【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/02/14(Fri) 08:34)]
槇原なにがしとかいうひげもじゃで、不似合いな少年のようなおかしな耳を覆いたくなるヘタクソ、今はやりの典型的ド素人ニューミュジッシャンの男が、覚せい剤で逮捕のニュースが流れた。
一方、今テレビでも、ラジオでも、CDでさえでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っている昭和歌謡の専門「東京大衆歌謡楽団」は、今、広くレコード歌謡草創期、まだ日本が貧しかった時代、90年以上前の昭和3年(1928)から、戦後昭和30年代位まで、「昭和SP歌謡」
を街頭などで歌う少人数の楽団ですが、かなり勉強もしており、You Tubeでも見れる。
昭和というのは大正15年(1926)12月から昭和64年(1989)1月まで60年を超え、明治・大正を合わせたより長い、世界でも最長の年号。
今テレビで「昭和歌謡」というのは、昭和末期・・昭和50年、60年代のこと。
選曲も広く、これこそ「名曲」と言われるもので、適正でよい。
「古賀メロディ」など、ここにでてくる歴史に残る、時の流れに対し時代を超え「普遍性」を持つ真の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。
『東京大衆歌謡楽団』昭和歌謡に対するリクエスト、感想や情報などありましたらどうぞ!。
[39:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 22:25)]
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。
しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。
専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。
古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。
この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。
音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。
[40:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 22:29)]
旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。
現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。
駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。
古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。
この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。
JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。
古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。
日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。
何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
代々木上原の3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。
古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。
それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。
[41:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 22:52)]
代々木上原駅前の3000坪、うっそうとした広大な屋敷に構える豪邸、古賀政男邸、現在は「古賀政男音楽博物館」とJASRACビルが入るビルになっていて、井之頭通りも拡幅され当時の面影はない。
当時、その小田急線代々木上原駅前、井之頭通りに面して古賀政男邸のうっそうとした大きな屋敷の正門があり、そこから60メートル位、石畳の道を進んだ先に和洋折衷の洋館の玄関があった。
玄関前は約20台の車を停められる広場がって、そこには二、三台の車が入る大きな車庫が二つ、三つあった。
ベンツ2台に、幅2mもある大きなリンカーン、キャディラックが見える。
殆どの有名人の豪邸というのが、土地がせいぜい100坪位、道路に面してすぐ車庫や玄関があり、そこに外車があったりするが、そんなものではなかった。
リンカーン、リンカーンといえば、まだ外車がめずらしかったころ、作曲家の古賀政男が地方に行くにも愛用していた車。
よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html
師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。
古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
坂を登った左側には車庫があってリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。
[42:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 23:16)]
歴史遺産 日本の洋館 全6巻揃 / 藤森照信・増田彰久
藤森照信:文、増田彰久:写真
講談社 ,2002-2003 / 250×260mm / soft
■内容
建築家・建築史家 藤森照信と写真家 増田彰久の30年を超える共同取材を集大成した全集。
明治・大正・昭和(戦前)に個人邸として建築された全国各地85の名邸、そして洋館の建築主の物語、間取り図(63邸)、建築家の系譜、現況など貴重な情報も豊富に収録。
第1巻 明治篇 I / 142p
渡辺千秋邸/土井八郎兵衛邸/三井八郎右衛門邸/柳沢禎三邸/今井孫市邸/岩崎久彌邸/林国蔵邸/小西荘三郎邸/香川敬三・村上喜代次邸/山県有朋別邸/右近権左衛門邸/田中光顕邸/徳川頼倫邸
第二巻 明治篇 II / 142p
有栖川宮威仁別邸/村井吉兵衛別邸/清藤盛美邸/高取伊好邸/鶴崎平三郎邸/渋沢栄一邸/麻生太吉邸/松本健次郎邸/内田定槌・陽子邸/伊藤伝右衛門邸/立花寛治邸 /岩崎彌之助邸
第三巻 大正篇 I / 142p
諸戸清六邸/平賀義美邸/古河虎之助邸/丸山茂助邸/鴻池忠治郎邸/西村伊作邸/神谷伝兵衛別邸/多木久米次郎邸/島津忠重邸/堀辰雄別邸/佐藤安太郎・諸川庄三邸/日下部久太郎邸
第四巻 大正篇 II / 142p
野口喜一郎邸/谷口房蔵別邸/松風嘉定邸/三輪善兵衛別邸/和田豊治別邸/矢橋亮吉邸/土岐章邸/大久保検治邸/小出收邸/鳩山一郎邸/朝吹常吉邸/佐藤瀧次郎邸
第五巻 昭和 I / 142p
朝香宮鳩彦邸/下村正太郎邸/小笠原長幹邸/野上弥生子・森可修邸/前田利為邸/三河義行邸/藤井厚二邸/国武金太郎別邸/岩崎彦彌太邸/根津嘉一郎別邸/新田長次郎邸/木村金治郎邸/高橋欽哉別邸/中島知久平邸/大谷藤豊邸/渡辺実邸/山口吉郎兵衛邸/鈴木三郎助邸
第六巻 昭和 II / 142p
岩崎小彌太別邸/三井家別邸/乾新兵衛邸/日向利兵衛別邸/刑部人邸/アントニン・レーモンド別邸/徳川義親邸/土浦亀城邸/細川護立邸/杵屋六左衛門別邸/遠山元一別邸/福本貞喜邸/原邦造邸/師岡和賀邸/渋沢信雄邸/林芙美子邸/古賀政男邸/新津恒吉邸
[43:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 23:36)]
日本の洋館 第6巻 昭和篇2
ISBN-13: 9784062614863
▼目次(日本の洋館 第6巻 昭和篇2)
はじめに 藤森照信 増田彰久
岩崎小彌太別邸(静岡県) 三菱解体を見届けた財閥最後の館
三井家別邸(北海道) 迷路か迷宮か、三井家の屋敷の数々 国登録文化財
乾新兵衛邸(兵庫県) 乾汽船はジャコビアン様式の館
日向利兵衛別邸(静岡県) 世にも不思議な竹と絹の地下空間
刑部人邸(東京都) 画家の家は国会議事堂と兄弟!?
アントニン・レーモンド別邸(長野県) 日米の狭間に生きた建築家の夏の家
徳川義親邸(長野県) 熊彫りと葵の御紋、尾張徳川家の館 長野県指定文化財
土浦亀城邸(東京都) バウハウス流モダニズムの旗手の家 東京都指定文化財
細川護立邸(東京都) 現地解説つき細川家の大型西洋館 東京都指定文化財
杵屋六左衛門別邸(静岡県) “新興数寄屋”の代表作に残る一つの謎
遠山元一別邸(埼玉県) 日興証券創業者の親孝行の家 国登録文化財
福本貞喜邸(東京都) いぶし銀のような経営者の終の住み家
原邦造邸(東京都) 御殿山に出現した白いモダニズムの家
師岡和賀邸(現存せず) 名女将の隠れ家的小住宅「歓帰荘」
渋沢信雄邸(長野県) 哲学青年が望んだイギリス田舎屋風
林芙美子邸(東京都) 放浪の末たどり着いた女流作家の館
古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ
新津恒吉邸(新潟県) 石油王が造ったヨーロッパ重箱詰めの館 国登録文化財
掲載邸一覧(施主/竣工地/竣工年/設計者/現状および公開・非公開/現住所および問い合わせ先電話番号)
◆歴史遺産 日本の洋館 全6巻
◆背景ビジュアル資料5 洋館・洋風建築
[44:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 23:59)]
古関裕而の話だが、彼が東京都内の某百貨店で、宝石を買いあさっていた古賀政男と会ったという。
古賀は古関に「宝石はいいものね。裏切らないから」などと語っていたらしい。古賀は宝石を買うことで、淋しさを紛らせていたのだろう。
[45:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/11(Fri) 00:20)]
☆有名人の邸宅(参考)
古賀政男邸(代々木上原) 3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区) 2000坪
麻生太郎邸(渋谷) 1500坪
孫正義邸(港区) 960坪
三木谷御殿(渋谷区) 272坪
鳩山由紀夫邸(大田区 205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒) 173坪
[46:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/11(Fri) 14:04)]
古賀政男音楽博物館
代々木上原には二つのランドマークがある。イスラムの東京ジャーミーと、もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館(TEL:03-3460-9051)は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)本部がテナントとして入る。
古賀政男音楽博物館、1階は220席の小規模なけやきホールがあり、2階は大衆音楽の殿堂として作詞家西條八十を筆頭に大衆音楽の発展に貢献した方々が顕彰されており、古賀政男氏が住んだ家の正門と玄関を結ぶ石畳のみちをイメージしたスロープ(2階から3階への渡り廊下)を通って3階が旧古賀邸2階の書斎、ピアノや書斎机、十畳間と六畳間の和室、刀のつばが埋め込まれたマントルピースや飾り棚など、古賀邸のレッスン室の一部などが、古賀政男氏の愛用していたものが当時のままに配置してあります。
○旧古賀邸は古賀政男氏が昭和12年33歳の時、代々木上原に音楽村創設を夢見て3000坪の土地を購入し、翌昭和13年に完成させた建物とのことで、古賀政男音楽博物館公式パンフレットに古賀邸アルバムとして写真が掲載されていますが、緑溢れる広大な敷地に和洋巧みに取り入れた瀟洒な建物であり、マッチ箱の様な狭いマンションに居住している私には羨ましい限りの大豪邸でした。
○この建物を古賀政男氏死去後の昭和54年3月に整備して当初の「古賀政男記念博物館」として一般公開し、老朽化が進んだ平成3年に改築休館し、平成9年に現在の古賀政男音楽博物館として再生されたとのことです。昭和57年には古賀政男氏の郷里福岡県大川市に分館として古賀政男記念館も設立されており、いつかこちらにも行ってみたいと思った次第です。
古賀政男のこのテイチク時代は飛ぶ鳥を落とす勢いで年齢的にも、もっとも脂ののった時期と言われる。
昭和12年には、代々木上原駅前の松林三千坪を手に入れ、清水組(清水建設)に頼んで邸宅を建てる。
この邸宅が完成したのが昭和13年4月のことだった。
この後古賀政男はまことに忙しい。
○昭和13年6月「人生劇場」を最後にテイチクをやめ、昭和13年11月8日にはコロムビアに移籍復帰するのだが、その前に「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカや南米に立つ。
11月14日には、藤原義江らの見送りを受けて横浜港からハワイ経由で龍田丸でアメリカに向けて出港。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。復帰第一作が「誰か故郷を想わざる」と「あの花この花」、いずれも西條八十作詞。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
同じく13年11月には、上記「古賀政男藝術大観」がでる。
1年後の昭和14年10月10日凱旋帰国。三浦環の歓迎会を受ける。
[47:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/11(Fri) 15:14)]
作曲家・古賀政男と明治大学マンドリン倶楽部
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
また、佐藤惣之助、西條八十など詩人と詩を大切にし、多くの名歌手を傍に育て、映画ともタイアップしたことで知られます。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。
優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽でもある。
人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。
古賀政男のもっとも脂の乗り切った時期、それは昭和12年ごろ、テイチク黄金時代、
「人生の並木路」「青い背広で」(いずれも佐藤惣之助作詞)のころとされる。
古賀作品には映画主題歌がとりわけ多い。
古賀はとくに映画会社とタイアップして映画音楽、主題歌に力を入れ,
今に残る映画主題歌がたくさんある。
昭和12年当時の各社の映画主題歌のなかでもテイチクの多さがひときわ際立つ。
テイチク 90曲
コロムビア 49曲
ビクター 41曲
テイチクの90曲のうち古賀政男作曲が43曲
昭和9年〈1934)5月15日、専務取締役兼文芸部長兼・・兼作曲家として、古賀政男は
東京銀座にテイチク東京文芸部(通称古賀文芸部)を発足され、ここにテイイクが発足。
ここに「七人の侍」と言われる旧来の「明大マンドリ倶楽部」の仲間を呼び寄せた。
彼らは時に秘書であり、懐刀であり、パッカードやリンカーンの運転手である。
また「明大マンドリ倶楽部」も名前を変えて参加している。
「明大マンドリ倶楽部」は大正12年(1923)創設だが、古賀政男の音楽の隆盛と切っても切れない関係にある。
「明大マンドリ倶楽部」は古賀政男の音楽にかける情熱そのものである。
テイチクにはテイチクオーケストラのほかにも、古賀政男サロンオーケストラ、古賀政男オーケストラなどがそうである。
○古賀政男サロンオーケストラ
男の純情
愛の小窓
緑の月
真実一路の唄
白衣(びゃくえ)の佳人 ‥
○明大マンドリン倶楽部
青い背広で
荒城の月(古賀政男編曲 1942
宵待草 (同)・・
○テイチクオーケストラ
○古賀政男オーケストラ
女の階級
回想譜
青春の謝肉祭(カーニバル)
南国の乙女
ああそれなのに
人生の並木路
黒いパイプ
人生劇場・・
昭和53年(1978)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、55年にわたる古賀自身最後の公の姿となった。
それから約1か月後、昭和53年7月25日の午後1時15分、代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73歳。
「影を慕いて」の初演をはじめ、佐藤千夜子、三浦環や藤山一郎が歌った、古賀政男の音楽の情熱と隆盛そのものの関係にある伝統の「明大マンドリン倶楽部」。
[48:名無しさん@お腹いっぱい。 (2022/08/29(Mon) 02:43)]
_( ⌒) ∩__
//,. ノ ̄\ / .)E)
/i"/ /|_|i_トil_| / / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ii.l/ /> <{. / / <にゃむの超超超臭いまんこ舐めて?!
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ゞヽ 三 ) ))
γ⌒ヽ \ヽ ノ /´ `ヽ
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| ! ヽ i Y | !
| / `ヽ,c、 ,.イ ! /
| / \ (i)ソ /! /
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