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日本における飢饉の歴史
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/14(Fri) 19:28
- 日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。
「飽食の時代」と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/14(Fri) 20:56
- 江戸時代の飢饉もさることながら昭和には言ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。(東北大凶作)
稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。
宮沢賢治の「雨にも負けず風にも負けず]も、この時の手帳に残されたメモ。
これは亡くなってから発見されたものだが、この東北大凶作に依って多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
この「東北大凶作」は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。
その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。
岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ「藤坂五号」という
冷害に強い品種ができた。それが昭和40年代後半だった。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:27
- やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。
昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:32
- 高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:33
- マンションや商店が立ち並ぶ、仙台の街の一角。遊郭があったと想像するのも難しく、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から「お茶っこ飲んでがい」。
間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では「昔は郭(くるわ)の女衆に反物や白足袋を売ってた。毎日、お茶飲みをしたもんだ」。
遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊り。だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。
茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。「同情したけれど、恨みつらみは聞かなかった。見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ」
亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。借金を払いきれず、その立て替えを条件に関西に「くら替え」(再身売り)が決まった女性が遊郭を抜け、鉄道の高い鉄橋から恋人と身を投げた。「道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほどいていたんだと。古里と別れ、好きな人とも別れ…。そんな人生がいやだったんだべもな」
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:36
- ttp://www.asyura.com/0601/ishihara10/msg/470.html
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:40
- 昭和東北大凶作
娘身売りと欠食児童
山下 文男(やました ふみお)著
ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
昭和初期の大恐慌と凶作の哀史を、自らの体験と資料を駆使して記録する。あの時代、あの体験を風化しないための一書。
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:42
- 昭和東北大凶作
昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子生徒が書いた作文。
お弁当のとき先生は私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。
これは、東北・北海道を襲った昭和6年から昭和9年頃までの大凶作の真っ只中に書かれたものらしいです。現代の同年代の女子児童からは到底聞けないであろう尊敬語で綴られたこの作文からは、一体どのような光景が見えてくるでしょうか。現代の児童たちの給食風景から、上の作文のような光景の一筋でも垣間見ることはできるでしょうか。
現代では給食費滞納という贅沢な問題すら抱えている学校給食ですが、この「学校給食」というのは戦後の昭和29年に「学校給食法」によって制度化されたものらしいです。更に学校給食について遡ると、その起源は、家が貧しくて学校に弁当を持って来れない「欠食児童」と呼ばれる可哀想な子供たちに与えられていたもので、つまり学校給食を受けているという事実が直接自分の家庭が極貧であるということを意味する屈辱も同然であったといわれています。それを考えると、上で紹介した作文を書いた少女は本当にまだ救われていたほうだったのかもしれませんね。
紹介が遅くなってしまいましたが、上の女子生徒の作文と学校給食については、山下文男さんの著書「昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)から転載・参考にさせていただいたものです。何気なく手にとって購入した書籍だったのですが、予想を遥かに上回る良書だったのでご紹介したいと思い記事を書かせていただきました。東北にはそれ以前にも有名な、天明・天保の二度に渡る大飢饉が襲い、それは地獄絵図であったとか、餓鬼道に堕ちたなどとそれはもう現代では想像し得ないほど見るも無惨な光景であったと言われています。しかし、著者である山下氏は、それらの飢饉よりも自らが直に体験した昭和の大凶作に焦点を合わせ、克明にその生活の姿を書き記しています。また著者は、その大凶作の貧困な生活の中でも、サブタイトルにもある「身売り」と「欠食児童」について特に鮮明に書き記しています。フィクションのようで一切が事実であるこの衝撃が、私たちが飽食大国日本の最中を生きているということをまざまざと証明してくれているように感じられました。
ttp://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-194.html
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 22:11
-
胆江地区の飢饉の歴史
ttp://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_19/vol19_2fr.htm
【参考文献】
「胆江地方の歴史」佐嶋輿四右衛門著「江刺の歴史物語」佐藤幸一著・「金ヶ崎町史」金ヶ崎町発行
「前沢町史」前沢町発行・「胆沢町史」胆沢町発行・「江刺市史」江刺市発行・「水沢市史」水沢市発行
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/20(Thu) 14:47
- 「学校給食」と言うのは戦後、学校に弁当を持ってこられない欠食児童が社会問題で、このためつくられたもの。
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/26(Fri) 20:42
- 冷害・飢饉の歴史年表
ttp://www.jomon.ne.jp/~kosamu/reigai.htm
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/28(Sun) 19:00
- 昭和20年も歴史に残る冷害凶作だった。
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/30(Tue) 13:02
- 終戦直後、「コメよこせ」と言って皇居にデモ隊が押し掛けた「コメよこせ
モ」があった。
当時は腹いっぱい、たらふく食べる事、それが国民の念願であった。
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/05(Mon) 09:53
- 日本の歴史で、米が余るなどとなったのは、つい最近、つい40年前、戦後も30年近くたった昭和46年のことであった。
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/20(Tue) 20:48
- 「お百姓さんの歌」
武内俊子作詞・丹生健夫作曲
1945
________________________________________
蓑(みの)着て 笠着て 鍬(くわ)持って
お百姓さん ご苦労さん
今年も豊年 満作で
お米が沢山 取れるよう
朝から晩まで お働き
これは終戦直後、食糧増産のためにNHKラジオで「農村に送る夕」という番組が始まり、その番組のために作られたテーマソングです。毎週放送されましたので、娯楽の少なかった当時、農家とは限らず広く愛され歌われた歌です。
なお同番組にはこの「お百姓さんの歌」とペアのようにして、もうひとつ「農家の皆さん今晩は」という主題歌もありました。こちらが番組の始め、「お百姓さんの歌」が番組の終わりにがかったのだと思います。
戦後の食糧不足は並大抵のものではなかった。
農家は保有米を少し残すだけで、全て国に供出していたからである。
私は田舎育ちだったので、学校は春と秋に農繁休暇があった。
田植えと稲刈りの時期は子供も労働力として頼りにされていた。
農業が産業としては片隅に追いやられる時代が来るとは思いもしなかった。
日本の食料自給率が問題視される状態になっている。
人の生存に必須の衣食住に関わる産業をまた産業人をもっと大切にすべきだと思う。
なお、昭和20年は冷害凶作で稲作は平年作の三部作だったという。
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/20(Tue) 21:16
- 農業の機械化が進むのは、高度成長と時期を同じにし、昭和30年代後半のことでした。
それまではまさに蓑着て傘着て鍬持ってだった。
そして子供を含めて家族親戚全員が朝から夜までするものだった。
農家も「供出」と言って、食うだけ最低限を残して政府に安く買いたたかれてしまうものだだった。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/20(Tue) 21:17
- 兵糧攻めにあった城は、戦わずして陥落が戦略の常識。
一度、包囲されて飢餓地獄におちてみればわかるだろう。
ゴキブリも平気で食うようになるし、
人の吐いたものでも平気で食うようになるし、
最後には、餓死の死人の肉も食うようになる。
それが恐ろしいから、どこの国でも自給率は手離さないんだよ。
百姓がいなければ、国の独立も主権もありえないんだよ。
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/22(Thu) 19:51
-
>>15
おひゃくしょうさんのうた
ttp://www.youtube.com/watch?v=7GSappsAc_U&feature=related
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/24(Sat) 13:14
- 遊女は一般に14歳くらいから座敷に上がり勤める。しかし遊女奉公として売られる場合はそれ以前の0幼い女の子で
[かむろ」と言われ年長の遊女について修行する、一般に貧しい農村から売られてきた。
昭和東北大凶作にも、こうした「娘の身売り」が盛んに行われたという。
こうした社会不安は太平洋戦争に至る遠因とも言われる。
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:56
- 「飽食の時代」と言われ久しい、今若者は日本に「飢饉」の歴史があったこと、食糧難の時代が有ったことすら知らない。
農家や農業関係者のたゆまぬ努力の賜である、そうした歴史の上に今日の繁栄が有ることを忘れてはならない。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 18:11
- 「お百姓さんの歌」
武内俊子作詞・丹生健夫作曲
--------------------------------------------------------------------------------
蓑(みの)着て 笠着て 鍬(くわ)持って
お百姓さん ご苦労さん
今年も豊年 満作で
お米が沢山 取れるよう
朝から晩まで お働き
蓑着て 笠着て 鍬持って
お百姓さん ご苦労さん
お米もお芋も 大根も
日本国中(にっぽんこくじゅう) 余るほど
芽を出せ実れと お働き
蓑着て 笠着て 鍬持って
お百姓さん ご苦労さん
貴方のつくった 米食べて
日本(にほん)の子供は 力持ち
誰にも負けない 力持ち
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/29(Sat) 23:07
- 「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...
農村へ送る夕べ
♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。
敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。
戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/30(Sun) 08:57
- 「農家の皆さん今晩は」
(NHK「農家に送る夕」テーマソング
作詞 山上武夫 作曲 海沼 実)
1 農家の皆さん 今晩は
一日お仕事 ごくろうさん
お疲れ直しの この時間
ラジオのおそばへ さあどうぞ
2 ぶかりと一服 お父さま
赤ちゃんにおっぱい お母さま
まあまあたんぼの お話は
ゆっくりお後で なさいませ
3 おやおや時間に なりました
おしゃべりお歌は 止めにして
それではこれから 番組を
次々お送り いたしましょう
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/30(Sun) 09:20
- 2番「ぶかり」は「ぷかり」の間違いです。
「農家に送る夕」は終戦直後のNHKラジオ毎週月曜夜8時からの放送でした。
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/02(Wed) 21:40
- 終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは,食料とエネルギー源確保のため,「農家へ送る夕」(昭和20年10月より),「炭坑へ送る夕」(昭和21年8月より)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。
- 26 名前:にゃんこ 投稿日:2013/02/17(Sun) 15:35
- 南極に飢饉はない。食料生産も人口もナツシングだから。
飢饉とは、
1,普段は食料生産が豊富。
2,でもたまに、大凶作。
3,食料の輸入や移入に障害。
だと起こる。
江戸時代の東北の飢饉はまさにこれ。
1,本来、南方系の米を増産して人口増加。
2,たまにやってくる冷害による大凶作。備え不備。
3,藩境や経済政策への無知から、西日本からの食料移入に障害。
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/02(Tue) 20:29
- 「飢餓日本史」(中島陽一郎著 雄山閣 1976年刊)という書籍がある。飢餓の歴史を丹念に追った研究所である。先行研究を綜合した中島氏の分類に従えば、この一千年間に「十六大飢餓」というものがあるという。
「飢餓日本史」の中に、飢えの現場をレポートした紀行文が紹介されている。
「飢えの年のことを訪ねると、・・・幼児を生きたまま川に流すものが多かった。人が(飢えで)死ぬと、山の木立の下に棄て、あるいは野外にそのまま棄て、川へ流したりする。イノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマを食い、また人を喰うものもでる始末だ。子が親の屍(しかばね)を、土葬するのだが、その余りを(喰らい?)皆、埋めるということはしない。いったん埋めたものを掘り起こして喰うものもいる。山中でも野外でも放置された屍を喰らうものがいた。煮たり、焼いたり、あるいは生のままでも喰う。・・・自分の子どもを殺して喰ったというものもいた。まさに人ではあるが鬼のような有様だった。この村でも二十軒ほどが死に絶え、生き残ったものは半数に過ぎない。十軒や七、八軒の小さな村には、ひとりも残らず死に絶えたところもある。とにかく、(飢えて)人の肉を煮ている時、(煮こぼれて)水滴が火中に飛び、たちまちジュと燃え上がるのは、人の肉の油によるものだが、これに過ぎる(怖ろしさは)ないというものだ。」
(前掲 167頁 高山彦九郎「北行日記」八戸藩久慈大野の記述より。現代語訳は佐藤弘弥)
怖ろしい記述である。この時の飢饉で、この八戸藩領内だけで、六万の領民の内の半数以上となる三万百五人が飢餓とそれに付随して起きた疾病が原因となって、命を失っているのである。この時、領内の治安は著しく悪くなって盗賊なども横行し、人心はすこぶる荒れてしまったことはいうまでもない。
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/02(Tue) 20:43
- やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した[要出典]。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉(東北大凶作)は、日本史上最後の飢饉といわれている。
昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。
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- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 23:21
- >>21 お百姓さんの歌
://www.youtube.com/watch?v=7GSappsAc_U
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 23:22
- ://www.youtube.com/watch?v=7GSappsAc_U
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 23:23
- http
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:02
- 「飽食の時代」と言われ久しいものがあり余る時代
ものがあり余る時代になって世の中は荒んできたし
音楽でも荒んできた。
若い女がへそ丸出しで駆けたり、レスリングで国民栄誉賞とか
いただけないことばかり。・・
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:06
- 日本はいつの間にか豊かになった。
ハッピーな時代である。
しかし、今の日本は豊かになるのと引き換えに多くのかけがえのないものを失った。
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 11:27
- 昭和6年と9年の東北大凶作による社会不安
そはその後の「太平洋戦争」に至る遠因ともされている。
昭和6年、9年の東北大凶作について
毎日新聞社、昭和31年(1956)3月刊[写真 昭和30年史]に詳しい。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/22(Mon) 14:34
- 江戸の大飢饉
〜この世に現出された凄惨な飢餓地獄〜
ttp://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_e.htm
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/24(Wed) 08:28
- 今TPPなどと言うのが関心を集めていますが、農業に関する事は
食糧問題として捉えなければならない。
日本でコメが余るなどと言われるようになったのは、つい40年前
、戦後も25年以上たった昭和46年(1971)のことです。
日本の自給率は低く、食料の大部分を海外に頼っているのです。
飽食の時代と言われ久しいですが、農業は「産業」ではありません。
農業が産業であってはならないのです。
産業なら、儲からなければやめるのです。
農業を企業のものにしてはならないのです。
「競争力」だとか盛んに言われるが、そういうことが前面にあってはならないものです。
食べるものが亡くなるということがどういうことか、
もう一度悲惨な飢饉の歴史を振り返ってみることが必要ではないでしょうか。
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/29(Mon) 22:50
- 兵糧攻めにあった城は、戦わずして陥落が戦略の常識。
一度、包囲されて飢餓地獄におちてみればわかるだろう。
ゴキブリも平気で食うようになるし、
人の吐いたものでも平気で食うようになるし、
最後には、餓死の死人の肉も食うようになる。
それが恐ろしいから、どこの国でも自給率は手離さないんだよ。
百姓がいなければ、国の独立も主権もありえないんだよ。
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- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/08/06(Thu) 19:50
- 「飽食の時代」と言われ久しい、今若者は日本に「飢饉」の歴史があったこと、食糧難の時代が有ったことすら知らない。
農家や農業関係者のたゆまぬ努力の賜である、そうした歴史の上に今日の繁栄が有ることを忘れてはならない。
- 41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 10:54
- 日本における飢饉の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50
- 42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 11:02
- >>35
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。
そして
「9月18日未明、満州事変勃発。」
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
[写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
- 43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 11:12
- 昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
・娘ことごとく売られし村
h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html
(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。
それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。
上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。
- 44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 11:17
- 日本における貧困と人身売買の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50
- 45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 14:49
- >>42-43
(参考)
仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。
解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。
作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。
厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。今回の戦闘では、全てがこれらの条件に合致しなかった」と指摘していた。
このほか、少ない食糧や弾薬補給、靴の破損など粗末な兵站(へいたん)が浮き彫りになった。衛生面も貧弱で、コレラに似た症状で多数の死者が出たり、列車内に救護所を開設したりした。
考える会の一戸富士雄会長(85)は「戦況を楽観視して防寒服の備えを考えず、(日本がロシア革命に軍事干渉した)シベリア出兵の教訓を学んでいない。装備の近代化の遅れも甚だしい。戦闘史にとどまらず、日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」と話す。
日誌は、復員業務に当たった旧陸軍関係者の遺族が1999年に仙台市歴史民俗資料館に寄贈した。資料館と共同で同会が解読に当たった。2011〜16年の資料館の年次調査報告書に分けて掲載された。連絡先は資料館022(295)3956。
[満州事変と第2師団]1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。「中国軍の謀略」と主張して軍事行動を開始し、事変が勃発した。中国東北地方を占領、1932年3月に満州国として独立させた。宮城、福島、新潟3県を徴兵管区とした第2師団は事変当時、満州に駐屯し、奉天やチチハルなどに出兵した。
h ttp://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html
- 46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 15:12
- 昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外で日本が経営する南満州鉄道会社、満鉄の線路が爆破されたのです。
現場は奉天駅から北へ約七`の柳条湖で、「張作霖の後を継いだ息子の張学良の軍隊の犯行で、日本の鉄道守備隊との間で戦闘になった」。
これが陸軍当局の発表でした。この柳条湖は、戦後も長いこと「柳条溝事件」と溝と云う字が使われてきましたが、これは陸軍省が発表の際に間違えてしまったためで、正しくは湖と書いた柳条湖です。この発表では「暴戻なる支那軍隊」と云う言葉が使われました。乱暴で非道なという意味ですが、それからの新聞には連日、まるで枕言葉のように「暴戻支那」の大見出しが躍り、「暴支膺懲」、「乱暴な支那を懲らしめよ」。こう云った国民の声に押され、関東軍はそれこそ電光石火、三か月半後には全満州を占領してしまったのです。
日本本土の三倍半に当たる面積です。
軍部も国民も、この大成功に酔いました。何しろ昭和大恐慌の真っ只中です。空前の不景気で、町には失業者が溢れ、大学を出ても就職口がありません。農村は米価暴落で欠食児童、学校へお弁当を持っていけない子供や、娘の身売りが激増していました。八方塞がりで全く先が見えず、国中が暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の赫々たる戦果です。満州事変で先陣を切って活躍したのが第二師団でした。郷土師団が凱旋した時、仙台市民は総出で手に手に日の丸の旗を持って出迎えたと云われますが、敗戦後もなお「凱旋道路」として、かつての栄光の象徴である多門師団長の名前が残っていたのです。
- 47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 17:17
- 現代は飽食の時代と言われている。ファミリーレストランやファーストフード店などに行くと、より取り見取りの食べ物がところ狭しと並び、注文しさえすれば、どんなものでもすぐに食べることが出来る便利な時代である。
しかし、客の中には、半分も食べないで席を立つ者もいるし、中には、注文しながら、ほとんど手もつけずに食べ残して去る者さえいる。彼らの頭の中では、食べ物のありがたさに感謝する気持ちなど微塵もないように思える。
しかし、ほんの百年かそこら前には、一片の食べ物もなかったばかりに多くの人間が死んでいかねばならない悲しくて長い過去があったのである。江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしているのである。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害を持たらしたとされている。
とりわけ、東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。
大飢饉の状況下では、人間の心理というものはいかに変化するのであろうか? ある記録では、飢えゆえに餓鬼に成り果てた身の毛のよだつ地獄の世界がこの地上に現出したと述べているものもある。
- 48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:34
- 寛永の大飢饉(1642〜50)では、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。その他、身売りもさかんに行われ、当時の人質証文と言われる書類が数多く残されている。しかし、その内容は農民にとってはむごいものであった。
ある身売りしたケースは、14才の女の子を担保代わりに金子3分を受け取るというものであったが、利息は大変な高利であり、貧しい百姓にとっては不可能な数字であった。つまり、払えない場合は、我が子は永久に買い取られることになっていた。買い取られた女の子は、女中として永久に奉公せねばならず、後には遊女として売られる悲惨な運命が待ち構えていたのだ。もし女の子が逃げたりすると、返済額は2倍になることもあり、死んだ場合は債務者が責任をとって代わりの女の子を進上せねばならなかった。
ある村では、4年間に60人が、127両で売られたこともあった。中には親子4人が8両足らずで身売りされたケースも残されている。これらの身売りは、凶作によって年貢が納められず、追い詰められた農民が切羽詰まって売買したものであった。このように、この時代は人身売買が飢餓から逃れるための手段として公然とまかり通っていた時代でもあったのだ。
この頃の京都の様子を伝えた「福斉物語」によると、朝夕の煙は絶え、人々はさまよう餓鬼のようで、路頭には野垂れ死にした屍骸の山がうず高く積み重なり、軒下には、赤子が捨てられ、幼児は路上に放たれてその多くは飢え死にして、犬にむさぼり食われる運命であったと記されている。
- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:42
- 天明の大飢饉(1781〜89)は、有史以来の大量死を記録した悲惨な飢饉である。長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続いた天明間は、天変地妖の時代とも言われ、人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどだった。特に東北地方では、やませ(冷たい風)による冷害で壊滅的被害を受けおびただしい餓死者を出した。天明3年(1783年)には浅間山が大爆発を起こし、火砕流によって、ふもとにあった村を焼き尽くし多くの人々が犠牲になった。3か月間続いた噴火は大量の火山弾や火山灰を吹き上げ、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけたのである。
江戸でも大風のため大火災が続発し、特に丙午(ひのえうま)であった天明6年(1786年)には、3月には箱根山が噴火し地震が相次いだ。
4月になると長雨と冷気によって稲作に悪影響を及ぼした。7月には大洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけでなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫したとある。
この現象は全国的規模で起こり、各地の田作に大被害を与えたのであった。この年だけでの日本国中の米の収穫は、例年の3/1以下と言われ、米価が15倍にまで跳ね上がった。
この飢饉の様子を記録した「後見草」(のちみぐさ)によると、津軽地方が特にひどく、日々に2千人前後の流民が発生し、他領に逃散していったが、そこでも一飯もない状態ですべて餓死に追い込まれた。ここでは、先に死んだ人間の屍体から肉を切り取って食べる者もあらわれ、人肉を犬の肉と称して売る者もいたという。
おまけに、疫病がまん延して、田畑は荒れ果て原野のようになり、そこら中、腐乱した白骨死体が道ばたに積み上げられる惨状であった。
この有り様を中世で限り無く続いた戦での死者と言えども、このたびの飢饉の餓死者に比べたら大海の一滴に過ぎないと評しているほどだ。
ある説では200万以上の人間が、この飢饉によって餓死したとも述べられており、戦乱や他の自然災害を含めても、有史以来の未曾有の大量死であったと考えられている。
道ばたに散らばる腐乱死体
「天明卯辰簗」(てんめいうたてやな)という飢饉の様子を記録した書は、飢餓下における人間の身の毛もよだつ恐ろしい話を残している。
・・・この頃になると、人を殺して食うことも珍しくなくなった。村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を得るための殺人があちこちで起こっているのだ。ある一家が、人を殺して食べたという罪で処刑されたが、この家を捜索してみると恐怖の真実が明らかとなった。大量の骸骨が散らばり、桶には塩づけにした人肉が山盛り保存されていたのである。人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・このような話が実話であると言うこと自体信じられないことだが、現世における餓鬼道の現出以外の何物でもないことは確かだ。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようで背筋が凍りつく思いである。
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:48
- 天保の飢饉(てんぽうのだいききん1832〜39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まで、すべて食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。
この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。
しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。
この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。
人々の行き倒れを描いた絵
「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。
・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と死に始めた。そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。夜が明けてみると、路上で生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。
ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。
腹を減らしてどう猛になった野犬は、腐りかけた死体の手足を食いちぎり、市中を食わえたまま走り回った。通りは死体と食いちぎられた手足が散乱し背筋も凍るような光景が広がっていた。親を失って泣き叫びながら町中をさまよう幼児は、たちまち野犬に襲われて食い殺された。
死体は、 最初、空き地に穴を掘って埋めたり、川に流したりしていたが、一日に何百人も死ぬようになってから、とても追いつかず、大きな穴を掘ってどんどん投げ込まれるようになった。川に流された死体は、水底で渦高く層をなして川をせき止めた。そのために、大雨が降るとたちまち土手が浸水して、そこら中、汚水で溢れかえることになった。村は、半分水没し、半分屍螻化した死体が、民家の軒下にまで流れ込んでくることもあった。
荒れ放題の田畑や朽ち果てた空き家などに、累々と散らばる白骨死体の山を見るとき、そこには、現実世界の無常観しか見えてこない。
この時、深刻な事態であるはずの秋田藩や八戸藩(はちのへはん)などが、どれほど窮民救済に本気で取り組んでいたのかは極めて疑わしい。
八戸藩などは、1万8千両もの金をもって越後に米を買い付けに行ったが、その帰りに米の相場が高いと知ると、その一部を売却して藩の財政を肥やすことのみ熱心であったのである。
「人の命は地球より重い」という言葉があるが、「人の命はチリよりも軽い」というのが悲しい真実のようである。
荒野に散らばる餓死した遺体の群れ
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