猟奇全集』12巻が刊行された。

マッチの図柄にもエロ・グロの衣装があふれ、また「一回五十銭、口に消毒ガーゼ」のキッス・ガールが横浜の公園で開業(?)、などという新聞報道もみられます。後に「円宿ホテル」とか「エロ風呂」とよばれた連れ込み旅館も郊外に出現したといいます。

演歌では、佐藤千夜子の「愛して頂戴」、二村貞一の「洒落男」、藤野豊子(四家文子)の「アラその瞬間よ」河原喜久恵の「ザッツ・オーケー」、曽我直子、川崎豊の「麗人の唄」、四谷文子の「わたしこの頃変なのよ」、淡谷のり子の「私此頃憂鬱よ」等々のナンセンス歌謡、あるいは「ネェ小唄」が流行しました。

またカフェーの全盛もこの時代相と無縁ではないのです。そうしたカフェや女級の、あるいはそれらに象徴される都会風俗を主題とした流行歌がぞくぞく誕生しました。「君恋し」「道頓堀行進曲」「浪花小唄」「女級の唄」などです。

満州事変が勃発したころ、(ここではでは詳しい歴史は省きますが)この時代を見事にうつして流行歌の世界に古賀政男が登場します。 

古賀メロディの特徴は、中山晋平が築いたヨナ抜き短音階を基調に独自のユリをくわえた点にあるといわれています。
本人の著書で『我が心の唄』を引用すれば「ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば、一オクターブ七音と、五階の東洋的短音階との差であった。此の落差を埋めなければ、この世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲は出来ないと私は思った。」ということです。

こうした古賀政男の『酒は泪か溜息か』(昭和6)藤山一郎の透き通った歌唱法で歌謡史に残るビッグヒットが生まれるわけです。


[253:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/11/15(Sun) 22:11)]
古賀政男、「古賀メロディ」の功績は多方面に多大な影響を及ぼしているが、その最大のものの一つに
「藤山一郎」と言えば「古賀メロディ」・・大衆歌曲:歌謡曲の黎明にあたり、「藤山一郎」を、その重要な歌手として発掘し引き入れたこと。

その後、藤山一郎は昭和18年、スラバヤで抑留となり、戦後日本に帰ってくるのだが、その後、最初に報じた
NHKラジオとの関係を強めたが、藤山一郎(増永丈夫)を育成した古賀メロディの歴史の上に成り立っている。

何といっても、<藤山一郎と言えば「古賀メロディ」>、藤山一郎が「古賀メロディ」の最大の功労者としての存在であり、多くの歴史に残る名曲・古賀メロディを歌い、残していることを忘れてはならない。

藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。


[254:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/11/16(Mon) 18:46)]

☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ-」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。



[255:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/11/16(Mon) 19:00)]
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ-)

藤山一郎と言えば「古賀メロディー」、「古賀メロディー」最大の功労者である。

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)   1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



[256:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/11/16(Mon) 22:11)]
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。


昔の歌い手は歌うことに専念されていました。それが職業歌手の姿でした。尊敬し、歌を拝聴させて頂いております。


[257:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/11/17(Tue) 20:30)]
>>255-256

こう見て行くと、「古賀メロディ」とは、青春歌謡。戦後「青春歌謡」というのがはやったが、「古賀メロディ」は、今存在する歌のほとんどがまだ存在しなかった時代、元祖浅春歌謡といえる。

まだまずしさの真っただ中の時代、戦争に明け暮れた時代、それでも軍歌・軍国歌謡にながれるのではなく、青春の息吹(いぶき)、青春の苦悩を底辺に、佐藤惣之助など第一級の詩人の簡潔にして、奥深い言葉、
第一級の作曲家の、第一級の歌手による高らかな青春の息吹。昔の人は幸せ!!、


[258:名無しさん@お腹いっぱい。 (2022/12/31(Sat) 23:08)]
自分が最近こっそり観ているカラオケ職人さんの動画
「キャンプ小唄」「スキーの唄」「東京ラプソディ」「夜の湖」「鳩笛を吹く女の唄」などある。
リンクを書けないのでユーチューブでSongCat Hiroで検索すると出てくる。


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