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芥川龍之介に対する卒業研究の提出用板

[1:有村 ◆7M88x/CE (2013/08/04(Sun) 16:17)]
題名の通りです。
キリ番取りはやめてください。
むだなことは書かないでください。
あくまでも提出用板です。

荒らし禁止。
成り済まし禁止。
個人情報の書き込み禁止。
AAを貼るの禁止。
私はここで起こった一切のトラブルに責任を持たない。


[29:ヒヨラ ◆//ROfdF. (2013/08/10(Sat) 18:41)]
B)心情的見地から五位について

この物語で描かれているのは、人間の中にある矛盾した二つの感情であるとかんがえられる。五位は、芋粥に飽くことを心の支えに生きていたのに、いざ願いが叶うと、支えを失った自分におろおろした。これと似たようなものが、「鼻」の中でも描かれていた。「鼻」の場合は、人の不幸に対する同情心と、もう一度不幸にしたいという傍観者の利己主義というものであった。これは、意味は違えど、大きな出来事の前後において、矛盾した感情が現れるということでは共通している。
 このような感情は、多くの人が少なからず持っていると思われる。遠足や修学旅行などの楽しいイベントなどでもそれに似たようなことは起こるだろう。なぜなら、遠足や旅行は、準備をしている時や、行きの列車の中が一番楽しかったりするからだ。 この不思議な感情についてもう少し突っ込んでみると、遠足などと違い、五位の場合はある意味消極的な願望と言える。それは、毎日の惨めな生活の一方で、芋粥という些細な楽しみを心の支えにしているからだ。しかしながら、消極的ながらもその願望は、叶う可能性は低いもの、逆に言えば大きな願望である。
 私たちの考えでは、五位が芋粥に憧れ、心の支えにしているのは、ある意味で現実逃避に近いと考えられる。叶わないとわかっているからこそ、それに憧れて安心しているのである。芋粥を腹いっぱい食べることのできない現実があるからこそ、芋粥を心の支えにして、みじめな毎日に耐えることができるのではないか。循環論法のようではあるが、この芋粥に対して叶わぬ願望を抱く姿は、適当に扱われて笑いものにされ、それを拒否できない、状況を変えられない彼の姿に重ね合わせることができる。そしてここで重要なのは、五位はその境遇から逃れたいとは思っていないということである。心の奥底、彼自身も気が付かないところで、粗末に扱われていることに一種の安心感を得ているのだ。
だから彼は、現実逃避をしつつも、本当の意味では現実から逃れられないことに安心しているのだ。そのような状態が、彼にとって一番落ち着くのである。このような歪んだ感覚はなかなか理解し難いが、大なり小なり、誰もがこのような感覚を持っているはずである。
 しかし、まともな感覚を持っている人間ならば、歪んだ感情に気が付き、それを変えようと考える。当然ながら、笑われることや、粗末に扱われることを拒否する。相手にそれを態度や言葉で示したり、あるいは笑われる原因を考えて、それを直そうとするであろう。仮にまともな人間が芋粥に憧れ、五位と同じように願望が叶ったとすると今度は、新たな願望、できるならさらに上の願望を抱くはずである。
 つまり、「気の弱い人間の消極的な願望は、叶えるためではなく憧れるためにある」ということである。また、そのような人は大抵、物事に勝手に条件をつけているのだ。例えば「願望のためには犠牲は払わない」などというものである。しかし、「いろいろな面で向上心をもち、幸福を求める」というのが普通の人間なのだ。つまり、五位のような人間は、無駄に、あるいは必要のないところまで苦労をしているということである。
だから、作者が言いたかったことは、常に向上心をもち建設的な思考をすることが大事であるということではなかろうか。


[30:ヒヨラ ◆//ROfdF. (2013/08/10(Sat) 18:45)]
sukunakutemousiwakenai

nikuduketanomu


[31:フォイ ◆ADqSEaes (2013/08/30(Fri) 22:55)]
一応八徳


[32:フォイ ◆ADqSEaes (2013/08/30(Fri) 22:55)]
0.作品背景と研究の方法
@)作品背景『芋粥』は、芥川龍之介の短編小説で、1916年9月の『新小説』に発表された。
『今昔物語』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」や『宇治拾遺物語』第1巻18話「利仁將軍暑預粥事」が題材となっていて、『鼻』と並ぶ古典翻案ものの一つと位置づけられている。
この作品は芥川の想像力を生かして、「自由」の追求がテーマとなっている。

A)あらすじと作品の評価
☆短編のためあらすじは省略します。
「今は昔、利仁の将軍といふ人ありけり。」とはじまる「今昔物語」の有名な鎮守府将軍藤原利仁のエピソードを下敷きに、芥川龍之介は「芋粥」を書いた。夏目漱石は芥川龍之介宛の手紙で前半のくだくだしさを指摘している。 その前半のくだくだしさは、終わりの部分の愚かな夢を抱いて人生を耐えていた幸福な過去への回想に結びつく。 前半がくだくだしいのであれば、終わりも蛇足と言うことになる。 だが、三好行雄は「芋粥」は理想の幻滅を描いただけの小説ではないと断じ、 「五位は確かに欲望をとげられるその瞬間に、幻滅を味わう。 しかし、彼が真に絶望したのは、自己の生の代償が巨大な五斛納釜で煮られ、狐にさえ馳走される事実に対してである。 勝ち犬の恣意によって、負け犬の生が犯される。そうした不条理な人間関係の中に、作者は青侍とともに〈世の中・・・本来の下等さ〉を見たのである。」(1950年 角川文庫版あとがき) と評価した。


[33:フォイ ◆ADqSEaes (2013/08/30(Fri) 22:56)]
B)問題設定と研究の方法
芋粥は芥川龍之介の代表作の1つである。
ゴーゴリの外套と話が似ている点から当時の芥川龍之介は海外文学に多少なりとも影響を受けていたと考えられる。
そして彼の作品はそれらを真似たものであった。また、
「自分の作品が100年後の東京の古書店に一冊でも残っててくれてたら泣いて喜ぶ。」
という彼の言葉から、自分の作品に対する自信のなさが感じられる。
確かにはなしの内容は似ているが、ここでいくつかの疑問が生じる。
外套の主人公にはアカーキイという名前が付けられているのに対し、
芋粥の主人公には”五位”という階級の名前しか与えられていない
また、五位は夢にまでみた大量の芋粥を目の前にしているのにもかかわらず食欲を失う。
そしてもう食べなくていいとなると、安堵感を覚える。

なぜなのか。これらの疑問を芋が湯に出てくる登場人物や 五位の性格から読み取ろうと思う 。


[34:(●▲●) ◆MiLSf2YY (2013/09/04(Wed) 17:33)]
あげ


[35:(●▲●) ◆MiLSf2YY (2013/09/04(Wed) 18:00)]
【連絡】
@(@)、(A)、(B)をそれぞれ三つに分けて修正する。 例:ネガケロくん((●▲●))→(@)、ポジハメくん((*^○^*))→(A)
A今日(@)、明日(A)、明後日(B)を3人でする。

どっちがいい?やらないという意見はなしで。まだまだ時間あるし。まあ@がいいと思うけど。


[36:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/09/04(Wed) 22:13)]
あげ


[37:(☆●☆) ◆7Lyxjbjs (2013/09/04(Wed) 22:18)]
どういうこと?


[38:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/11/10(Sun) 15:31)]


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