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スレ一覧
▼
日本の歴史における「男色」について
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
- 日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。
これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。
「男色」って知ってましたか?。
男色って?・・
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:44
- 男色と言うのは、「元服」がすんだ一人前の男として認められた年上の男が、元服前のまだ男(成人)になり切らない男の子(美童)
を愛することです。
元服は15歳(数え。今でいえば満13歳何カ月か)ですから、
今でいう、せいぜい中学二年位までの少年が対象です。
昔は今よりずっと小さかったでしょうから、小学校六年生くらいか。
森鴎外の小説『イタセクスアリス』に明治時代の学生間の男色が描かれている。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/14(Fri) 11:10
- 明治時代は飛び級が認められていて、13歳くらいの生徒もたくさんいたという。
秀才だった鴎外は。13歳で(旧制)高校、大学の予備門に入った。
旧制高校は全寮制で男色(美童愛)が蔓延していた。
その寮で13歳の鴎外はひげもじゃの先輩生徒に追いかけられ、危うく襲われそうになる。
そしてナイフを所持して身を守っていたという。
寮には他にも13歳の子がいて、追いかけられたり強姦されたりしていた。
目上の友達が訪ねて来たりすると、庭で遊んでいるそんな可愛い生徒〈稚児)を、無理無体に捕まえて
きて献上したという。
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:42
- 昭和東北大凶作
昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子生徒が書いた作文。
お弁当のとき先生は私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。
これは、東北・北海道を襲った昭和6年から昭和9年頃までの大凶作の真っ只中に書かれたものらしいです。現代の同年代の女子児童からは到底聞けないであろう尊敬語で綴られたこの作文からは、一体どのような光景が見えてくるでしょうか。現代の児童たちの給食風景から、上の作文のような光景の一筋でも垣間見ることはできるでしょうか。
現代では給食費滞納という贅沢な問題すら抱えている学校給食ですが、この「学校給食」というのは戦後の昭和29年に「学校給食法」によって制度化されたものらしいです。更に学校給食について遡ると、その起源は、家が貧しくて学校に弁当を持って来れない「欠食児童」と呼ばれる可哀想な子供たちに与えられていたもので、つまり学校給食を受けているという事実が直接自分の家庭が極貧であるということを意味する屈辱も同然であったといわれています。それを考えると、上で紹介した作文を書いた少女は本当にまだ救われていたほうだったのかもしれませんね。
紹介が遅くなってしまいましたが、上の女子生徒の作文と学校給食については、山下文男さんの著書「昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)から転載・参考にさせていただいたものです。何気なく手にとって購入した書籍だったのですが、予想を遥かに上回る良書だったのでご紹介したいと思い記事を書かせていただきました。東北にはそれ以前にも有名な、天明・天保の二度に渡る大飢饉が襲い、それは地獄絵図であったとか、餓鬼道に堕ちたなどとそれはもう現代では想像し得ないほど見るも無惨な光景であったと言われています。しかし、著者である山下氏は、それらの飢饉よりも自らが直に体験した昭和の大凶作に焦点を合わせ、克明にその生活の姿を書き記しています。また著者は、その大凶作の貧困な生活の中でも、サブタイトルにもある「身売り」と「欠食児童」について特に鮮明に書き記しています。フィクションのようで一切が事実であるこの衝撃が、私たちが飽食大国日本の最中を生きているということをまざまざと証明してくれているように感じられました。
ttp://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-194.html
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/20(Thu) 14:46
- 「学校給食」と言うのは戦後、学校に弁当を持ってこられない欠食児童が社会問題で、このためつくられたもの。
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/23(Tue) 22:17
- 広辞苑読んでたら腕引きっていう衆道の契りとして自分の腕を刀で傷つけ
流れ出た互いの血を啜り合うっていう風習が載ってた
なんかすごく生々しいな
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/30(Tue) 12:55
- 武家社会は、主従関係にある元服を前後してその前の若衆(わかしゅ)と元服を過ぎた念者との男色(少年愛=美童愛)、つまり衆道の契り、義兄弟の契り(=男色の契り)によって成り立っていた。
殿様の刀を捧げる小姓もまさにそのもので、昔は必ず12,3〜4の声変り前の御容姿端麗な美童であったが、最近のテレビや映画にはでてこない。
NHK大河ドラマでもよく、「義兄弟の契り」と言うのが有るが、むくつけき武士たち髭ずらのがたくさん集まって何か今の結婚式の宴会のようなことをやっている。「義兄弟の契り」とは男色の契り、つまり寝静まった頃二人だけの寝所のなかでの、抱き合い肛交に至る男色の契り、「賤(しず)のおだまき」の世界。
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/01(Thu) 09:21
- 武家社会の男色(少年愛)は、明治以降も全寮制の陸軍幼年学校(3年制、1年生は13〜15歳))の寮などで70年の伝統として
受け継がれていた。新入生と上級生との「賤(しず)のおだまき」の世界そのままに、「義兄弟の契り」が行なわれていた。
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/07(Wed) 17:17
- 賤のおだまき
近代デジタリライブラリ-
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881185
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/04(Tue) 12:51
- 軍隊特に陸軍幼年学校(全寮制)や、志願制で少年志願兵が多かった海軍では男色=少年愛が盛んだったようだ。
海軍は16歳で志願できた、また14歳の特年兵が沢山にた。
陸海軍で終戦までに42万人の少年志願兵がいた。
海兵団などで上官などから、このような男色の餌食されて手籠にされたり、綺麗な無垢な少年の細い体が弄ばれたことだろう。
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/07(Fri) 23:03
- 旧制高校や旧制中学校でも盛んに男色(少年愛)は行なわれていた。
著者にとって新京一中は決して楽しく学べる所ではなかった。一中時代の悪夢はそれだけではない。著者は入学した年の夏休み明けから寄宿舎に入る。本人にとっては初めての母離れ生活。自由を満喫できるはずであったが、しかし今日でもまま運動部に見られる上級生のいじめに遭う。六人部屋の中で、部屋の掃除、弁当箱洗いから下着の洗濯まで、軍隊における新兵同様の扱いを受ける。それだけではなかった。中世以来の武家・寺院社会よろしく、新入りの美童は、男色の対象になり、著者もすぐに目をつけられ、鶏姦される。甘やかされて、性の何たるやを知らずに育てられた少年にとっては、精神的な衝撃がひどかった。著者にとって新京一中は決して楽しく学べる所ではなかった。(渡邊昭五『昭五昭和史』藝能文化史」23号(2006.7)
ttp://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho675.htm
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/16(Sun) 11:29
- 太平洋末期には、陸海軍共に少年兵の徴募が数多く行われた。 陸海軍で終戦までに
少年兵は42万人もいたという。しかし、「純粋な愛国心などで徴募に応じた軍国
少年の多くは、 下士官の貪欲な男色の餌食になっていた」 (鈴木理生「大江戸の
正体」、三省堂2004)という。
映画「海軍特年兵」で「海兵団」で行われる厳しい訓練と罰直、「海兵団」で厳し
い訓練と指導を行うのは「教範員」という指導員、大学とか軍関係学校を出た秀才
たちと今の中学生ほどの少年兵。
厳しい訓練、でもそこで出てくる米の食事、初めて食べると喜ぶ生徒、当時の日本
の殆どがそうだった貧しい小作農の息子だ。米を作りながら米を食べたことが無い。
教範員は、彼を夜自分の個室に呼び出し境遇を聴く、彼は自殺にいたるのだが、彼
は小作で父親は大酒のみで仕事をほったらかして母親に暴力をふるう。「海兵団」
に行く前夜も彼は、母を助けて夜遅く夜が白むまで田植えをしたという。教範は、
大学まで行かせてもらった自分にはわからない生徒の境遇を知って愕然とする。
何かにつけ彼をかばおうとする。
教範員にも、教範長を含めて鬼教範員だけでなく仏の教範員と呼ばれる指導員も
いる。ちょうど今の中学生と大学生、生徒と家庭教師あるいは先生。
ちょうど「男色=少年愛」の稚児・若衆と念者の組み合わせになる年頃。もし、
男色が芽生えてきてもおかしくない・・・
特定の気に入りの生徒にやさしくしたりすることもあるだろう。海軍で兵隊はハ
ンモック(釣り床)に寝る。教範員など下士官は個室にベッド。
若い性欲旺盛な教範が寝静まった頃、お気に入りの生徒を自分の個室に呼び寄せ
る事もあっても不思議ではないだろう。
1970年に東京で元ジャズ演奏家の加藤治成が8歳の小学生男児を誘拐して殺害。
逮捕後、5年前にも同小金井で小学生6年の男児を誘拐して殺したことも自供。
二人ともアナルレイプされていた。
加藤は海軍軍楽隊にいたときにホモセクシャルに目覚め、以来、少年姦の常習者だ
ったらしい。・・
この加藤も「男色・・少年姦」を教え込まれたのは「海兵団」の「海軍軍楽隊」
〈少年軍楽兵〉の時だった。軍楽兵と言っても、野外訓練もバッターによる罰直も
変わらない。
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/19(Wed) 22:59
- なんで学校の教科書や大河ドラマとかは
男色文化を積極的に記述しないのでしょう
こんなんじゃ子供たちが日本の文化に誇りが持てない
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:32
- 白洲正子はその著書「両性具有の美」で、男色が盛んなことで知られていた薩摩藩の「郷中」と呼ばれる若衆宿で、二才(にせ)と呼ばれる年長の少年グループと稚児と呼ばれる年少のグループが男色関係で結ばれていたのは周知の事実でありながら、
意外に男色に関する文献が残っていないのは、それがあまりに日常の生活に密着したものであったとともに、一種の秘密結社を形成していたためかも知れないと書いています。
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:34
- 薩摩藩が多くの非道を行ったことを
鹿児島県人は隠したいのだろうな。
数々の奇習もある、またはあったが
犬食と男色行為は裏で存在するらしい。
衆道も、郷中教育も、示現流も島津支配を維持強化するための仕掛けだ。
自由奔放な欲求を抑え込み、既得権益者のために犠牲になることが正しい道と思い込ませる洗脳プログラム。
郷中制
肛門の結束!
肛門性交は薩摩では
ごく当たり前の行為であった。
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:36
- 【衆道(男色)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:39
- 【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。
【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。
薩摩の郷中で男色行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。
薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。
一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:41
- 【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:49
- 森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物,[賤(しず)のおだまき」という島津、薩摩藩の稚児と二才(にせ)の男色物語です。「男色」とは美童愛のこと。
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 22:10
- 「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
まさに[郷中(ごじゅう)制度]の根幹部分です。
「郷中制度」は、ちょうどこのころの島津で作られたものです。
数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との
男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1,2くらいでしょうか。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 22:54
- 鹿児島には、『郷中教育』という薩摩藩の伝統的な縦割り教育がありました(『ごじゅうきょういく』、または『ごうじゅうきょういく』とも呼ばれます)。郷中とは、町内の区画や集落単位の自治会組織のことで、今でいう町内会と考えればいいでしょう。当時、鹿児島の城下には数十戸を単位として、およそ30の郷中があったと言われます。
郷中は、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
稚児は年齢によってさらに、6・7歳〜10歳の小稚児(こちご)と11歳〜14・15歳の長稚児(おせちご)に分けられ、稚児のリーダーとして稚児頭(ちごがしら)がいました。また、二才(15・16歳〜24・25歳)のリーダーとして二才頭(にせがしら)がいて、二才と稚児の面倒をみていました。
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 23:01
- 稚児と呼ばれる武士の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い、家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古です。
長稚児たちは、夕方から二才たちが集まっている家に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省したりします。武士の子としてよくない行いがあれば注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもありました。このように、武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾(しつけ)・武芸を身につけ、勉学に勤(いそ)しみました。
年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを、人として生きていくために最も必要なこととして教えました。この郷中教育は、文禄・慶長の役(1592〜98年)のとき、残された子どもたちの風紀が乱れないように始められたと言われます。・・
という事だが、肝心の「稚児」と「二才」との「男色](少年愛)の結びつきの事や、蛮行教育については触れられていないのだ・・
【郷中教育】 >>17
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/23(Sun) 09:22
- ボーイスカウトの「郷中起源説」について。
少子化が進み、子供たちの異年齢交流の減少や地域との結びつきの低下が叫ばれるなかで、異年齢集団活動(縦割り活動)による青少年育成の試みが全国各地で行われています。
次世代育成支援事業は、国の政策の重要課題の1つです。
異年齢集団活動という点では「スカウティング」はそれを実践しています。
ドラマ「篤姫」の中に登場する下級武士の集まりは、この「郷中」の集団だったと言えます。
郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法です。似たものに会津藩の「什」があります。
教育の内容は
?武士道の義を実践せよ
?心身を鍛錬せよ
?嘘を言うな
?負けるな
?弱いものいじめをするな
?質実剛健たれ
?たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
?金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる。
4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を
?小稚児(こちご、6-10歳)
?長稚児(おせちご、11-15歳)
?二才(にせ、15-25歳)
?長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。
それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだようです。
郷中の起源は島津義弘によるとされています。
また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。 薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名です。
明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。
現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっています。
なお、イギリスで郷中が研究され、ボーイスカウト制度のもとになったという俗説もあるが、そのような事実はない(会津藩の什や白虎隊がボーイスカウトの起源とする同様の俗説もあるが、これも誤りである)。
ボーイスカウト連盟が無関係であるとの声明を出している。
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/26(Wed) 19:58
- ・徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。
・堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。
・下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/26(Wed) 20:01
- ・薩摩には戦国時代から続く 武士道的男色が残っていた。
藩士となる若者達は 地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。
二才は稚児を指導する立場で 稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。
女性との接触は以ての外で 「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。
二才と稚児が男色の関係になったのは ごく当然の成り行きと云える。
幕末の英雄である西郷隆盛も ある僧と関係を持っていたと云う。「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが 確かに当時の薩摩は男らしかった。
・その薩摩に負けず‥男色が一般的だった と云われるのが土佐である。
武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。
もし男色を拒む少年がいると 年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえて その場で強引に侵した。それには 隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も 見て見ぬ振りをした。恐ろしい 話である。
・明治維新が起きて 薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校 特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ 公然化したものであったようで、市井には 実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が大人気となった。
内容は 薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。
当時から 異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛を好む生徒は硬派と云った。入学してきた美少年は 早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。
・もう一つ男色が流行したのは 軍隊であった。明治後期に ある政治家が書いた手記には、「男子同性愛が 兵士や士官の間に非常に蔓延している」ことが記され、多くの兵士達が腕を組み手を握り合って 通りを歩いて行く姿を見掛けたと云う。
・昭和に入ってからの 軍隊での男同士の「契り」では、例えば‥陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では 70年の伝統として男色行為が行われていた。
その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。
寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。
3年生は1年生を稚児とし 契を結ぶ権利を持つ。2年生は 2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で 精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。
- 26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/13(Sun) 23:35
- 薩摩の「郷中教育」というものの実態は実は男色の結びつきであったのだ、もちろん
戦国時代当時、それは当たり前なことであったのだ、
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:09
- 習俗としての男色は、はるか縄文の昔から、脈々と日本列島で生き続け、中世から近世初頭にかけては、数多くの男色物語も生まれました。
「安寿と厨子王」のお話が、実は、厨子王のシンデレラ物語であることをご存じでしょうか。
明治になって書かれた森鴎外の「山椒大夫」では省かれていますが、姉のおかげで山椒大夫一族の迫害の手から逃れた厨子王は、天王寺の童子となり、百人の稚児の中から都の貴族に選ばれて、養子となります。
中世の稚児が男色の対象であり、養子とは、男同士の結婚の形であったことは、いうまでもありません。
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:15
- 土佐というところは、郷士、つまり土着の武士と、上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士の対立が激しくて、郷士たちは勤王党を結成し、脱藩して倒幕を志したのです。土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。
ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の「竜馬がゆく」では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、決めつけています。
しかしこれは、司馬氏らしくもない認識不足といいますか、いかにも娯楽小説らしい表現、というべきでしょう。
忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の「流離譚」(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
- 29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:18
- 薩摩士族の男色というのも有名なのですが、薩摩、土佐という土地柄は、士族の勇猛で知られますので、これは戦士の集団における同性愛、ととることもできるでしょう。
氏家幹人氏の「武士道とエロス」(講談社現代新書)によりますと、
「性愛を伴う義兄弟の関係は、戦国から江戸初期の武士社会において、ほとんど習俗といえるほど日常的に観察されたらしい。とりわけ西南日本では、この風潮が遅くまで残ったようである」
ということなのですが、またそれは、「けっして薩摩と土佐に特有なものではない」という氏家氏のお話です。
その例としてあげられておりますのが、会津藩の正史「家政実紀」に記された、天明元年(1782)、江戸時代後期の事件です。
会津藩士の青年5人が、藩の勘定頭の自宅を訪れ、仲間の一人がその家の息子とちぎりを結びたいと申し込みます。それに父親は、丁寧に応対して、「息子はまだ若いから」と断ったというだけの事件なのですが、現代の感覚からすれば、?????な話です。
- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:05
- 江戸時代でも薩摩の稚児趣味というのは有名だったようで、男色趣味を薩摩趣味と言い替えた事もあったとか。
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。
薩摩では社会的な身分関係が
1)男、2)馬、3)女
という順番で、女性と触れ合うこと(話しかけるというライトな関係を含めて)を極端に忌避したといいますので、そういったこともあったかもしれません。
女性と目が合っただけで切腹した人もいたそうです。怖い。
それはとにかく、薩摩であると尚武の風が特に強く、それだけに戦場を想定した集団の連帯感や結束が求められたというのも男色がさかんであったひとつではないですかね。
出水だったかと思いますが、稚児の中でも特別に美しい少年を「稚児様」とか「○○様(名前の様付け)」と呼び、薄化粧をさせて周囲の人間が日の掛からないように傘をさし、他郷の人間に攫われないように集団で護衛して歩いたという話も残っています。
ここには男色という一言で終わらない何かがあるような気がします。
上記した集団の結束というのも当たるでしょうし…
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:13
- 稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」(ちごもうし)の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。
ただ、薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい『稚児』(美童)への憧憬が「衆道」とある程度重なってくるのは致し方ないですし、[二才(にせ)] と[稚児]では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:31
- 「郷中」や「什」の掟にかいてあることを現代風に解釈してはならない・・
江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:45
- 薩摩の人口25〜30パーセントが武士。維新の中心的な担い手。薩摩藩のみ江戸時代末期まで郷中学校という武士の息子たちのための学校教育が実施されていた。漢文と武道(と男色!)をそこで学ぶ。
郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。
郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。
「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。・・
このように、たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の男色制度といえるでしょう。
今で言えばJr.に於ける《セクハラ、児童虐待》と同じなのです。
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:52
- 鹿児島県人でない人が薩摩を見た記録に「薩摩見聞記」がある。明治22(1889)年から3年間、宮之城に教員として赴任した旧長岡藩士・本富(ほんぶ)安四郎が書いたもの。
そのなかで、明治中期の薩摩人の風俗として「美少年の事」が書かれている。いわゆる男色、衆道のことである。
「美少年の事は是れ封建時代の蛮風」としながら、美少年の稚児が振り袖を着せられて二才(にせ)たちに護衛され、彼のために二才たちが日中は日傘を差し、夜は寝ずの番をするさまが描かれている。これが明治中期の出来事だというから驚きである。薩摩武士の間で衆道がいかに根強かったかがうかがわれる。
また同書には、二才たちの間で「賤(しず)のおだまき」が愛読されていることも書かれている。琵琶法師のつま弾きが平田三五郎の名を呼ぶくだりでは、聴く者みな一斉に「チェストー」と叫んだとある。
それほど二才たちを興奮させる平田三五郎とは何者か。年配の方はご存じかもしれない。
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と、文武両道に秀でた吉田大蔵(おおくら)清家(清盛ともいう)の男同士の愛の契りの物語
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:58
- 薩摩には鎌倉、室町から続く武士道的男色が残っていた。藩士となる若者達は地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。稚児を指導するのが二才の立場であり、稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性についてはもってのほかで、「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けるべき」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのは、ごく当然の成り行きと言えるだろう。幕末の英雄である西郷隆盛も、とある僧と関係を持っていたらしい。「九州男児」といえば男らしい事の代名詞だが、確かに当時の薩摩は男らしかった。
この薩摩に負けず男色が一般的だった、といわれるのが土佐である。武士の少年であれば、男色の契りの意味を知らぬ者はいなかったという。もし男色を拒む少年がいたとすると、年上の者が徒党を組んで家に押しかけ、少年を捕まえて強引に犯した。隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬふりをした。恐ろしい話である。
明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、一部で男色ブームが吹き荒れる。それは学校。特に全寮制の男子校で盛んであったようだ。大人気となったのが『三五郎物語(しずのおだまき)』という本。薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルであった。異性の事で頭がいっぱいの生徒は軟派、少年愛を好む生徒は硬派。入学してきた美少年は、硬派に体を狙われる運命にあった。その影響は学校の外にも現れ、街で容姿の良い少年が姿を消すと、真っ先に疑われたのが「男色好きの書生による誘惑拉致」であったという。そういった事を体験したり見聞した事は森鴎外『ヰタ・セクスアリス』をはじめ、徳富蘆花『蘆花日記』、川端康成の記録に見られる。また里見クは「少年時代、志賀直哉に惚れていた」と後に述懐している。
なお、「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 22:30
- 薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは男同士の契りを結ぶことでもあった。」
と語っています。
西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。
薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
薩摩の甲突川の貧乏士族が作っていた郷中の長は西郷隆盛で、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎たち日露戦争を戦った男たちは、その郷中で西郷の薫陶を受け、人格的な影響を受けたといわれています。
大久保利通は明治の元勲で、西郷隆盛の弟の西郷従道は海軍大臣、大山巌は陸軍大臣を務め、東郷平八郎は日本海海戦でロシアのバルティック艦隊を破った日露戦争の英雄、東郷元帥です。
この人達は全員、男色の経験者だったのです!
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:38
- 薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。
稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。
どくとるマンボウ青春記
北杜夫
新潮社 ¥540 完読
2007/02/21 17:09
詩人・斎藤茂吉の息子であり精神科医・作家である北杜夫氏の自伝小説。
一番おもしろかったのは旧制高等学校の回想。ストームといわれる野蛮きわまる大騒動、惰眠をむさぼる、罪もない下級生を集団で布団蒸しにする、「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ!」という唄声が寮内にこだまする、なんともいえない哀愁(???)がある
「ああ、青春(せいしゅーん)!」
「セー」
「アイン、ツヴァイ、ドライ!」
…なんだこのバカ騒ぎ(^^)
あと、旧制高校の先生達もチャーミングv 試験の採点基準さえもまったくチャランポランだったとか。たとえば物理の試験、答案に詩とかラクガキを描くだけで点がもらえたりしたそうな。何とうらやましい…。
旧制高校では殆どの生徒が寮に入っており、もちろん寮では男色横行、(『ヰタ・セクスアリス』森鴎外や『少年』川端康成を思い出します。)
それから夜更けまでまったく意味のないような、観念的な議論に没頭したり…こうして少年たちは知性に目覚めていくのだ。
デカンショって、デカルト+カント+ショーペンハウエル のことだったんですね…
ttp://www.hon-pro.com/cgi-bin/hon-pro.cgi?room=mental&num_q=36&mode2=list
薩摩武士の青少年教育は[郷中](学舎)で行われた。 徳育・知育・体育を大事にした。 その中の一つ、体育は主に武道(剣術)である。 秘武道”影之流”の師範家の川上四郎兵衛家は四方学舎に所属した。 四方学舎での剣術鍛錬は薬丸家の自顕流と川上家の影之流に分かれて厳しく鍛えられた。 薬丸家もまた四方学舎の舎生である。
-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を
小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-14歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。
それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。
郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。
明治維新で武士階級は消滅したが、[舎]は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:43
- 日本社会において同性愛は学生たちの間で流行した。寄宿舎や校舎など閉鎖的な制度をがかつての衆道の要素が強い「男色」を継承していた。森鴎外は、自分自身の性的経歴を書き記した作品『ウィタ・セクスアリス』(1909年)のでこう述べている。
学校には寄宿舎がある。授業が済んでから寄ってみた。ここで初めて男色
ということを聞いた。僕なんぞ同級で、毎日馬に乗って通ってくる蔭小路と
いう少年が、彼ら寄宿生たちの及ばぬ恋の対象物である。蔭小路はあまり課
業はよくできない。薄赤いほっぺたがふっくりとふくらんでいて、かわいら
しい少年であった。その少年という言葉が、男色の受け身という意味に用い
られているのも、僕のためには、新知識であった。僕に帰りがけに寄ってけ
と言った男も、僕を少年視していたのである[森1935年]。
ttp://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhistory9.htm
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:44
- 出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで,数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び,それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」,30歳までを「中老」と,三つに区分していました。
兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/umagami55163/28217859.html
ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html
実際にありましたよ。「菊華の契り」と称します。
特に薩摩藩で男色が盛んであったのは民俗学的分野からも朗かになっております。
中沢新一の著書にもあったのですが、武士集団を「兵児(へこ)」と呼び、幼少の者は「兵児山」少年期は「兵児二才」そして二十歳を過ぎると「中老」と言う風に組織だっていて、中老は少年達に、武芸や勉学、そして作法を伝授していました。その中で「菊華の契り」は行われ、契りを結べぬ者は一人前の「男」として扱われなかったそうです。
<(菊の契り)という言葉は、少年の***の形から出ており、「菊華の契り」とか「菊契」といえば、同性愛のことを意味した。その一方では、菊の華の穢れを知らぬ美しさと清冽な芳香と、寒さにもめげず咲くけなげさに、少年に純粋な心を見たからで、何事につけ光と影の両面がなくては面白くない。自然に発生した同性愛を、両性具有の思想に高めるか、ただ一過性の経験に終わるかは、それぞれに人間の器量による。
> ttp://www001.upp.so-net.ne.jp/rena/new_page_4.htm
- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:47
- 明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童 一五歳以下ノ者ハ坐(連座)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である。
明治5年(1872年)に「鶏姦条例」が制定され、ホモ行為は違法になっていた。
明治の鶏姦罪規定の経緯は、次のような経緯だ。
明治5(1872年)年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせがあった。
その答えとしての指令が、明治5年11月に「鶏姦条例」となり、明治6年(1873年)7月の新刑法中に追加挿入される。
実際に「鶏姦条例」により記録に残る処罰総数は約40件。
しかしながら、明治9年(1876年)フランス法律学者ボアソナアドが来日し「フランスでは、鶏姦であっても、双方の承諾があれば、罰したりはしない」とし、鶏姦罪は廃止に向かい、現在では述べるまでもなく、全くの個人の自由である。
「鶏姦」規定とは何か
『1873年(明治6)6月13日「改定律例」第266条「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス。其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐セス。モシ強姦スル者ハ懲役十年。未ダ成ラサル者ハ一等を減ス。」(三橋順子『女装と日本人』pp.136-137.)』
『「鶏姦」の「鶏」は本来「男をもって女となす」という意味の「(田かんむりに女)」という字だったが、同音の「鶏」に置き換えられた(瀧川1943)。明治日本は清律の「ケイ姦」条を継受して肛門性交を法的に禁じる鶏姦罪を規定したのだが、そのきっかけは、当時南九州(熊本・鹿児島県など)の学校や私塾で盛んに行われ,問題化していた学生間の男色行為を抑えるためだった(古川1997)。(三橋順子『女装と日本人』p.137.)』
『参考資料:瀧川政次郎「男姦」「鶏姦事例」『法史零篇』五星書林、1943』
『瀧川政次郎:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/瀧川政次郎「1897年5月26日 - 1992年1月29日、日本の法学者。専門は法制史。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。」』
『参考資料:古川誠「近代日本の同性愛認識の変遷:男色文化から「変態性欲」への転落まで」『季刊女子教育もんだい(多様なセクシュアリティ)』70(1997), pp.31-36.』
『ttp://www.harikatsu.com/nikka2/calen.cgi?mode=view&YMD=20040421&w=3杏野丈(針間克己)サイト掲示板『独語徘徊記録』「鶏姦罪-施行八年半の軌跡」:「明治の鶏姦罪規定の経緯/・ 明治5年某県より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせる。/・ その答えとしての指令が、明治5年11月に鶏姦条例となり、明治6年7月の新刑法中に追加挿入されることとなる。」』
ttp://queeringme.g.hatena.ne.jp/task/3/4
- 41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:49
- 【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです
薩摩藩家臣
薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。
- 42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:54
- 郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。 つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。
司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。
「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。
「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。
なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。
明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。
薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。
今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。
昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。
全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。
寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。
そして、可愛い中学生の「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の旧制中学(5年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926)
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
薩摩(今の鹿児島県と宮崎県)の「郷中制度」は、「男色」によって稚児と二才(にせ)ががったいしたものだが、
西郷隆盛の明治7年に私学校に引き継がれたが、明治10年の西南の役に
破れて後、明治10年以降は、戦前を含め「学舎」と呼ばれるところに移った。
現在でも鹿児島、宮崎県に「学舎」は10位あるようだ。現在は男色は無いのではないかと思うが。
戦前の鹿児島では、曽我どんの傘焼きの日が近づくと健児の舎を中心に稚児(ちご)たちは大人の力を借りることなく、長稚児(おせちご)や二才(にせ)たちの指導の下に傘焼きの準備に立ち働く。
この間に若者たちは、社会生活のしきたりや事に当たるときの礼儀作法、集団生活や共同作業のルールなどを身をもって体験する。
そして「議を言うな」という不言実行の郷中教育の伝統精神が涵養(かんよう)されていくのである。
『曽我どんの傘焼き』行事で、今日まで受け継がれるものがここにある。今、郷中教育が見直されつつある所以であろう。
- 43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:56
- 薩摩の男色(美童愛)の中心的なものは、郷中(ごちゅう)制度にあるが、明治に入って
西郷隆盛が明治7年に作った私学校に移った。
「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人
いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったという。
これが、西南の役(明治10年)の主な薩摩軍の戦士となった。
まだ少年の兵士がたくさんいて「田原坂の美少年」の像があるように
今の中学生くらいの少年がたくさんいたようだ。
なお、明治5年には、鶏姦律条例ができた、鶏姦とは少年相手の肛交のことだがかなり行われていたそうだ。
これは明治13年に廃止された。
薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんたいして15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、可愛がって
いたのだろう。
男色の二大秘儀は肛交と「一節切」(ひとよぎり)である。「一節切」とは、一回り小さい稚児のものを吹くこと。つまり今流にいえばフェラ。
こういうことが、学校の寄宿舎などでもおこなわれていたようだ。
寄宿舎における男色については、森鴎外の「イタセクスアリス」にもでてくる。
- 44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:59
- 薩摩の男色の一番強固なところとして、出水(いずみ)地方があげられる。現在の出水市のあたりである。そして、強いものとして天下に知れ渡った「出水兵児」(いずみへこ)がある。
出水を中心とした薩摩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織で、兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
ttp://www.hpmix.com/home/eishin7dan/index.htm
「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。
「出水兵児」の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。
ttp://www.amazon.co.jp/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E6%98%A5%E7%94%BB%E3%81%A8%E7%94%B7%E8%89%B2-%E6%97%A9%E5%B7%9D-%E8%81%9E%E5%A4%9A/dp/4309902855/ref=pd_sim_b_img_2
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_bd73.html
賤のおだまき 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8
- 45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:05
- 「小姓」といって映画で殿様の側で刀をささげ持つ前髪の少年、今では薹のたった男だったり、ひどいのは女がやっていたり、たいてい前髪でも無いが、昭和40年代位 までのテレビでは、12、3のそれはほれぼれするくらい美しく凛々しい中学1年か小学6年生位 の少年(「美童」という)の前髪姿だった。これも「男色」といって少年性愛の形で少なくとも肛門性交は欠かせない。このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は小姓組みを組織し沢山の美童を抱ていた。美童は最大の賄賂のようなものだったようだ。役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。 男の子のからだを捧げるまさしく花嫁みたいなもの。
3代家光、5代綱吉などは特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の小姓、数え13歳でお座直しとなる。この時、家光17歳。丁度、旧制中学1年生と5年生の年頃。5代将軍にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、一節切りもどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして契りあう。
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋] 三樹書房1982
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
樋口清之「史実 江戸」 芳賀書店 1967
稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
「五代将軍」など南條範男はこうした男色小説を沢山書いているので見られたい。明治時代森鴎外の小説「イタセクスアリス」に、鹿児島の熟などでは、平田三五郎という「少年」のことを書いた写 本をまわし読みする事が、元旦の習わしになっているという、男色という。平田三五郎という13歳の美童のことを書いた「賎(しず)のおだまき」という本で、 明治20年精文社版、大正5年文教社版がある。(「賎(しず)のだまき考」1998) 平田三五郎のことは、山田美妙の新体詩「少年姿」でも取り上げられている。
慶長時代、信長の時代の薩摩の島津家。襲われる藩一の美童の危難。
- 46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:08
- この時代の「男色」を描いた「五代将軍」の南條範夫によると、五代将軍吉宗は、何十人も抱えていた12,3〜4の小姓たちのために専用の御殿・桐御殿というのを
造ってそこに集めて夜の勤め・「夜伽」の待機をさせた。
「桐御殿」にはいることを「お座直し」といった。「小姓」が「夜伽」の命をおし使って「寵童」となる、つまり殿様の「閨房」に侍し肉体を捧げること、寵童となることを
「お座直し」というようになった。
- 47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:11
- 西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。
薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
話を学生に戻しますと、旧制高校の寮では下級生をチゴ、上級生をニセと呼んでいたことから、薩摩武士の影響が指摘されたみたいです。
実際、旧制高校の寮というのは、エリート向けの若衆宿ともいうべきもので、上級生たちはしばしばストームと称して下級生を襲って犯したりしたそうですが、
この旧制高校における男色又は同性愛については、森鴎外、谷崎潤一郎、徳富蘆花、里見ク、志賀直哉、川端康成など錚々たる作家が、小説や晩年になっからの回想録に書いていますが、
ttp://mblog.excite.co.jp/user/jack4afric/entry/detail/?id=9082213
- 48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:05
- 「三品彰英論文集」, 2003/6/22
いづれも興味深江い研究文集ですが、とりわけ第六巻の「新羅花郎の研究」が優れた内容で推奨に値します。 古代新羅で貴族の美少年を「花郎」と称して美々しく粧飾させ、彼に男性戦士団が奉仕していたことは、『三国史記』や『三国遺事』などの記述から夙に周知の通り。その新羅花郎の制度について詳細に研究し、さらに日本の薩摩地方に見られた稚児様に仕える士族青年たちの「兵児二才」制度や、対馬の男子盆踊り組合集団、台湾先住民諸族の男子年齢階級組織、北米先住民たちの戦士組合と成年加入式などとも比較考究してあるので、世界各地の男性ばかりの集会組織や加入儀礼に関して、かなり「面白い」考察と論考とが楽しく読めます。ttp://www.amazon.co.jp/review/R1FQEU8XV9O539
- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:08
- きの淵に流離(さすら)うる身は―――――西郷とあのひとの真の関係を? まさかな。
だがどうしても分からなくて、私は井上に問うてみた。・・
『じゃーさ、こっちから聞くけど、え〜と伊藤先生、稚児って言ったらなんでしょう?』
『…は?』『だから稚児だよ。稚児趣味の稚ー児ー』『こっちも真面目なんだよ伊藤センセー。…稚児ってなぁに?』『そりゃ……つまりそういうことだろう』
『そーそー、よく分かってるじゃん。十三歳の秋説が有名だね、我々の間では』
『十三歳の秋って……ちょっと早すぎない?!それともまだからかってンの?』
『からかってなんかないし、早くなんかないよ。陰間は早ければ早いほどいいんだ。慣れるのが早いから』『か、陰間……』
『確かさ〜僕の知ってるところでは、薩摩藩では、十歳から十四歳までを長稚児(おせちご)って言って、元服した二才(にせ)から直接監督されるらしいよ。あれとかこれとか』
言いながら井上は自分の頬の前でひらひら掌を返したり、拳を作った手から指を出したりしている。私はそれを呆然とみている。
『あれとかこれ…』
『薩摩藩は男女関係が厳しいところなんだってー。少なくとも、長州みたく、すれ違って「お久しぶりです」「まぁ御機嫌よう」なんてことは言ったりしないわけ。でも男は餓えまくり。でー、例の巨人とあのひとは同じ町内で、郷中も同じだった。郷中は知ってるよね』
地域別に設置された少年教育制度のようなものだ。
『知ってるけどさ…』
『で、巨人が元服した時点であのひとはまだ長稚児だった。元服は成人の証ということで、めでたしめでたし』『って、えー………』
ttp://balsamicmoon.net/lc-nov-nageki.html
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:20
- 戊辰戦争では、官軍薩摩と賊軍・合津が戦った。いずれも男色の盛んな土地。
合津では、薩摩の郷中に相当する「什」があった。
合津では。「白虎隊」や「二本松少年隊」など少年兵が活躍した。これに対し薩摩のむくつけき「男色」におぼれた「兵児二才」の兵たち。
会津の中学生くらいの紅顔の少年兵たち。彼らにつかまった三五郎と同じくらいの美童の少年兵。
彼らがどんなめにあうのか・・!?。
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