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筑豊てなんであんなに柄悪いの
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/25(Thu) 21:12
- 在日?部落
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:24
- 筑豊炭鉱犠牲者慰霊碑
【碑文】
○田川地区炭鉱殉難者慰霊の碑 (1989年)
昔、燃える石と言って重宝がられた石炭は、明治維新による西洋文化の導入と、産業の近代化に伴い、筑豊は我が国最大のエネルギー源となった。富国強兵の国策は不幸にして、日清日露の戦役となり、満州、支那事変と止まるところを知らず、遂に、世界を二分する太平洋戦争に突入、爾来四年、人類史上計り知れない惨禍と犠牲をもたらし、昭和二十年八月一五日終戦を迎えたのである。
失意と絶望と廃墟の中に起ち上がった我が国は、驚くべき努力と英智によって、ここに世界の経済大国として再び奇蹟の復興を遂げたのである。戦争中には徴用や各国捕虜等、老若男女を問わず石炭増産に狂奔し、また戦後は祖国復興の為、大小300余の炭坑、中小無数の採掘の活況は実に壮観であった。然し一方、瓦斯爆発、落盤、出水、坑内火災等の被害も又甚大で殉職者は推定2万人とも言われている。やがてエネルギー革命により、百年にわたる炭坑の灯は消え栄枯の歴史の幕は閉ざされた。
今日、吾が郷土の発展の陰には、貴いこれら炭坑殉職者のいることを決して忘れてはならない。茲(ここ)に奇しくも地域住民、諸団体等の賛同のもとに、此の碑を建立し、諸霊のご冥福を祈り感謝の誠を捧げるとともに、末永く筑豊炭田の歴史を伝えんとするものである。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:27
- ○韓国人徴用犠牲者慰霊碑 田川市石炭記念公園内 (1988年)
この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでもない。
思えば、大韓帝国末期、日本は「日韓併合」の美名のもとに人道に悖(もと)る政策を断行した。特に第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐(むび)にも忘れぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう。いつになったら晴れるであろうか。
歳月は無情にも溢れ、はや四十有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの標(しるし)とするものである。
冥界(めいかい)の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。
○強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑 (2002年)
建立にあたって
かつて一五年戦争の末期(一九四三年〜一九四五年)日本政府は国内の労働力不足を解消し、戦時下の生産力を維持するため、当時侵攻していた中国大陸での中国軍俘虜および行政供出によって中国人三八九三五名を日本国内に強制連行した(内六八三〇名死亡)と記録されている。
その中で、三井鉱山田川第二・第三坑に六六八名が送り込まれ、終戦まで石炭生産に従事させられたのである。その間、六名が作業現場で災害に△△殉職、二一名は病死(内三名獄死)で不帰の人となった。これら殉職者の冥福を心から祈るものである。歴史を鑑に恒久平和を願って・・・。
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:28
- ○朝鮮人炭鉱殉職者之碑 法光寺内 (1975年)
1910年、日本は朝鮮半島を統制下に治め、以後1945年の敗戦まで植民地として支配を続けました。特に1931年から日本が行なった15年戦争のために国内の労働力が不足し、この筑豊においても石炭採掘の労働力として約15万人の朝鮮人が強制的に連行されてきました。以後1945年までの強制労働と劣悪な環境の中で約2万人が坑内事故や病気で亡くなられました。
この殉難碑には、このような過酷な歴史を生き、祖国の山河や親族に再び会うこともできずに無念のおもいで亡くなっていかれた朝鮮人の遺骨が安置されています。ここに集う者、皆共に歴史の事実を心に刻みたいものです。
「寂光」は、お経に「常寂光土」− 常にやすらかな光に満ちた世界 − いわゆるお浄土のすがたをあらわした言葉です。
1975年、法光寺鉱害復旧に際して殉難碑建立以来、絶え間なく各地からの参拝者があることを鑑み、ここに改築して永代の供養に付し、あわせて日朝・日韓の親善と国際社会の平和を希うものです。
1997年3月 再建
○無窮花堂 (2000年)
先の戦争において日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました。
ここ筑豊には15万人にも上る朝鮮人が炭鉱で過酷な労働を強いられ、多くの人々が犠牲となりました。筑豊の発展と日本の近代化は、まさに朝鮮人をはじめとする外国人労働者の血と、汗と、涙なしでは語れません。
日本の敗戦により、朝鮮半島が植民地支配から解放され、半世紀以上が経過しました。しかし、いまなお筑豊の各地には多くの遺骨が放置されたままになっています。
「こうした遺骨を収集し、納骨堂を建立して追悼しよう」という呼びかけに共感した人びとの浄財ならびに各自治体の協力によって、納骨式追悼堂を建立する事ができました。
21世紀を迎えるにあたり、歴史的事実をあらためて認識し、不幸な過ちを二度と繰り返さない決意をこめてこの追悼堂と国際交流広場を日本とコリア両民族はもとより、すべての人類が恒久平和を希求する発信地として意義あらしめ、世代をこえて守っていくことを願ってやみません。
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:33
- ○炭鉱犠牲者 復権の塔 (1982年)
過去100余年、日本の産業経済は石炭によって支えられ今日の繁栄の土台を築きあげてきた。
最盛期には300坑もあった筑豊の炭鉱もいまはすべて終閉山し、産炭地としての筑豊は永久に忘れ去られようとしている。
かって炭鉱労働者として石炭産業に従事された多くの人々がその犠牲者となり、また戦時にあっては外国の人々の犠牲者も多数にのぼっており、過去の『人間疎外』に対して『人間性の回復』への願いと、諸外国犠牲者に対するお詫びの意味をこめて、『炭鉱犠牲者復権の塔』が千石公園に建設された。
宮田町観光協会
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:48
- 1950年代後半から日本は約20年にわたって高度経済成長を遂げる。神武景気(1955〜57)から,岩戸景気(1958〜61),オリンピック景気(1963〜64),いざなぎ景気(1966〜70),列島改造景気(1972〜73)と好況を連続させたのだ。その結果,鉄鋼・造船だけでなく,家庭電化製品や自動車などの耐久消費財を生産する機械製造業,合成ゴム・プラスチック・合成繊維など新素材を生産する石油化学工業などが発展して重化学工業化が進むとともに,1968年にはGNP(国民総生産)がアメリカに次ぎ資本主義陣営第2位となった。
こうした高度経済成長をもたらした基本的な要因は,戦後民主化政策による経済構造の変革だった。農地改革・労働改革によって国内の消費市場(国内需要)が拡大し,また財閥解体は,不徹底な結果に終わったとはいえ,企業間の自由競争を保障した。つまり,拡大した国内需要に対応するため,各企業がアメリカの先進技術を導入(技術革新)して生産性を高めながら工場設備の増設・拡充(設備投資)を競いながら量産体制を整えていったことが,経済成長の原動力だった。
さらに,中東で石油が発見され,アメリカ企業などが採掘権を独占したために安価な石油を確保できたことが,活発な設備投資と重化学工業化の基礎だった。燃料が石炭から石油へと転換(エネルギー革命)してコスト削減が実現し,石油化学工業の発展をうながしたのだ。しかし,他方では石炭産業の急速な斜陽化を招き,1960年には三井三池炭鉱争議がおこった。
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 20:56
- 石炭は『黒いダイヤモンド』とも言われ、我が国産業の近代化の原動力となり、日本の基幹産業として人々の暮らしを支えて来た。
その後、
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 21:05
- 戦後も
昭和20年代から30年代にかけて
頻繁にニュースとなったのは
炭鉱の悲惨な爆発生き埋め事故だった。
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 21:07
- 終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。
NHKでは,食料とエネルギー源確保のため,「農家へ送る夕」(昭和20年10月より),「炭坑へ送る夕」(昭和21年8月より)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/03(Sat) 21:15
- 柄が悪いかどうか、そんなことは
知らないし、興味もない
ただ、こうした事実を知れば
日本の近代化を蔭で支えた築豊の名もなき人々に敬意を表するしかない。
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/31(Mon) 09:25
- age
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/02(Wed) 17:59
- 日本の主な炭鉱事故
1875年 高島炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 40人
1880年 高島炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 47人
1899年 豊国炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 210人
1903年 潤野炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 64人
1903年 赤池炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 33人
1903年 古河大峰鉱爆発事故 死者・行方不明者 65人
1906年 高島炭鉱蠣瀬抗爆発事故 死者・行方不明者 307人
1907年 豊国炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 365人
1908年 新夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 91人
1909年 貝島大之浦炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 243人
1911年 住友忠隅炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者73人
1912年4月 北炭夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 276人
1912年12月 北炭夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 216人
1913年 二瀬炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 101人
1914年 新夕張第二斜坑爆発事故 死者・行方不明者 49人
1914年 新夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 423人
1914年 方城炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 687人
1916年 東見初炭鉱海水流入事故 死者・行方不明者 235人
1917年 桐野炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 361人
1917年 松島炭鉱坑内火災 死者・行方不明者 41人
1918年 貝島大之浦炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 376人
1920年 北炭夕張炭鉱北上坑爆発事故 死者・行方不明者 209人
1920年 新浦炭鉱浸水事故 死者・行方不明者 34人
1924年 北海道坂岩炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 104人
1924年 入山炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 75人
1927年 内郷炭鉱坑内火災事故 死者・行方不明者 136人
1929年 松島炭鉱海水流入事故 死者・行方不明者 42人
1933年 崎戸炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 60人
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/02(Wed) 18:03
- 1934年 松島炭鉱海水流入事故 死者・行方不明者 54人
1934年 弥生炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 42人
1935年 端島炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者 25人
1935年 茂尻炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者 95人
1935年 三井田川炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者 67人
1935年 赤池炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 83人
1936年 三井砂川炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 21人
1938年 北炭夕張炭鉱天竜坑爆発事故 死者・行方不明者 161人
1939年 大之浦炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 92人
1940年 小倉炭鉱崩落事故 死者・行方不明者 46人
1940年 北炭真谷地炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 51人
1941年 浅野炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者27人
1941年 見唄炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 177人
1941年 九州採炭新手二坑浸水事故 死者・行方不明者 23人
1943年 長生炭鉱海水流入事故 死者・行方不明者 183人
1944年 見唄炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 109人
1944年5月 見唄炭鉱北部第一斜坑爆発事故 死者・行方不明者 107人
1944年9月 赤池炭鉱炭塵爆発事故 死者・行方不明者 93人
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/02(Wed) 18:06
- 1947年 日炭高松炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 37人
1948年 三菱勝田堅坑爆発事故 死者・行方不明者 62人
1950年 見唄炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 109人
1950年10月 若冲炭鉱坑内浸水事故 死者・行方不明者 35人
1950年12月 日鉄鹿町矢岳若坑爆発事故 死者・行方不明者 21人
1954年2月 久垣志岐炭鉱出水事故 死者・行方不明者 36人
1954年8月 太平洋炭礦ガス爆発事故 死者・行方不明者 39人
1955年 安倍鉱業ボタ山崩落事故 死者・行方不明者 73人
1955年11月 雄別茂尻鉱爆発事故 死者・行方不明者 60人
1957年 東中鶴炭鉱坑内浸水事故 死者・行方不明者 18人
1958年 三井砂川炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 10人
1958年 池本鉱業大昇炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 29人
1958年5月 中興江口坑内出水事故 死者・行方不明者 14人
1959年 三菱新入炭鉱六抗爆発事故 死者・行方不明者 23人
1960年 豊州炭鉱水没事故 死者・行方不明者 67人
1960年2月 北炭夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 42人
1961年3月 上清炭鉱坑内火災事故 死者・行方不明者 71人
1961年 大辻炭鉱坑内火災事故 死者・行方不明者 26人
1961年11月 日炭福住炭塵爆発事故 死者・行方不明者 20人
1963年 三井三池炭鉱炭塵爆発事故 死者・行方不明者 458人
1965年2月 北炭夕張鉱業所爆発事故 死者・行方不明者 61人
1965年 三井山野炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 237人
1965年 長崎日鉄伊王島爆発事故 死者・行方不明者 30人
1968年 北炭平和坑内火災事故 死者・行方不明者 31人
1970年 三井砂川炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 19人
1971年 住友歌志内炭鉱ガス突出事故 死者・行方不明者 30人
1972年 石狩炭鉱石狩鉱業所爆発事故 死者・行方不明者 31人
1974年 三井砂川炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 15人
1975年 幌内炭鉱ガス爆発事故 死者・行方不明者 24人
1977年 三井芦別炭鉱爆発事故 死者・行方不明者 25人
1981年 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故 死者・行方不明者 93人
1984年 三井三池炭鉱有明坑坑内火災 死者・行方不明者83人
1985年 三菱南大夕張炭鉱爆発事故 死者・行方不明者62人
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/02(Wed) 18:16
- 筑豊炭田とは、福岡県の中央部から北部にかけて広がる炭田である。炭田の存在する区域が律令国の筑前国と豊前国に跨がっているため、「筑豊」という名称が付いている。八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であった。
第二次世界大戦後も長い間、炭田としては日本一の石炭産出量を誇っていた。しかし、1950年代後半からエネルギー革命が起こり、エネルギー源の主体が石炭から石油に移行し、1959年に産出量日本一の座を石狩炭田に明け渡して急速に衰退が進んだ。1976年に貝島炭礦が閉山したのを最後に、すべての炭鉱が閉山した。
筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に、約8億トンの石炭を産出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきた。昭和46年に「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、直方市石炭記念館が誕生した。
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/14(Sat) 14:41
- age
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/14(Sat) 16:00
- ひとえに「福岡県」と言いますが、元は筑前、筑後、豊前と言う異なる3つの国が合併して誕生した県です。つまり、博多、久留米、北九州と言う県内で大きな3つの都市はその歴史も文化も大きく違うと言ってかまいません。
ではなぜ柄の悪い連中が増えたのか?
その原因のひとつが筑豊の炭鉱です。筑豊とは造語で「筑前国」と「豊前国」をあわせ「筑豊」です。分かりやすく言うと、飯塚地区は筑前国で、田川地区は豊前国です。
明治維新後、当時の明治政府は西洋列強に追いつくために必死でした。
イギリスの産業革命クラスの発展をするには、まず軍隊の強化と国民の教育を徹底し情報網を確立(東京中心の中央集権国家)することが目先の命題だったわけです。
西洋列強に対抗するための強力な軍隊、特に海軍を強化するためには鉄を量産し、銃器や軍艦を作る必要がありました。
その為に八幡に官営製鉄所(現新日本製鉄の全身の八幡製鉄所)を作り、高炉を燃やすための良質な石炭の鉱脈を筑豊地区に見つけ24時間稼動の量産体制を作ります。
もともとそれまでは八幡は寒村な漁村で、田川地区(後藤寺・伊田)も風情のよいのんびりとした農家が軒をならべる地域だったのです。
ところが時代が江戸から明治に入り、良質な石炭が発見されたことで筑豊地区の社会情勢が大きく変わります。
工事現場の仕事で、鉄筋工や型枠大工工。つまり外での辛い作業の多くは当時「刑務労働」の一環で、特に強盗や殺人を犯した重罪犯が見せしめのためにそういう仕事に就かされていました。
その他には「屠殺(とさつ)」の仕事もそうです。屠殺場では、その昔は豚や牛を大きな棍棒で殴り殺していたわけですね。
この仕事も刑務労働者の仕事でした。
そして、この「炭鉱労働」も同じ。
筑豊地区は昔はのどかな農業地帯でしたから、明治政府が求める石炭を量産するためには人手が当然足りません。
そこで、日本全国からいわゆるそういう人たちを集めて炭鉱労働に従事させた、、、と言う歴史があります。ま、三井財閥ですが。当時の炭鉱労働は命がけですからね。現在のような空調設備や安全設備なんてあるはずがありません。
鯨の油を使ったランプを片手に、つるはしなどで石炭を掘り出し、長く続くトンネルの坂を蓑に包み地上へ上げていく重労働です。炭塵爆発事故など日常茶飯事。普通の人たちを炭鉱労働に従事させるわけには行きません。
石炭はその昔は「黒いダイヤ」と言われ、掘れば掘るほどお金になり、日本の財閥もこぞって炭鉱経営をしたものです。
財が集まるところには、権力も、どす黒い裏の世界も動くのが常識です。アメリカのゴールドラッシュとかと同じですよ。マフィアでもなんでも集まります。
福岡県における暴力団などはこの炭鉱の産物だと言っても構いません。
他の人の回答を読んでも、質問でも福岡県民を半ば侮蔑したようなことを書いている人がいますが、私から言わせればあなた達の住む場所からもいわゆる凶悪犯罪者が福岡県に連れて来られていることくらい教えてもらえ! と言いたいのです。
筑豊炭鉱の中心都市だった田川市。最盛期には10万人を超える人口を誇っていましたが、炭鉱が発見される以前は、当時の後藤寺村が約500戸、隣の伊田村が300戸ほどの民家しか存在していなかった事を考えるとよく分かると思います。
八幡もそうですよ。江戸時代後期八幡村は150戸ほどの民家しかなかったのですから。
不貞の輩を全国から連れてこられて、福岡県民がどうだとか言われる筋合いは無いのです。
逆に、福岡県の柄が悪くなった原因は明治政府にあり、三井財閥にあり、全国の不貞の輩を福岡県が引き取ってやった、、、と言うのが本当の歴史です。
もちろん当時の筑豊地区の農家の人たちにとってははた迷惑だったでしょう。勝手に農地を取り上げられ、大きな重機が連日連夜石炭を掘り続けるのですから、、、、
こういう学校では決して教えない真実があります。
ただ言えることは、筑豊地区と八幡製鉄所があったから今の近代日本があったと言えます。だからと言って、暴力団や暴走族を野放しにすることはできません。
ここはもっと市民や地域住民、国民が物事の現実とそのルーツをしっかりと知って撲滅に向けた運動、そして立法をして市民の安全を今異常に強固なものにする必要があると思います。
まずは正しい歴史認識を持っていただくことです。何事にも原因があって結果があるのですから。
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/23(Thu) 07:11
- 昔から柄悪い
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