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山本八重は、凄い
- 1 名前:り 投稿日:2013/01/07(Mon) 13:43
- この女性は、日本の鏡
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:50
- NHK大河ドラマ「八重の桜」が始まった。
そこには会津の「什の掟」がこの物語の背骨になるかのように流され
ていた。
会津藩では藩校「日新館」入学前の6歳から9歳までの藩士の子供が、
地域ごとに組を作り「什の掟」を唱え、武士としての心構えを学び、
身に付けていった。
これが「什の掟」
1.年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
2.年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3.虚言をいふ事はなりませぬ
4.卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
5.弱い物をいぢめてはなりませぬ
6.戸外で物を食べてはなりませぬ
7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
いくつかを除いて、大方はいまでも私たちが認める価値観でもあり、
そして、その考えた方は、今日の日本でも脈々と受け継がれています。
なお付け加えると、会津藩の『什』も、薩摩藩の『郷中』も優れた「教育制度」として喧伝されてきたようだが、
これらは男色〈美童愛〉による「男色制度」でもあります。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:08
- 『什』というのは男色組織でもあるので、男(美童)だけです。女は関係無いはずですが・・
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:48
- 会津藩の「什の掟」 というのは女は馬以下の薩摩藩の「郷中」の掟にそっくり。
7番には
7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
とあるように
女は馬以下の男社会だから
女が 「什の掟」だなんて史実に於いても間違いデタラメだろう。
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 22:07
- 会津藩は薩摩、土佐などと並び男色の盛んな土地柄だった。(ご法度などと書いてるのもあるが)
会津藩では男色の集/団/強/姦もあったのだ。
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/23(Sat) 23:03
- 今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公は新島八重。2012年は平清盛、2011年は徳川秀忠の正室・江、2010年は坂本龍馬を扱うなど、よく知られた歴史上の人物を取り上げる大河ドラマのなかで、新島八重はかなりマイナーな人物です。視聴率はこれまでの最低だった[平清盛]をぬて15%を切って12%と最低
とのこと。
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 15:04
- 2013/04/08(月)
八重の桜またも最低視聴率更新
まさかの11.7%
税金の無駄遣い確定
一話あたり制作費6000万円
震災復興予算も使って潔癖クリーンな会津武士を宣伝するも共感得られず
地震のときに西日本にも助けてもらった恩をアダで返してきたツケか
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 15:06
- 会津ならではの男色風俗を描けば、大いに視聴率アップするだろう
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 15:44
- 忠義の人容保とか会津藩の悲劇とか黴の生えた同情史観が
震災被害と相まって復活するのは許しがたい。
優柔不断で会津民はもとより東北諸般に多大な迷惑をかけた容保及び会津藩首脳を
大河板でしっかりと叩いていこう
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:02
- 会津藩が領民に畳を持たせて弾除けにしたり、
落城後の逃亡中に、郡山など東北各地で略奪・放火したことは史料に残っています。
(2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号・英国公使館員ウィリアム=ウィリスの記述)
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:06
- 籠城に備えて会津藩首脳は領民を見捨てて城を閉ざし城下に火を放ちました。百姓には畳を構えさせ弾除けとしたそうです。
会津側に捕縛された官軍兵は手足を縛られ腹を捌かれて皆殺しにされたという英国人の記述があります
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:12
- 会津のために戦う美少年たち
獣欲に駆られた鬼畜薩長
生け捕りにされた少年たちは奴隷として
売られたって本当?
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:17
- 「会津側の度をはずれた残酷さを物語るはなしをたくさん聞いた。たとえば長
岡で、かれらは御門側の病院にいた負傷者と医者を皆殺しにしたという。また
越後を敗走中、女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者はすべて殺し
たという。他方、会津の領内に入ると、御門の軍隊が各地で略奪をはたらき、
百姓の道具まで盗んだというはなしを聞いて、これらのはなしのどこまでが本
当なのかわからないが、戦闘にともなう残酷な人命の犠牲が、戦場が若松に近
づくにつれて、いっそうはげしさをましていったことは疑えない。」
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:24
- 会津もそうだが男色の盛んな薩摩
その獣欲の鬼蓄薩摩兵に掴まった会津の少年兵が
どんな目に遭うか想像に難くない・・・
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:29
- 会津と薩摩
男色(美童愛)の盛んな藩同志の戦争
少年兵は哀れ・・
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 18:53
- 会津犬絶滅
薩摩兵に喰われ絶滅しました
原野の屍は武士百姓問わず肝臓が抜き取られ
地獄絵図のような有り様でした。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 19:07
- 会津人から土地、金、女、子供・・・・・・全てを奪った薩長。
死体でさえ好んで死姦、
会津の犬が激減したあとは子供が激減した。
欧米に奴隷として売られたり、薩摩で男色の相手や妾
をさせられたか。
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 16:55
- 会津藩では、人妻と密通した場合、密通男女を市中に晒した上、男は男根を切り、女は鼻を削ぎ、後家や人の娘を犯した場合、密夫の額に火印を施すことなっていた([会津藩家世実記」第二巻
)。
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 21:57
- 白虎隊が対峙した薩摩軍の指揮官は18歳って本当ですか?
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/21(Tue) 22:02
- 白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:08
- 会津藩では、以前から天下の形勢によって戦争がおこる ことを考えていました。ですから、鳥羽伏見の戦いの反省から、慶応4年3月の軍制の改革にとりかかっていました。いままでの古いやり方を新しいフランス式のものに なおしたのです。
それには、あくまで戦力に重きをおいて、次のように年齢によって組織をあらためたばかりでなく、武器や弾薬の買い入れにも力をそそぎました。
1、玄武隊(げんぶたい):50歳以上
1、青龍隊(せいりゅうたい):49歳以下、36歳まで
1、朱雀隊(すざくたい):35歳以下、18歳まで
1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで※のちに16歳まで
他に、幼少組:15歳、14歳)
このうち、もっとも強い 朱雀隊を主力として第1線にくりだし、それに続く、青龍隊に国境をまもらせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は その後備えにとっておく方針でした。
5月になりますと、攻めてくると新政府軍にたいして、どのように防いだらよいか、お城のなかでは毎日のように、評議(相談する会議)が重ねられました。けれども全部を合わせても15000〜16000人しかいない、兵では思うようには いきませんでした。
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:12
- 護衛隊 (ごえいたい)
13〜15歳の少年有志で編成。
城内の守備を行ない、開城まで奮戦。
後に第6代大阪市長を務めた池上四郎の兄/三郎も加入し、篭城戦を戦いぬいた。
中軍護衛隊 約50名 隊長:西郷寧太郎
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:14
- 年少隊 (ねんしょうたい、幼少隊、ようしょうたい)
14歳から15歳で編成。
士中、寄合一中隊で構成。
城下で戦うも、多くが戦死。
年少隊 (幼少隊) 約100名 隊長:安部井登
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:18
- ◆白虎隊
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:30
- 戊辰の少年兵たち
戦争には悲劇か必ず起こる。二本松少年隊もその一つである。戊辰戦争では、多くの血気盛んな少年達が参加し、命を落とした。最も有名なものに会津白虎隊がある。会津白虎隊も二本松少年隊も成り立ちが似ており、その行動も似ている為、白虎隊を解説すれば二本松少年隊の悲劇も解説できてしまうと思われ、これまで二本松少年隊が脚光を浴びる事は少なかった。ところが実際は立場がまったく違う。白虎隊は戦争の当事国である会津藩の少年達で作られた。会津藩は少なくても、戦争するか無条件降伏するかという決定権は持っていた。会津藩は戦争の道を選び、白虎隊は戦ったのである。これに対して二本松藩は当事国ではなく、どちらかと言えば戦争に巻き込まれた藩だ。明治新政府に二本松藩を滅ぼす意志は無いが、戦いを挑まれれば戦わざるを得ない。二本松藩も明治新政府と戦う理由は無かった。しかし、置かれた立場から戦わざるを得なかった。その二本松藩の少年達で作られた部隊が二本松少年隊なのだ。つまり会津白虎隊と二本松少年隊という二つの悲劇は、まったく別々の悲劇を物語っている。
白河城の敗報が届く中、七月二十六日早朝に、少年達にも出陣命令が下される。当初会津藩の白虎隊と同様に十六歳十五歳までとされたが、十四歳十三歳の少年達も出陣を強く希望した。藩庁はさすがに十三歳という少年に戦争させる事は忍びなかったが、主力がまったくいない今、彼らに頼らざるを得ず、出陣を黙認する形で認める事となる。明日の二本松藩を背負って立つ少年達である。心中苦しかっただろう。
- 26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:38
- 会津白虎隊と並び称されることがあるものの、白虎隊士の構成年齢が16〜17歳だったことに対し、二本松少年隊のそれは
最年少隊士の年齢がわずか12歳でした。現在でいえば、まだ小学生でしかない彼らが激戦区の最前線で戦い、時には単独で雲霞
のごとき大軍の中に斬り込み、壮絶な戦死を遂げたりしているのです。
会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊はまさしく二本松武士道の昇華そのものと言っていいでありましょう。
出陣に先立ち、岡山篤次郎(13)は母に頼んでその所持品すべてに
「二本松藩士 岡山篤次郎十三歳」と記名してもらいました。その理由はというと、
「自分で書くのは字が下手で恥ずかしいから母に頼みました。書いてもらった理由は、
戦死した時に、その屍を探しやすいようにするためです」と答えたそうです。
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:47
- 戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算すると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。二本松少年隊は藩内各地に出陣した62名を指すが、藩の西洋流(高島流)砲術師範(元は同じ砲術の武衛流師範で後に江戸留学の際に西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷して称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。
戊辰戦争が始まり、奥州は未曾有の危機にありました。西軍は鳥羽・伏見の戦いで東軍を
破り北上を続け、慶応四年(1868)潤四月、白河城へ入城、ついに奥州の地を踏んだのです
白河口では激しい攻防戦が幾度となく繰り返されました。会津の援軍として、二本松もその
戦地に赴きました。大激戦でした。多くの二本松藩士が命を落としていったのです。白河城
侵略を皮切りに西軍は奥州の地を北上し、慶応四年七月に二本松の目前にある本宮へと
軍を進めたのです。当時、二本松藩はその主力を須賀川方面においていました。その欠を
補うために、六十歳以上の男子で結成された老人隊、そして十二歳から十七歳の幼い少年
六十二名で結成された少年隊が出陣と相成ったのです。
二本松少年隊
?隊長 ★木村銃太郎 22歳
?副隊長★二階堂衛守 33歳
?歳 ☆久保豊三郎
?歳 上田孫三郎 ★高橋辰治 ★徳田鉄吉 ★岡山篤次郎 ☆大島七郎 ☆小川安次郎 ★遊佐辰弥 後藤タ太 高橋源十郎
?歳 ★成田才次郎 成田虎治 武谷剛介 全田熊吉 宗形幸吉 馬場定治 水野進 鈴木松之助 ★木村丈太郎 渡辺駒之助
?歳 ★奥田午之介 ☆久保鉄次郎 ☆三浦行蔵 安部井壮蔵
?歳 ★大桶 勝十郎
☆は負傷者、★は戦死を示す。
12歳の久保豊三郎と、15歳の久保鉄次郎は兄弟であり、兄鉄次郎は病弱でありながらも、「豊三郎までがいったのに、おめおめとねている訳にはいきません」と言って母親を振り切り、弟のあとに続いたという。その後2人は負傷して称念寺に運ばれたが、おたがいのことを知らないままに12月、弟の豊三郎が先に亡くなったとされている。
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:47
- ?は・です。
- 29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 07:49
- 二本松少年隊
隊長 ★木村銃太郎 22歳
副隊長★二階堂衛守 33歳
12歳 ☆久保豊三郎
13歳 上田孫三郎 ★高橋辰治 ★徳田鉄吉 ★岡山篤次郎 ☆大島七郎 ☆小川安次郎 ★遊佐辰弥 後藤タ太 高橋源十郎
14歳 ★成田才次郎 成田虎治 武谷剛介 全田熊吉 宗形幸吉 馬場定治 水野進 鈴木松之助 ★木村丈太郎 渡辺駒之助
15歳 ★奥田午之介 ☆久保鉄次郎 ☆三浦行蔵 安部井壮蔵
17歳 ★大桶 勝十郎
☆は負傷者、★は戦死を示す。
12歳の久保豊三郎と、15歳の久保鉄次郎は兄弟であり、兄鉄次郎は病弱でありながらも、「豊三郎までがいったのに、おめおめとねている訳にはいきません」と言って母親を振り切り、弟のあとに続いたという。その後2人は負傷して称念寺に運ばれたが、おたがいのことを知らないままに12月、弟の豊三郎が先に亡くなったとされている。
- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 08:16
- 「戊辰戦争」としてとらえると、会津藩だけでなく二本松藩を始め東北諸藩が参加。
この「戊辰戦争」には、多くの少年兵が参加していることが分かる。
主に戦った相手は、「男色」の盛んな薩摩であった。
会津藩では・・
白虎隊(15(のちに16歳)から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた。)
年小隊(13〜15歳の少年有志で編成)100名
護衛隊(14〜15歳の少年有志で編成。)50名
二本松藩では・・
二本松少年隊(12歳から17歳の幼い少年62名で結成された少年隊)
薩摩の軍勢が,ちょうど「男色」における「二才(にせ)」の齢であるのに対し、
ほんの12,3〜4の「稚児」にあたる少年兵たちが活躍した会津や二本松藩・・
生け捕りにされたりした少年兵もいただろうが哀れ
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 08:40
- 戊辰(ぼしん)戦争に出征した幼い少年兵たちの証言をまとめた「十二歳の戊辰戦争」(現代書館刊)を出版した。明治維新の下、戦争に苦しみ、逆境に立ち向かった子どもたちに光を当てたい−。本には、そんな林さんの思いが詰まっている。
登場するのは、幕末の二本松藩(福島県二本松市)の12−17歳の「二本松少年隊」、新選組に14人ほどいた少年兵、会津藩(同県会津地方)の16−17歳の武家の男子で構成された「白虎隊」、少女でつくられた部隊「会津娘子軍」など。文献や史料に残る少年少女24人の聞き書きなどを集め、現代語に訳してまとめた。
林さんは2007年、二本松少年隊をモデルにした小説「母成(ぼなり)峠 そして少年は戦場に消えた」を自費出版。少年兵やその母たちの悲劇を描き、以来、激動の時代や戦争を生きた子どもたちの存在に関心を寄せていたという。「当時の子どもたちは、戦争という言葉の意味や恐ろしさを知らず、戦場に駆り出されたと想像できる」といい、「現代の子どもたちにも、歴史の裏側を見るという意味で、ぜひ読んでほしい」と語る。
四六判、270ページ。2100円。現代書館=03(3221)1321。
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 08:55
- 徳川慶喜は慶応三年十月十四日大政奉還を行い、徳川幕府は260年余で幕が閉じられました。
大政奉還後も左幕派の薩・長に対する反目がひどく、遂に幕府は薩長と鳥羽・伏見に戦いましたが大敗し、慶喜は江戸城に戻り謹慎の意を表しました。
慶応四年二月五日、徳川慶喜を追討するため東征大総督有栖川宮熾仁親王が京都を立ちました。朝廷軍(官軍)は5万の兵で江戸城攻撃の態勢を整えましたが、幕臣勝海舟と総督府参謀西郷隆盛との交渉によって、平和裡に慶応四年四月十一日、江戸城の明渡しが行われました。
これに不服の旧幕臣は、10日から11日夜にかけて大量に江戸を脱出しました。
歩兵奉行大鳥圭介を統括とする軍は、市川国府台に集結し下野から会津に入り、仙台を経由して函館まで転戦しました。
徳川海軍副総裁榎本武揚の徳川艦隊は、官軍への艦隊引渡しを拒否して品川から館山に脱走し、仙台を経て大鳥軍と合流し函館まで転戦しました。
北日本においても会津藩、庄内藩が中心となり仙台藩、米沢藩、長岡藩による奥羽越列藩同盟の連立を企て、官軍に徹底抗戦を行ないました。
なかでも上野寛永寺での彰義隊の自決、長岡藩・河合継之助は長岡藩中立独立国を目指すが官軍に聞き入れられず抗戦・戦死、会津藩は白虎隊の自決などの悲惨な状況下で松平容保中心にした徹底抗戦、そして函館・五稜郭での最後の抵抗などがよく知られています。
また、下総・上総でも撤兵頭福田八郎左衛門が率いる撤兵隊(さっぺいたい)が、霊岸島から船で脱出し、本陣を真里谷に置き抗戦を繰り返しました。
これらの旧幕臣による官軍への一連の戦いが『戊辰戦争』です。
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 09:03
- 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 09:07
- 明治元年(1868)
二本松城を占領した新政府軍は、東部の藩境母成峠・石莚口を攻撃。伝習隊、土方歳三の新選組、猪苗代城の会津兵が応戦したが守りきれず退却した。会津軍は進路の日橋川にかかる十六橋を破壊して新政府軍を止めようとしたが間に合わず、退いて戸ノ口原で決戦するべく鶴ヶ城に援軍を頼んだ。(この時滝沢本陣から派遣されたのが飯盛山で自刃した白虎士中二番隊である。)。
戸ノ口原をも突破した新政府軍は滝沢峠から若松城下に侵入し、甲賀町郭門はじめ北側各郭門を突破し鶴ヶ城に迫ってきた。城内は手薄であったため、郭内の武士の家族は半鐘を合図に続々と入城したが、西郷一族を始め婦人や老人・子供の多くが足手まといになるのを恐れて自刃した。新政府軍はいったん市街地を引き上げ帰城する会津軍の包囲網をしいたので、援軍はなかなか入城できなかった。また郭外では佐川官兵衛率いる会津軍が各地で転戦した。一方新政府軍は小田山から鶴ヶ城に向けて砲撃を繰り返したので、城内に犠牲者が続出した。
それでも一ヶ月の籠城に耐えたが、米沢藩の勧めもあってついに降伏。甲賀町通りで降伏式が行われた。すでに若松の町は大部分が焦土と化していた。
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 09:32
- 同盟軍が二本松城の南大壇口に急いで防禦線を張ったとき、この主力の一部は数
え年で十二歳から十七歳までの少年兵(二本松少年隊)であった。彼ら総勢六十数名は二十歳の隊長
木村銃太郎に引率されて深い霧の中で陣を敷いた。
■やがて夜明けの霧が晴れようとしたころ、正面の敵の猛攻撃が始まった。砲弾は
目の前の松林で凄まじい勢いで破裂し、銃弾は無数に飛んでくる。少年らも負けず
に重い百匁銃で応戦したが仲間はばたばたと倒されていった。乱戦のさなか一弾が
隊長木村銃太郎の二の腕を貫き、つづく一弾が腰に命中した。木村はドーッと倒れ
た。「この傷では城まで行けない。早く己の首をとれ!」と叫んだ。少年たちは泣
きながら隊長の首を斬り、あまり重いので二人がかりで髪を掴んで退却した。
■背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年
隊も二十二名の戦死者を出した。会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽
組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇の街道
筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだし
て敗退した。
■その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は
会津へ逃れた。戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめ
とする重臣内藤四郎兵衛・服部久左衛門・丹羽和左衛門・阿部井又之丞・千賀孫右
衛門ら七名は本丸に火を放ち、従容として国難に殉じた。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:32
- 福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.r.ribbon.to/books/yamato.htm
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 07:41
- 林 洋海 (著) 「十二歳の戊辰戦争」]現代書館
03(3221)1321。 四六判、270ページ。2100円。
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 07:43
- >>37
戊辰戦争には多くの少年兵が戦場に駆り出されている。彼らは大人に伍して戦い、戦場に散った。二本松少年隊・少年新選組・衝鋒隊少年隊士・白虎隊・長州干城隊少年隊士など、少年兵の聞き書きを、現代文で読みやすくした記録と時代背景。
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 08:51
- 薩摩は分捕隊がまず人家に乱入
会津籠城時、少年たちが唐人凧をあげて見方の士気を鼓舞
殿様を守る護衛隊として白虎隊より年少の10〜15歳
隊長は西郷寧太郎
べろくん出し という奇怪な鬼のような唐人が舌を出している絵柄の凧
真夜中に女が自分の焼け跡に行き沢庵や大根のおろしがねを拾って帰る。重宝がられ皆が貸してくれという。
戦った婦女子は江戸や京都詰め
生まれて初めて故郷に帰り、町も知らずどこに逃げていいか分からない人も。
会津で婦女子の教育はしていなかったが、江戸や京都にいたから勉強も武芸もでき、プライドも高かった。身内が鳥羽伏見で亡くなった人も。
男性は女まで出したとか恥ずかしいからやめてと言ったが聞かなかった。
上級士族の婦女子は率先して看護、炊き出し、弾薬作り。
じゃないと一ヶ月も籠城はもたなかったのでは。
砲丸が城中に落下すると、婦女子が水を浸した蓆や俵で覆って消す。
衣服の汚れも顧みず、手当てや炊き出しも奮闘。
最後の時には白無垢で、薙刀にて敵陣へ切り込み果てる覚悟。
「我々の無念を、全員死ぬ事で百年後の歴史に問う」
会津避難の半鐘を鳴らしたのは城下に侵入されてから。人がいなかった。
武器もなく、老人白虎隊、藩兵の妻娘ばかり。武器も槍と火縄銃くらい。
敵に捉えられ屈辱を受ける婦女子も続出
白河口から攻めた兵、老婆を溝に叩きのめし殺害
服も食物もなく、脱走や自殺する者も。
降参と大書した白旗を城門に。
- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 09:43
- 護衛隊
この日、西郷寧太郎建議し十三歳より十五歳に至る有志の少年隊を組織し、名づけて中軍護衛隊と云う〔護衛隊〕、寧太郎その隊長を命ぜらる。
八月二十六日、我が公大庭恭平をして古屋佐久左衛門に賜う所の親書を携え高久の本営に至らしむ、折柄西軍高瀬口より高久を襲撃し我が軍利あらず、兵を小荒井に収む、恭平すなわち小荒井に至り、公の親書を佐久左衛門に致す、時に衝鋒隊瓦解の状あり、恭平百方説いて隊勢を維持せしむ、佐久左衛門は大鳥圭介と共に猪苗代進撃の議を唱ひ将士を率いて猪苗代に向いたれば、上田八郎右衛門は恭平をして追跡して進撃のことを謀らしむ、圭介、佐久左衛門いわく、兵粮弾薬は乏しく戦うべからず、今、小笠原侯、板倉侯、福島に在り、我ら福島に至り進撃を謀るべしと、隊兵ことごとく福島に赴く、恭平等止むを得ず共に福島に至る〔大庭恭平書出、南摩綱紀筆記〕。
- 41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 10:03
- 会津の少年兵
他にも、あったようだが混乱のため残っていないようだ。
・白虎隊 (びゃっこたい)
16歳から17歳までの藩士の男子で構成。
当初は15歳からだったが、15歳は戦闘不向きとの理由で、16歳からとなった。
元々は警備隊で、士中隊は藩主の親衛隊、寄合隊は予備隊である。
悲劇を生んだ部隊は、士中二番隊である。
総督:黒河内式部
士中一番隊
49名 隊長:春日和泉
士中二番隊
42名 隊長:日向内記
寄合一番隊
106名 隊長:原 早太 → 望月辰太郎
寄合二番隊
67名 隊長:太田小兵衛
足軽一番隊
79名 隊長:日向弥志□
足軽二番隊
隊長:唐木助之進
( 総 勢 ) 343名
・護衛隊 (ごえいたい)
13〜15歳の少年有志で編成。
城内の守備を行ない、開城まで奮戦。
後に第6代大阪市長を務めた池上四郎の兄/三郎も加入し、篭城戦を戦いぬいた。
中軍護衛隊 約50名 隊長:西郷寧太郎
・年少隊 (ねんしょうたい、幼少隊、ようしょうたい)
14歳から15歳で編成。
士中、寄合一中隊で構成。
城下で戦うも、多くが戦死。
年少隊 (幼少隊) 約100名 隊長:安部井登
- 42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 11:35
- 黒河内 良
くろこうち・りょう
(1856〜1921)
会津藩士。
江戸藩邸で出生。会津では日新館に学ぶ。
1868年(慶応4年)戊辰戦争時は13歳、護衛隊に属して参戦。
会津藩降伏後、永岡久茂らと関係を持ち、自らも巡査となって千葉に赴く。のちに思案橋事件に際し、永岡らが密議発覚して捕えられ、良も捕えられて懲役3年の刑を受く。
出獄後、北海道開拓使、警視庁勤務などののち青森県警部長となる。
墓は東京都港区芝白金興禅寺。
- 43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 11:58
- >>38
衝鋒隊(しょうほうたい)とは、幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門が結成した組織。戊辰戦争で関東、越後、箱館を転戦した。副隊長に剣客今井信郎。
- 44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 20:12
- 会津戦争:哀れ、埋もれた存在の少年達発掘
白虎隊の他にも、もっと沢山の少年達が埋もれています。隊の名が不明ながら、
明らかに年少者が集まった隊が、皆の記憶に、存在。原因は苦戦による混乱情報錯綜の他、
悲しいことに、身分差別なども絡んでいます。後の世、弔いを心掛けた者さえも挫折。
その訳は、姓を持たぬ者の情報整理が不可能だった。
雑用係(俗事係)として、幽閉同然の扱いを受けた少年二人
雑役係として、拘束された2人
■抜井将八、
■土井類吉
この2人の戦時詳細不詳(?15歳以下)
新政府は、明治2年1月皆の東京謹慎護送の際に、幼年少年を2人連れて行った。
この2人が解放されるは、明治3年春。
幼いので人畜無害だから使役した!薩長の腹黒さ!と文章は完全に怒っている。
▼
将来国家有望の少年をして空しく一年有半幽窓の下に繋ぎたる
薩長の暴政是を以て知るに足る 。
- 45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 23:06
- 昔の年齢の数え方は「数え」と言って、生まれた時が1歳、それに正月で1歳年をとるもの。
12月31日生れは、翌1月1日には2歳になる。
これは昭和24年まで続いた。
だから、たとえば15歳というのは満13歳と何カ月。中二だ。
最近のドラマなどは、年齢の数え方がでたらめ。
昔は15なんて、まだ発育が小さかったろう。
白虎隊なんて映画やドラマでは、16歳だからと、そのまま現在の16歳。
ほとんどが高校生や大学生みたいな異様な
白虎隊。
昭和30年代の13歳、中学二年生男子、昔の15歳の身長の平均は文部省統計では146センチ位。
- 46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/09(Tue) 22:08
- 約50年前、昭和36年、文部省統計によると、13歳中学二年生男子の平均身長は146センチ。
- 47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/21(Sun) 11:41
- 昔の16,7歳とは、満で言えば14歳何カ月から、15歳何カ月。
体格的にはせいぜい12〜14歳くらいだろう。
- 48 名前:この投稿は削除されました 投稿日:この投稿は削除されました
- この投稿は削除されました
- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/13(Thu) 11:03
- 林 洋海 (著) 「十二歳の戊辰戦争」]現代書館
03(3221)1321。
四六判、270ページ。2100円。
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/24(Tue) 21:27
- 『平太の戊辰戦争 ─少年兵が見た会津藩の落日─』
─内戦における医療と人肉嗜食(Cannibalism)も記載─
蒲原 宏
昭和11年生まれの著者は東北大学文学部国史学科出身のノンフィクション作家。明治戊辰戦争の会津藩の動向について『奥羽越列藩同盟』『会津落城』(中公新書)を初め10数冊の著作があり、何れも読み易く、面白い。
この作品は長岡市立図書館に平太の末裔遠藤進氏(横浜市住)が昭和62年に寄贈した『会津戊辰戦争従軍記』という後藤平太(1853?)の従軍日記を基にしてまとめたもの。
すでに平成10年角川書店から『平太の戊辰戦争』として出版されたが、加筆訂正してKKベストセラーズからベスト新書302として出版された。
○
現在の福島県大沼郡美里町(旧本郷村)に嘉永6年(1853)3月18日窯業を営む虎之助の長男として平太は生まれた。文久2年(1862)会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられると、本郷村の陶工にも藩から兵役の義務が課せられた。41歳の父虎之助は武術、洋式銃取扱い、兵法などの知識を身に付けた多感の人だったので、満15歳の平太と本郷の人ら36人と共に血書嘆願して会津藩の越後口の戦闘に参加した。越後水原奉行萱野右兵衛の番頭隊に編入され、明治元年(1868)3月13日津川に泊り、水原に駐屯、5月2日加茂町をへて、衝鋒隊と共に長岡、ついで小島谷、与板、地蔵堂の各地で戦うが、父ともはぐれた。戦線は後退するばかり。新発田藩の寝返りもあり、水原を放棄して会津へ退却した。父と再び出会うが、8月1日赤坂山(旧安田町)の戦闘で父は左腕に貫通銃創を受けた。負傷した父は石間、津川、野沢の野戦病院で応急の処置を受け、8月10日に若松に到着。藩校日新館に設けられた軍事病院に入院。8月12日幕府医学所頭取の洋方医松本良順(1832?)と門人南部精一(1832?)らによる上腕切断手術を受けた。籠城の混乱の中で苦心惨憺して近郊の親戚宅まで15歳の少年が父を運ぶ記事は読むのも辛い。結局8月24日、術後12日で父は発狂状態で死んだ。戦線から離脱し、村に居残り製陶業に専念し、地元産業の振興と旧藩士の顕彰に尽力した。村会議員をへて村長となり、陶芸家としても高い評価を受け、昭和5年(1930)7月8日77歳の生涯を終えた。
従軍日記の終に「ことに数千の生霊を犠牲に供し、市中その他の民家を灰燼に化し、億兆の財貨を烏有となさざりしならんに。かくのごとく悲痛凄惨の憂き目を見しは先見の明なく、無智短歳の致すところにして感慨無量の次第なり。噫々、天なるかな」と藩主を批判している。これは太平洋戦争における我国の元首にもあてはまる。
後藤平太(1853−1930)
20歳頃の肖像
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