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ラジオ放送について
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:24
- ラジオ放送について、番組や放送について、
取り上げてほしいことや、やめてほしいこと、その他なんでも
どうぞ!!。
- 53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:48
- >>50
しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。
また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。
- 54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 18:44
- 古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。
主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。
そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。
後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。
楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。
なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国でした、訂正します。ドイツ留学したのは山田耕筰です。
本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。
しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。
また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。
[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。
こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。
古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)
「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。
苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
- 55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 18:55
- 古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。
彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。
作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。
コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。
ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。
留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。
この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。
つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。
単にクラッシックどうこうとかではないのだ。
どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。
でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。
彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。
歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。
- 56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 19:23
- h ttp://electronic-journal.seesaa.net/article/23976803.html
情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ830号)2002年03月29日 コメント2011年08月20日 15:03
>古関が、クラシックの作曲から離れた理由に、実家が経済的に破綻して、一族を養わなくてはならず、次第にクラッシックから離れざるをえなくなった・・ともいわれている。
クラシック志望で山田耕作の推薦で待望のコロムビア専属作曲家になったのだが、入社後燃え尽きてしまったのでしょうか。
ものごとは最初が肝心といわれるが、どうしたのか、彼は最初から長い空白を作ってしまったのです。・・
このあたりが本当の古関裕而を知る上、重要かもしれません!。
・・実は、明大マンドリンクラブ出身で当時もコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある某氏の最初のHPによると、重大な史実が隠れていて、これがパスされている。
古関は、参考書で勉強した山田耕筰に英国留学をしたい旨相談したのだが、山田はそれほど評価しているわけではなく、現状ではあなたの力では、このクラッシック交響楽の世界で生きていくのは難しい、と
今流にいえば、ダメだしされてしまったということです。
なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。
本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。
しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。
また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。
[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、・・はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。
こうして、昭和6年(1931)10月正式にコロムビア専属の辞令を受けるのだが、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。
- 57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 19:42
- >1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家で・・
NHKは、不明な点が多いとされる「チェスター楽譜出版社」について、以前ロンドンに調査団を送り込んで本格的調査を行ってNHKTV番組で詳細に放送した。
しかし、今出ている名前のものを含め詳細に調査するも、結論は、この「チェスター楽譜出版社」については現存せず、しかも会社について、どのようなものであったかなど、存在と結び付ける確たる情報は得られなかったという。
また、都内のある大きなレコード店であるTレコードによっても、同じ結論です。
幻以上のものでないデリケートな存在なのだ。楽譜と音源がないでは話にならないというのが実態のようだ。
NHKも、いかに物語で事実でないといえ、NHKとして、すでに調査が行われ結論が放送されているものを安易に放送すべきでない。
- 58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 20:36
- 古関のコロムビア専属は山田耕筰の推薦、によるものだが、出社通知と辞令はまだ手にしていなかった。古関は阿佐ヶ谷にある義姉の家に部屋を借りて住んでいた。三百円という多額の契約金を貰ったので、当面の生活の心配はなかったがとはいえ、コロムビアからは一行に音沙汰がないことが古関に猜疑心を生むような不安をあたえていた。
昭和五年といえば、昭和恐慌によって不景気のどん底で,街には失業者が溢れていた。古関は不安を抱えながら昭和六年を迎えた。昭和六年に入ってもビクターの勢い衰えず、コロムビアの劣勢は変わらなかった。昭和六年一月新譜の《女給の唄》は華やかな昭和モダンの「翳」ともいうべき女給の哀しき姿をテーマにした歌である。同月新譜には佐藤千夜子が吹込んだ古賀メロディー・《影を慕いて》が発売された。A面は《日本橋から》でマンドリンオーケストラ伴奏、B面・《影を慕いて》はギター歌曲だった。だが、レコードは売れなかった。コロムビアは作曲者の「古賀正男」に白羽の矢を立てた。そして、古賀政男を誕生させたのである。ということは、古関裕而と古賀政男はほぼ同時期にコロムビアの専属作曲家になったことになる。
さて、古関は流行歌といっても、作曲したことがなかった。そこで、とりあえず、日本歌曲のつもりで作曲していた自作品を吹込みことにした。それが《福島行進曲》と《福島セレナーデ》である。発売は昭和六年七月新譜。ちょうど、古賀政男と藤山一郎の第一作の《キャンプ小唄》も同月に発売されている。古賀はコロムビアから専属作家としての打診を受けたとき、流行歌の作曲には自信がないことをのべて、社員入社を希望していた。
古賀社員希望であったことは、古関の自伝にもつぎのように記されている。
「私がコロムビア専属になった頃、古賀政男さんは既に社員として入社していた。ストップウォッチ片手に吹き込みの記録などを担当していた。私のレコーディングにも幾度か立ち会ってくれたこともある。時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながらお互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてかたわら盛んに作曲もやっていた」(古関裕而『鐘よ 鳴り響け』)
古賀の社員入社は古関の記憶違いであろう。古賀は社員希望だったが、コロムビアからは強引に専属作曲家の契約を結ばされている。だが、古賀は作曲家としての自分に全く自信がなく、会社に毎日出社し社員の真似ごとをやっていたことは事実である。
古関と古賀はほぼ同期ということもあり、お互いを励まし合いながら地下食堂で語り合うことが多かった。古賀はこのとき自分の音楽の夢はギター・マンドリン、プレクトラム音楽の演奏家として身を立てることを語った。現に古賀は母校の明治大学のマンドリンオーケストラを指揮・指導していた。古関が古賀と将来の夢と抱負を語り讃え、励まし合っていたということは、古賀自身がまだコロムビア入社の頃、クラシックを志向していたことになるのではなかろうか。
- 59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 20:47
- >洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。
一方、晋平の生き方とも逆に、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。
挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。
何と言っても、古関作品の残念なのは、一貫したものが見られないということだろう。
古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。
しかし、ネットなどに、戦前を含めて、この、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実に基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。
たとえば福島人脈を駆使した、古関の代表曲とされる戦後の、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)の類など、戦後を含め、ごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないものが、いつの間にか「クラッシック」(クラッシックの香り)になってしまう不思議。
「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。
「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。
なんでも、?紛い物(似非・エセという)?などはいらない!。
(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。ネットで検索すると消臭剤がでてくるはず!>)
アロマじゃないわけだから「香り」などいらない。
クラッシックに香りは不要!!。
やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。
古関の評伝に基本的に間違いが多いものが目に付く。
古関は参考にしていた作曲の本のコロムビアの山田耕筰に英国留学を相談するも、
山田に思い留まるよう説諭されたのだが、多くは、このことを知らないか、この部分が削除されているのだ。
コロムビア専属も食い違いがあるのも、このあたりに理由が潜んでいる。
NHKはすでに調査して結論をだしていることは大変重いのだが。
一応、名前も変えてあり事実ではないというのだが。
洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。
世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。
音楽家たちに求められるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。
一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。
しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。
音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。
真に人の心に届くものがなければ、年月を超えて多くの人に共感を与えることはない。
- 60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 11:54
- >>50
(重要!)
>・・実は、明大マンドリンクラブ出身で、当時のコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある先生の最初のHPに、重要な記述があって、これによると、重大な史実が隠れていて、多くはこれがパスされているようなのだ。
古関は、山田耕筰に英国留学をしたい旨相談した。
本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。
しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。
つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって止められたのです。
- 61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 12:09
- >>60,>>50
古関裕而の一番重要な点、不都合な点、これが都合の良いように後から脚色されてしまって必要以上に史実と異なるのでは困るのではないだろうか。
いかに物語と言え、基本的にじじつと逆ではいけない。その旨、事実は正しく公開しなければならない。
- 62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 14:37
- スポーツ応援歌など、耳障りなもの聞きたくもないよ!。
- 63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 20:31
- >>34
>>59
>たとえば福島コンビで、福島人脈で古関の代表曲とされる戦後の、(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)など、戦後を含めマイナ−なごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないのに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。
「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。
「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。
・・
高原列車は行く (丘灯至夫)岡本敦郎歌
ばら咲く小路 (野村俊夫)藤山一郎
雨のオランダ坂 (菊田一夫)渡辺はま子
イヨマンテの夜 (菊田一夫)伊藤久男
「高原列車は行く」・・、「長崎の鐘」「白鳥の歌」・・など含めてすべて、扱いは「歌謡曲」です。
「クラッシック」ではありません。
混同してはいけません。
エセ・クラッシックはだめ!。
(最も、昔、「歌謡曲」とは、もともとクラッシックのリートを意味したものだが。)
- 64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:18
- 古関先生には、残念ながら一貫したテーマと言えるものがみあたらない。
山田耕筰とかと話をする、話の出来る人ではなかったと思われる。
そして、クラッシクといってもクラッシク紛いでは話にもならない。
だから、チマチマしていてヒット曲というものも数の割には見当たらない。
- 65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:46
- 山田に言わせればテーマも持たない単なる作曲の職人はいらないということか。
- 66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 14:14
- テーマがないと、あちこち手を出し中途半端で大成がままならない!。
- 67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 13:32
- >>62
スポーツは万人の讃える崇高なものとしがちだが、実際は、野球やサッカーその他、オリンピックを含めて、スポーツそのものが嫌いだ、関心がない、オリンピックの間が苦痛という人も少なくないという。
スポーツ中継報道の、興奮し言葉を長〜く、引き延ばしながら絶叫するすのはやめてほしいものだ!。
- 68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 22:52
- 名曲とは・・
「名曲」であるためには、一義的には何といっても、詩ほど大切なものはないでしょう。
詩の内容が、誰でも、簡単にできない詩、短くも、簡潔なな中に、詩が重厚で凄みがあり、内容が薄っぺらで、ありきたりで一般的で、ただ受けの良いだけの、幸せだけの、美辞麗句を並べただけのものでなくて、青春の苦悩を秘めた、軽いものでないもの。
やはり、「叱られて」とか「影を慕いて」のような歴史の重みを、歴史を凝縮したような曲、「青い山脈」みたいなものでないもの、・・すばらしい!!。
「白鳥の歌」というのがある。そもそも、それ自身が短歌で完結した「歌」(短歌)であり、短歌自体が完結した歌であるのに、それを別の「歌」(歌謡曲)にしてしまう意味が分からない、歌として中途半端な歌。(「白鳥の歌」はれっきとした「歌謡曲」です。)
短いので、他の同じ短歌を二つ持ってきて、長さはかせいだものの、まだ「寂しさ」で完結してしまっていて、肝心の知りたい、その先が見えない、歌としては、詞として中途半端。
だったら、短歌のまま詠めば、もっといいのではと思ってしまう!。
曲は詩を超えることはできないのだ。
- 69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 15:25
- 参考
2013-07-12 03:37:07
エッセイ:『青い山脈』を考える@西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1
h ttps://ameblo.jp/metyagojira/entry-11570970839.html
- 70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 15:54
- >>68-69
2013-07-12 03:37:07
エッセイ:『青い山脈』を考える@西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1
h ttps://ameblo.jp/metyagojira/entry-11570970839.html
●なぜ『青い山脈』なのか
先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小 百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみ後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)
肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。
2.永遠の青春歌謡としての『青い山脈』
い つだったか、NHKが歌謡オールタイムベストテンを募集したところ、『青い山脈』がベストワンであったという調査結果が出たという事を聞いたことがある。 残念ながらその際、記録しておかなかったので、いつの調査でどんな番組だったかは筆者は記憶していない。今世紀に入ってからだと思う。いずれにしても西條 八十作詞、服部良一作曲のこの映画主題歌は1949年に国内で大ヒットしてからというもの日本人の心の中に刻み込まれている名曲であることは確かだ。毎年 の夏に放映されているNHKの『思い出のメロディー』でも、1970年代後半頃、最後の取りは藤山一郎を中心に参加歌手全員が歌う『青い山脈』や『丘は花 ざかり』だった。最初にレコードが発売されたのは1949年。東宝が石坂洋次郎の新聞連載小説『青い山脈』を映画化した折、その主題歌として作られたもの で、映画では合唱のみだがレコードでは藤山一郎と奈良光枝のデュエット形式。映画は都合1988年まで初作も含めて5作品作られたが、全ての作品の主題歌 がこの服部良一作曲、西條八十作詞による『青い山脈』が使用された。現在では原作小説や映画がほとんど影を潜めてしまったのに対して、この歌は今も日本人 の心の中に青春歌謡の代表作として生き続けている。
歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。
レ コードは映画封切りよりも3ヶ月前に先行発売されており、映画よりも早く全国でヒットしていた。この曲は服部良一お得意のジャズ調ブギウギものとは違い、 戦前から戦時下に流行した映画主題歌同様のマイナー音階で、例えば『愛染かつら』や『純情二重奏』などに近い、日本人にとって馴染みやすくヒットし易い要 素を持ったものだった。主題歌を先行発売して映画を盛り上げようと考えたのは東宝の名プロデューサー藤本澄一の商戦法だった。予想通りのこの歌のヒットは 主題歌が映画宣伝とその観客動員への役割も果たしたのである。
明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡とし
- 71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 16:06
- 明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。
ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。筆者自身は西條八十の『青い山脈』は新しく始まる戦後民主主義文化の始まりを封切るものではなく、過去との決別を意味しているのではないかと思えてな らないのだ。
『青い山脈』 西条八十作詞 服部良一作曲
1.
若く明るい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて
今日もわれらの 夢を呼ぶ
2.
古い上衣よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの旅の乙女に 鳥も啼く
3.
雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ見れば涙が またにじむ
4.
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る
- 72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 16:12
- >>69-71
・先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。
・肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。
・ 歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。
・明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。
・ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。
- 73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 17:48
- 11.石坂洋次郎 『青い山脈』 2006年3月
往年のベストセラー作家、石坂洋次郎の作品が読まれなくなって久しい。かつては本屋の書棚 を埋め尽くしていたものだが、今ではそれが懐かしい。『青い山脈』も、せいぜいその映画主題歌 がしばしば思い出のメロディーとして歌われることで記憶に残っている人が多いのではないか。 この作品が発表されたのは昭和22年。女学校で起きたにせラブレター事件を解決しようと動い た女性教師島崎雪子は、まさに戦後民主主義の申し子といった存在である。 彼女は、この事件の背後に女学生たちの野卑な精神を嗅ぎ取り、それを教室での問題として糾 弾しようとした。教室で首謀者を特定し、その非を諭すというのは彼女の論理からすれば「間違い のない」やり方であったはずだ。ましてや、首謀者が自分の行為を「学校のため」と言い逃れした のであれば、雪子にとってこれは看過できない事柄だったのである。 この事件を教室で問題として取り上げようとしたとき、これに反対したのは校医の沼田であった。 この環境で暮らす女学生たちの背景を踏まえない、直接的な方法は反感を招くばかりであること を、彼は土地の人間として十分すぎるほど知っていたのである。 『青い山脈』は戦後まもない時代の中、民主主義を謳歌した作品として受け取られがちだが、事 情はそう単純ではない。作者は戦前『若い人』を発表した際、右翼団体から不敬罪の被疑者とし て睨まれ、一時期沈黙を余儀なくされた経験がある。彼はむしろ多くの人々が「民主主義万歳」を 叫ぶ当時の風潮に違和感を覚え、読者に警鐘を鳴らそうとしていたフシがうかがえる。それは、 作品中の女学生が実に安易な形で「民主主義」を唱え、その言葉が一人歩きして島崎雪子の進 退問題にまで発展していった経緯からも明らかだ。あるいは、寺崎新子が家の窮乏を救うべく、リ ンゴの密移出を企てる場面が描かれているのも、日本版の『桜の園』とも言える太宰治の『斜陽』 とは明らかに対極的な生き方が志向されている。人間はとりあえず生きなくてはならない。欲望 や嫉妬、あるいは競争心をもった個人が混乱した時代状況の中でいかにして他者と共存し、本当 の意味での民主主義国家を築いていけるのか。作者はそのことを問いかけている。 『青い山脈』は、ヒロイン島崎雪子がこの土地の風土を理解していく物語でもある。その点で彼 女がこの土地の人間である沼田のプロポーズを受け入れるのは、いかにもこの作品の結末にふ さわしい。 しかし、当時の読者はこの作品をどの程度まで理解しえていたのであろうか。この作品が空前 の大ブームとなったことが、長い目で見ると逆に不幸だったと言えるかもしれないのだ。
- 74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 18:36
- >>69-72
「青い山脈」・・「自由奔放」!! 自由奔放/騒動=若く明るい
石坂洋次郎によって書かれた学園の集団男女交際を主題とした長編小説である。戦後間もない田舎町での、偽のラブレターに端を発した恋愛騒動を描く。物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる自由奔放な学園騒動をさわやかに描いた青春小説である。
東北地方の高等女学校で起こった偽ラブレター事件をきっかけに、男女交際について、古い慣習に捉われる旧派と自由を主張する新派の町をあげた騒動に発展していく物語で、若さ、恋愛、自由などがユーモラスを交えて描かれた代表的青春映画。
「青い山脈」・・その代表とする言葉、それは「自由奔放・騒動・戦後民主主義」でしょう。
これまでたくさんの名曲を残してきた詩人・西条八十・・困り果てた西条八十は「自由奔放、騒動」を「若く明るい」という言葉で・・言い換えているのです。
それ以外で「青い山脈」に関係する言葉は「青い山脈」という言葉しか出てきません・
「若く明るい」とは戦後民主主義の「自由奔放」ということと理解すればいいでしょう。
霧島昇・松原操の歌った昭和23年の「三百六十五夜」(西条八十作詞・古賀政男作曲)を最後に、世の中は大きく変わって、歌の世界も飲み込まれて、大きく変わってゆく、、その転換点の歌なのです。
一方、《 「若く明るい」だけでは軽い! 》>とも言われるのも事実!。
それが「青春歌謡」であるならば、そこに「青春の苦悩」が込められていないと・・
それほど明るい歌というわけでもないし。
なお、松原操は、時代の変化を感じ取ったのか、この「三百六十五夜」を最後に、歌手生活を離れ、二度と歌うことはなかった。
藤山一郎も昭和29年にレコード歌手を引退。
歌は真に真心がこもったものでない限り、真に名曲として長く愛されることは決してないでしょう。
昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)、同じ年には、同じ服部良一の「東京ブギウギ」が出ている。
しかし、それも年月とともに変わってしまうのです。
- 75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 19:24
- >>71
この「青い山脈」の歌詞には、「青い山脈」、という言葉以外、小説や映画についての
関係する言葉は認められていません。
つまり、不可欠な情緒・情感に関することは一切なく、情景に、情景だけで逃げてしまっているのです。
自由奔放では八十でも書きようがないはずです。
美辞麗句をうまく並べて使っているので、それだけに、一般受けは決して悪いわけではないようだが、誠に残念ながら、これまでの八十の重厚さというものが見られない、軽い!。
それ故、「青い山脈」が名曲とは言い難い!。
- 76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 21:45
- >>72
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。
- 77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 22:01
- 三百六十五夜
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操
1
みどりの風に おくれ毛が
やさしくゆれた 恋の夜
初めて逢(お)うた あの夜の君が
今は生命(いのち)を 賭ける君
2
たそがれ窓に 浮かぶのは
いとしき人の 旅すがた
我ゆえ歩む 道頓堀の
水の夕陽が 悲しかろ
3
鈴蘭匂う 春の夜
灯(ともしび)うるむ 秋の夜
泣いた 三百六十五夜の
愛の二人に 朝が来る
昭和23年、三百六十五夜
《蛇足》 昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。映画は雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の恋愛小説の映画化で、出演は上原謙、山根寿子、高峰秀子、堀雄二など。
古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなりました。
霧島昇と松原操は、『旅の夜風』をいっしょに歌ったのが縁となって結婚、多くのヒットを飛ばしました。松原操は子育てをするため、この歌を最後に引退して、専業主婦となりました。
翌年、昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)を比べてみると、もの。美辞麗句を並べただけの「青い山脈」はただけの味もそっけもない女学生の合唱コンクールのようなもの。
同じ西条八十の詩とは思えない!。
- 78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 22:04
- 翌年、昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)を比べてみると、美辞麗句を並べただけの「青い山脈」は同じ西条八十の詩とは思えない味もそっけもない女学生の合唱コンクールのようなもの。
- 79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/23(Sat) 21:10
- >>68-78
>>74-78
歌の世界も戦後、昭和23年あたりを境に大きく変わることとなってしまった。石坂洋二郎の「青い山脈」とは、昭和22年から新聞に連載された小説で、学園における若者の奔放な男女交際をめぐる騒動を描いた、これまでにない、たわいもないもの。これまでの、淑やかな恋愛や「価値観」が「民主主義」の名のもとに覆されてゆく。
「恋愛」というより、学園における奔放な「騒動」。
戦後の典型的な作品は「青い山脈」(1947年、石坂洋次郎)で、「自由恋愛」のもとに、明治生まれの年寄りを、若い世代が「民主的でない」と非難する場面が頻繁に出てくる。
ドラマや映画でも「お父さんは封建的」「家族会議を開くべきよ」といったせりふがよく聞かれたが、作家の関川夏央さんに言わせれば石坂作品は良くも悪くも、「戦後民主主義」を流布させる思想小説となる。そんな作品で強調されたのが「自由恋愛」だった。
『愛染かつら』三部作など、これまで数知れない沢山の名作の歌を書いてきた西条八十も困ってしまったことでしょう。
情景にすり替えられて、昭和23年の」「三百六十五夜」のように、中身,情感の部分に、あまり触れていない。
中身の情感の部分が貴いのであって、小説を知れば「若く明るい」だけでは軽い。
真の大人の歌になるためには苦悩とか心の襞もないと、西条八十もおもったはず。
確かに。自由奔放な戦後若者の恋愛騒動じゃ、若く明るいと書くくらいしかなかったのだろう。
[青い山脈」・・詩がありきたり、「若く明るい」だけでは軽い!。
曲は詩を超えることが出きない・・
- 80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/10(Mon) 11:35
- >>71
ドラマや映画でも「お父さんは封建的」「家族会議を開くべきよ」といったせりふがよく聞かれたが、作家の関川夏央さんに言わせれば石坂作品は良くも悪くも、「戦後民主主義」を流布させる思想小説となる。そんな作品で強調されたのが「自由恋愛」だった。
『愛染かつら』三部作など、これまで数知れない沢山の名作の歌を書いてきた西条八十も困ってしまったことでしょう。
情景にすり替えられて、昭和23年の」「三百六十五夜」のように、中身,情感の部分に、あまり触れていない。
中身の情感の部分が貴いのであって、小説を知れば「若く明るい」だけでは軽い。
真の大人の歌になるためには苦悩とか心の襞もないと、西条八十もおもったはず。
確かに。自由奔放な戦後若者の恋愛騒動じゃ、若く明るいと書くくらいしかなかったのだろう。
西条八十の「青い山脈」に殆ど小説や映画の内容はみあたらない。
このあたりは西条八十もどうすべきか考えた末、一番欠けた部分を創作したのだろう。
4番の歌詞・・
4.
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る
この小説映画は古い上着よさようならとあるように、古くからの貞俶、淑やかさ(古い上着)を排斥し自由奔放を勝ち取ろうとする奔放な若者に対する苦言を、八十の言葉で言い表したものだろう。
なんか古い道徳が悪いもので、それを排斥(自由奔放)してと、封建制度に立ち向かうかのように聞こえるが、決してそうではなく逆である。
それは今までの八十の作品と違った奇異なものである。
それは今、この作品(小説)がほとんど顧みられていないことに表れている。
- 81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/11(Tue) 08:14
- 参考までに戦後、[青い山脈」(1948)当時、服部良一が書いた45曲のうち、タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は以下の15曲である。編曲もすべて服部良一による。作詞者の「村雨まさを」は服部良一のペンネーム。
東京ブギウギ ???? 鈴木勝作詞????????年1月(発売時期)
さくらブギ ????? 藤浦洸作詞????????年2月
ヘイヘイブギ???? 藤浦洸作詞????????年4月
博多ブギウギ ???? 藤浦洸作詞????????年5月
大阪ブギー ????? 藤浦洸作詞????????年9月
ブギウギ時代 ???? 村雨まさを作詞??????年11月
ジャングルブギー?? 黒沢明作詞????????年11月
ホームランブギ?????サトウハチロー作詞???年7月
ジャブジャブ・ブギウギ?天城万三郎作詞?????年8月?
名古屋ブギー ???? 藤浦洸作詞??????年11月
ブギウギ娘???????村雨まさを作詞?????年12月
買い物ブギ???????村雨まさを作詞?????年7月
黒田ブギー ?????? 村雨まさを作詞???? 1950年10月
アロハブギ ?????? 尾崎無音作詞?藤浦洸補作?年2月
七福神ブギ ?????? 野村俊夫作詞???????年4月
- 82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/11(Tue) 08:27
- 参考までに戦後、[青い山脈」(1948)当時、服部良一が書いた45曲のうち、タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は以下の15曲である。編曲もすべて服部良一による。作詞者の「村雨まさを」は服部良一のペンネーム。
まさに、ブギの嵐!。
東京ブギウギ ????
さくらブギ ?????
ヘイヘイブギ????
博多ブギウギ ????
大阪ブギー ?????
ブギウギ時代 ????
ジャングルブギー??
ホームランブギ?????
ジャブジャブ・ブギウギ??
名古屋ブギー ????
ブギウギ娘???????
買い物ブギ???????
黒田ブギー ??????
アロハブギ ??????
七福神ブギ ??????
- 83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/06(Sun) 19:15
- 【服部良一】1907年10月1日―1993年1月30日
日本の作曲家、編曲家。また作詞家として村雨 まさを(むらさめ まさお)の名がある。大阪府大阪市東住吉区(現・平野区)出身。天王寺区出生。
ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
「東京ブギウギ」、「銀座カンカン娘」、「青い山脈」ほか、当時最先端のジャズなど洋楽のリズムやビートを歌謡曲に大胆に持ち込み、日本の音楽を創り上げていった”日本ポップスの父”的存在。
最新のものを単に輸入するのではなく、日本人の感性で消化し、日本独自の新しい音楽を確立していった。手がけた楽曲は3,500曲を超える。
第二次世界大戦後は、コロムビアを中心に旺盛な作曲活動を行い、戦前に実験済みだったブギのリズムを取り入れ『荒城の月ブギ』を編曲、笠置シヅ子との提携で『東京ブギウギ』『ヘイヘイブギ』、戦後のプロ野球ブームを歌った『ホームラン・ブギ』、大阪弁をモチーフにした『買物ブギ[3]』などのブギウギの名曲をヒットさせた。このほか主要な作品には、藤山一郎、奈良光枝による『青い山脈』、二葉あき子が歌った『夜のプラットホーム』(1939年に淡谷が吹き込んだが、「出征兵士の士気を殺ぐ」という理由で発禁処分)、霧島昇が歌った『夢去りぬ』・『胸の振り子』、近江敏郎と二葉あき子によるタンゴ調の『黒いパイプ』、ビクターでは灰田勝彦が歌った『東京の屋根の下』、市丸の『三味線ブギウギ』などがある。
- 84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/06(Sun) 19:20
- 1932年、当時のヒット曲「酒は涙か溜息か(歌:藤山一郎)」を剽窃したような「酒は涙よ溜息よ(歌は黒田進こと楠木繁夫)」なる曲をタイヘイの指示で書かされるが、こういった仕事をすることに嫌気がさし、1933年2月ディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。翌1934年2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。
コロムビアの専属作曲家に
1936年コロムビアの専属作曲家となった。入社第一回の作品が同年1月23日吹き込みの淡谷のり子が歌う『おしゃれ娘』で、当時最先端の音楽であったスウィングジャズのイデイオムをふんだんに取り込んだ斬新な作品であった。1937年3月吹き込みによる淡谷のり子『別れのブルース』は、黒人ブルースをベースにした作品で、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷が服部の意向を汲みアルトの音域で歌い、南里文雄に認められて一流の作曲家の仲間入りを果たす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。代表作としては、淡谷の『雨のブルース』、霧島昇・渡辺はま子の『蘇州夜曲』、中野忠晴の『チャイナ・タンゴ』、モダンの余韻を残す霧島の『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』、機知にとんだコロムビア・ナカノ・リズムボーイズの『山寺の和尚さん』、渡辺の『いとしあの星』など、いずれも大ヒットし、服部メロディーの黄金時代を迎えた。だが、太平洋戦争が始まると服部が手がけるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。そんななか、1942年に渡辺はま子の『風は海から』、1943年に李香蘭の『私の鶯』などの佳曲を発表し、軍歌一色の中で数少ない抒情性あふれる作風が評価された。
- 85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/17(Thu) 20:59
- >>75-80
ベートーヴェンの三大ピアノ・ソナタと呼ばれているものに、「月光」「熱情」と合わせ、「ピアノソナタ第8番 悲愴」というのがある。、歌には、単なるハッピーなもだけでは平板で名曲とはいえない。
「名曲」たりうるためには、悲壮性、嘆きの要素を秘めていることは重要なものとなりうるはず。
日本の名曲「叱られて」「影を慕いて」のように。
- 86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 19:46
- 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)
もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、テレビで」『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。
いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。
『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。
昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。
まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。
昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。
今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。
昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。
このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。
まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。
- 87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:01
- 映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。
「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。
・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。
詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。
「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。
なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。
そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。
別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。
古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。
- 88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:13
- ■佐藤惣之助と古賀メロディ
現代の飽食の時代を満喫している現代人にはわからない言葉がある、
故郷を捨てる・・この言葉は何のことやらわからないだろう!。
昔の日本は草深い農村だった、そして人の人生は12歳で決まってしまったのだ。
そんな中で必死で幼くして人生を切り拓くべく人生を賭した多くの青春があっただろう。
あの福島県会津の野口英世の生家の柱には、「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」の自筆で刻んだ字が。
母の力で篤志家の援助で高等小学校を出た英世、そして医学を学ぶため東京に出る時、決意を刻んだもの。
昔は自身の未来を切拓くことは、貧しい故郷を捨てることだったのだ。
実はこれは昭和30年代、集団就職もその一つ。
「古賀メロディ」とは青春の、人生の苦悩をテーマとしたものということができる。
「青春、人生」「青春の苦悩」・・・いつの世でも時代を超えて普遍性を持つ、いつの時代でも新鮮でありうる、だから時代を超えて歌われる。
詩人・佐藤惣之助の青春を見事に謳った多くの名詩。
戦後「青春歌謡」というのがはやったが、実は
「古賀メロディ」とは元祖青春歌謡。
昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。
昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。
封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。
楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。
デイックミネ27歳のときである。
古賀政男はジャズしか歌ったことのなかったデイックミネに口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。
そしてあの名曲が世に出たのだ。
藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校(東京音楽学校)出の歌手もいたのにだ。
若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。
古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。
そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある
因みに、挿入歌「聖処女の唄」(きよおとめのうた)は藤山一郎。
主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。
最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。
ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)
かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。
ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。
- 89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:27
- ☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫) 1938
- 90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:44
- 人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。 映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
唄 ディック・ミネ (昭和12年)
1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば 幼い二人して
故郷を捨てた甲斐がない
2 遠い淋しい日暮れの路で
泣いて叱った兄さんの
涙の声を忘れたか
3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
やがて輝くあけぼのに
我が世の春は きっと来る
4 生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛高らかに
この人生の並木路
- 91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 21:06
- >>87
>昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
日本がまだ貧しかった時代・・貧しいとはこういうことだった!。・・(年齢は数え)
昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕
熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。
- 92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/01(Thu) 08:16
- 当時の状況と欠食児童の社会問題化
当時日本は昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)に直面していた経緯がありました。世界恐慌の波が日本経済を危機的な状況に陥れており戦前の日本における最も深刻な恐慌でした。
当時の日本は生糸をアメリカ輸出をしていましたが生糸価格が暴落し、他の農産物も価格が崩壊、昭和5年(1930年)の豊作により農業恐慌も本格化しました。
そして、昭和6年(1931年)は一転して東北地方・北海道地方が冷害によって大凶作になりました。不況のために兼業の機会も少なくなっていた上に、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家の経済は疲弊していました。
その時全国的な規模で「欠食児童」が発生し、深刻な社会問題となっていたのです。
「欠食児童」とは特に学校へ弁当を持参できず食生活に問題を抱える子どもを指して用いられることが多くあります。
学校校給食ノ実施ニ当タリテハ貧困救済トシテ行ハルモノタルガ如キ威ヲ興フルコトナク寧ロ養護上ノ必要ニ出ヅルモノナルガ如クシ周到ナル注意ヲ払フコト(學校給食臨時施設方法に関する件より抜粋)
- 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 22:32
- 江戸時代の飢饉もさることながら昭和には言ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。(東北大凶作)
稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。
宮沢賢治の「雨にも負けず風にも負けず]も、この時の手帳に残されたメモ。
これは亡くなってから発見されたものだが、この昭和6年の東北大凶作に依って多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
この「東北大凶作」は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。
その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。
岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ「藤坂五号」という
冷害に強い品種ができた。それが昭和40年代後半だった。
3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:27
やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。
昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。
4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:32
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。
- 94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 22:48
- 江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。
昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。
今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。
現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?
- 95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 23:09
- 戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。
そして
「9月18日未明、満州事変勃発。」
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
[写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
- 96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/07(Wed) 21:03
- (参考)
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
宮沢賢治の有名な詩、宮沢賢治は昭和8年に亡くなったが、これは死後、手帳の中から発見された。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ・・
この部分は有名だが、この詩は昭和6年(1931)の冷害を叙述したもの。
最後の方に、サムサノナツハオロオロアルキとある。
- 97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/08(Thu) 13:42
- 直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。
それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。
上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。
- 98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/08(Thu) 14:40
- ■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■
平成元年1989 NHK TV (1年間毎週放送)
「荒城の月」 土井晩翠作詞、 滝廉太郎作曲 1901
「波浮の港」 野口雨情作詞、 中山晋平作曲 1928
「叱られて」 清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲 1920
「この道」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1927
「浜千鳥」 鹿島鳴秋作詞、 弘田竜太郎作曲 1919
「影を慕いて」 古賀政男作詞、 古賀政男作曲 1931.1932
「出船」 勝田香月作詞, 杉山長谷夫作曲 1928
「宵待草」 竹久夢二作詞、 多 忠亮作曲 1918
「花」 武島羽衣作詞、 滝廉太郎作曲 1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1925
日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級の大歌手・声楽家が好んで
歌い広めた歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。
- 99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:17
- 童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、
口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、
ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。
壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、
「二十四の瞳」 1954
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1
- 100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:31
- 童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。
昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。
映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で卒業を待たずに、奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。
あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3〜4の、小学校を出たばかりの女の子。
昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。
「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だったのだ。
新聞の連載[私の履歴書」に、自らの栄光の学歴と出世が書かれている。
なんとか高校(旧制)をでて、なんとか帝国大学をでて・・・
でも、その陰で、小学校を出たばかりで奉公に出されたもの、中学に進めず涙を飲んで高等小学校〈二年制)に進み世に出たものもたくさんいたでしょう。
昔はどんなに優秀でも、勉強がしたくても進学できなかったり、無理解で進学させてもらえなかったものはたくさんいたはず。
有名高校(旧制)、大学に進学できたものも、頭がよく勉強もしたでしょう。でもことによると、もっと勉強ができて、もっと学びたい者も沢山いたでしょう。
バンカラ衣装に、いい歳をした老人が集まって寮歌祭とかばか騒ぎをしているが、そうした青春を謳歌する陰に沢山の埋もれた有能な才能があったことでしょう。
日本がまだ貧しかった時代、そうして幼くして世に出た沢山の有能な才能の人たちがいて、そうした名もなき底辺の人々の支えの中に今日の日本の繁栄の基礎がある、そうした事に想いを致す事も意義が有るでしょう。
こうした飽食の時代を謳歌しているものにはわからない、日本の歴史を凝縮したような日本の名曲は良い。
- 101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:48
- 坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。
昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる日本の名曲「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また同じく日本の名曲「影を慕いて」はこの昭和3年(1928)に作られたものである。(昭和6年1月発売、ビクター盤。佐藤千夜子歌)
- 102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/13(Tue) 20:47
- 最近、「昭和歌謡」「昭和」というと、昭和末期、昭和50年代頃をさすようだ。
「昭和」とは大正15年(1926)12月25日から昭和64(1989)年1月7日まで、
61年と2週間余り。
昭和とは、明治、大正を合わせた60年より長く、日本の歴史はもちろん、中国を含めた世界のどの年号より長い。
だから、「昭和」とは60年を俯瞰したものでなければならない。
このうち前半の昭和30年代までは、日本は貧しい時代だった、そして飢饉と飢え、戦争に明け暮れた時代。
昭和6年、東北大凶作による飢饉によって、農業試験所は冷害に強いコメの研究を行い、2000種のコメを掛け合わせ藤阪五号という冷害に強いコメが出來たのは戦後も20年以上たった昭和46年だった。日本にコメが余るなどと言われるようになったのは昭和46年、50年前、つい最近だった。
農業関係者の弛まぬ努力の賜物とされる。
この昭和、・・「昭和」の初めから、昭和30,40年代・・を一貫して支えているのは50年の歴史を持つ「古賀メロディ」ただ一つ。
古賀政男の亡き後、重石をなくして、どんどんタガが外れて素人化、詩がなくなり散文化、訳の分からない、聴きとれない歌、それに、素人歌手化、ヘタクソ、グループサウンズ化、ライブ化が進む。歌というより、素人がなんか調子をつけて、訳の分からぬことを喚いているとしか言えないものに。
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