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☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:17
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「昭和」も遠くなりました。昭和は明治、大正を合わせたより長く、1926年12月から1989年1月まで62年あまりあります。
「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその歌謡史と歌謡史を支えた主な歌手と主な歌を。
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:19
-
昭和歌謡史の魁は佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)です。波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:21
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:06
- 佐藤千夜子(1897〜1968)は、山形県天童市に生まれ、わが国のレコード歌手の草分けといわれる。
佐藤千夜子は、中山晋平の弟子で、大正から昭和の初めにかけて、晋平の歌を世に広めた歌手である。
その生涯は、決してなだらかなものではないが、昭和53年NHKTV朝の連続テレビ小説[いちばん星]で紹介された。その中には、野口雨情、中山晋平、西条八十、学生時代の古賀政男〈正男〉などがでてくる。
ちょうど80年以上前、昭和3年に始まる坪井栄の小説「二十四の瞳」の世界、草深い貧しい時代と重なる。このころ、現在たくさんある様々な歌の殆どは唱歌・童謡、新民謡など以外まだなく、これからつくられていくのだった。
まさにそれは日本における初期の、黎明期・草創期の大衆音楽の歴史そのものである。NHKアーカイブでも、その一部が見れる。
13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校に入学。ここでクリスチャンでもある山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。
日本の本格的なレコードの時代は、「昭和」と共に始まったのでした。昭和元年(大正15年)は、1週間しかなかった。前年、大正14年3月にラジオ放送が始まった。
それまでは主に演歌歌手によって歌い広められてきた大衆歌がレコードによって聞くことが出来るようになり、多くの歌が作られるようになった。
明治時代からレコードは無いわけではなかったのだが、高価で普及しておらず、主に浪花節(浪曲)などに使われ、録音も外国で行っていた。それが昭和にはいって外国レコード産業が日本に上陸し勃興した。
昭和2年(1927)
5月 日本ポリドール蓄音器商会設立
9月 日本ビクター蓄音器株式会社創立
昭和3年(1928)
日本コロンビア蓄音器株式会社設立
まだラジオもレコード普及も無かった大正時代に始まった童話・童謡運動は、その後童謡・新民謡運動となって今日の歌謡曲へと向かっていく。そして童謡や、新民謡運動に参加した西條八十、佐藤惣之助などの詩人や中山晋平など作曲家、佐藤千夜子などがレコード文化によって「歌謡曲」と言われる新しい大衆音楽分野が形作られる。
東京音楽学校でオペラを学んでいた千夜子が、レコード歌手に転身していくきっかけは、作曲家中山晋平との出会いがきっかけである。当時、中山らは大衆向けの新しい音楽運動に情熱を燃やしており、それに千夜子が共鳴、行動をともにするようになったのだ。その後、歌手としての本格的な活動を開始した千夜子は、まもなくラジオ放送にも出演するようになる。
大正10年頃から中山晋平、野口雨情らと「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に参加、ラジオやレコードのない時代に全国津々浦々で歌謡、童謡・新民謡を広めた。千夜子も東京音楽学校を中退して、この運動に参加した。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/53130700.html
この運動から、1928年日本ビクターから歌謡レコード1号の「波浮の港」が発売され人気爆発、千夜子31歳。
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:06
- 昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング、古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、このあとイタリアに向かった。
古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。天童市に「佐藤千夜子の生家」が残されている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。
「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。
だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年、イタリアにオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。
当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。
そしてまだ学生だった古賀政男を作曲家としてメジャーデビューさせ今日の大衆音楽の隆盛に繋げた、忘れてはならない陰の功労者といえる。
現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。
イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。
帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。
なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、「古賀政男音楽博物館」や、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。〈当ブログ参照〉
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:14
- ※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)佐藤千夜子歌唱
文のかをり 古賀正男 佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も 浜田広介 同 1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥 不詳 同 1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて 古賀正男 同 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から 浜田広介 同 1931年1月 ビクター 51519
片想い 浜田広介 同 1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭 浜田広介 同 1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品
※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
関種子歌)。
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:21
- ☆昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中) 1,
「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。
佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
藤原義江(1898−1976) 出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948) 私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995) (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976) 祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990) (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993) (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961) (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970)(武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956) (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963) 明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原 敏(1908-1944) 妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986) 無情の夢
林伊佐緒(1912-1995) 出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996) ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975) (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-)(東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984) (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−) 迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-) (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002) (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959) 南から南から、固い約束
市 丸(1906−1997) 天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996) マロニエの木陰、夕べ仄かに
伊藤久男(1933-1983)(帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:22
- 、
志村道夫(1914-) (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-) (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989) (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990) 純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999) あなたなしでは
伏見信子(1915−) あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940) 潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977) 青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校) 月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校) 明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982) 煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998) 大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013) 大利根月夜、シンガポールだより
小畑 実(1923−1979) 勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970) 上海の花売り娘、港シャンソン
(参考)
東京音楽学校 (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:23
-
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996) (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985) 出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012) (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?) (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974) 東京音頭
小笠原美都子(1920-) 十三夜
青葉笙子(1918-2012) 鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954) 愛国千人針
服部富子(1917−1981) 満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009) 祖国の護り
塩まさる(1908-2003) 九段の母、
樋口静雄(1911−1973) チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992) ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004) 夕日は落ちて
市丸(1906−1997) 天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976) 船頭可愛や、下田夜曲
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:36
- ☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:45
- 関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:51
- 藤山 一郎(1911〜1993)
日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:56
- ☆関 種子と「古賀メロディ」
初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。
乙女心 (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海 (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌 (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲 (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影 (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄 (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3
乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女 (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花 (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌 (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋 (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘 (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938
・関種子
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:58
-
☆古賀メロディと藤山一郎
最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。
NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。
昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。
昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。
昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。
そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。
古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。
藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。
「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。
なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。
80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。
その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。
さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。
なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。
何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:59
- ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲) 1931年10月
丘を越えて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年12月
スキーの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて (古賀政男作詞、 古賀政男作曲) 1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
東京娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の?(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭 (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊 (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1941.3
歌えば天国 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)
(戦後)
嘆きの小鳩 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 21:44
- 戦前〜戦中に絶大なる人気を博しながら、早世してしまったがために、知名度が低い・不当評価に甘んじている歌手は案外多いモノです。
二村定一、楠木繁夫、美ち奴…。
そんな不幸な歌手のひとりが、徳山l(トクヤマ・タマキ)です。
この徳さんとはどういう方かと言いますと
徳山l(1903〜42)
神奈川県藤沢出身。
昭和三年、東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となる。
講師時代の教え子に渡辺はま子がいる。
昭和四年、日本ビクターに入社し、レコード吹き込みを本格的に開始。
昭和五年、流行歌吹き込みの風当たりが強くなってきたので、武蔵野音楽学校講師を退職。クラシック歌手と流行歌手、双方に集中。
昭和六年、映画主題歌『侍ニッポン』、『ルンペン節』が大ヒットし、一躍人気歌手の座につく。
昭和七年、四家文子と吹き込んだ『天国に結ぶ恋』が大ヒット。
昭和九年、皇族懇話会にて、小唄勝太郎、渡辺はま子、藤山一郎らと美声を披露し、「河原乞食」よばわりされていた流行歌手の地位向上に一役買う。
その後も、古川緑波とコンビを組み、映画・舞台出演する一方で、オペラ「カルメン」などに出演。クラシック(バリトン)と流行歌の世界で大活躍。
昭和14年『太平洋行進曲』『大陸行進曲』、昭和15年『空の勇士』『隣組』…と戦時歌謡でもヒットを連発。一世を風靡した。
昭和17年一月二十八日、敗血症のため死去。38歳。
満州慰問での怪我がもと、過労と戦時中の物資不足が祟った死であった。
大柄で豪放磊落そうな見た目とは裏腹、小心者で恐妻家であったと言われる。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 21:57
- 戦前・戦中にかけて絶大なる人気を誇った名歌手、徳山 l (とくやま たまき)
徳山 lは東京音楽学校声楽科(現・東京芸術大学音楽学部声楽科)を
卒業し、教職を経て歌手デビュー、声楽家としてオペラへの出演、
俳優として古川ロッパとの共演、流行歌歌手として「侍ニッポン」
「ルンペン節」「天国に結ぶ恋」などを歌い、戦前・戦中にかけて
一世を風靡した歌手でした。
昭和17年38歳の若さでこの世を去った惜しまれてならない名歌手です。
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 22:20
- 1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。翌年には『侍ニッポン』が大ヒットとなった。その後も『ルンペン節』や、四家文子と共演の『天国に結ぶ戀』など数多くのヒット曲に恵まれた。『隣組』、『歩くうた』など、国民歌謡からヒットした曲もある。
一方、声楽家としても活躍し、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』のエスカミーリョが当たり役であった。ベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り、『ガラマサどん』、『東海道中膝栗毛』などの舞台に出演したり、「シネオペレッタ」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。
レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし『マルマル節』『歌ふ弥次喜多』(古川ロッパと共演)など多数の傑作を遺している。
ルンペン(ホームレス)・療養所・盲学校などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は双葉山を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。
1935年結婚し、藤沢町鵠沼に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。人気絶頂のころの1942年(昭和17年)1月28日、敗血症のため死去。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は常光寺(藤沢市)。
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 22:39
-
徳山 l
ルンペン節(柳水把作詞、松平信博作曲)
侍ニッポン(西條八十作詞、松平信博作曲)
夜の酒場に(西條八十作詞、松平信博作曲)
天国に結ぶ恋
赤い灯、青い灯(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)
天から煙草が(北原白秋作詞、飯田信夫作曲)
さくら音頭(佐伯孝夫作詞、中山晋平作曲)
歩くうた(高村光太郎作詞、飯田信夫作曲)
隣組
歌う弥次喜多
サリーマンよ
ガラマサどん
空の勇士
戦友
満州行進曲
日の丸行進曲
大陸行進曲
愛国行進曲
愛馬進軍歌
大陸行進曲
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 20:34
- 関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。
岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 20:49
- 関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 22:00
- 四家文子((よつやふみこ 1906−1981)
東京府出身。東京音楽学校を首席で卒業後、「不壊の白珠(ふえのしらたま)」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。
それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
しかし、佐藤が周囲の反対を押し切って渡欧してしまうと、佐藤の吹き込みが予定されていた曲が四家に回ってくることになった。「銀座の柳」は、1932年(昭和7年)にレコードが発売されて、大ヒットとなった。この曲は関東大震災で焼失した銀座の柳が、佐藤の歌った「東京行進曲」で復活したのを記念する歌だった。歌詞に「昭和」と出てくることから、当時はまだ「昭和」の元号が新鮮だったことが伺える。その後も次々とヒット曲を連発した。
徳山 l とともに、「天国に結ぶ恋」や「日の丸行進曲 」「太平洋行進曲」「愛国行進曲」「愛馬進軍歌」などの軍歌軍国歌謡を吹き込んでいる。
太平洋戦争勃発後は軍歌、戦時歌謡を多く歌ったほか、1943年(昭和18年)には日本人最初のベートーヴェン「第九」の録音(第4楽章のみ。尾崎喜八訳。橋本國彦指揮・東京交響楽団)にも参加している。
一方では後進の指導にも熱心であり、弟子には五十嵐喜芳、東敦子などがいた。
1981年7月16日に胃癌のため死去。75歳。
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 23:16
- ☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
他に童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。
青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲) 大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇 (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲) 同
ひばり 1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲) 同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節 1928.7 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲) ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様 1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲 1929.6 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し 1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒 1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50776
港おどり 1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴 1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花 1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクタ‐50881
紅屋の娘 1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲) ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクタ‐50936
文のかをり 1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も 1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥 1929 (不詳 、 古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭 1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い 1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌 1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51093
この太陽 1930.6 (西條八十作詞、 中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて 1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から 1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)
*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:39
- ☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:46
- >>13
関 種子
「南海小唄」 (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 26661B 昭和7年1月 コロムビア 黒盤
「曙に唄う」 (太田哲城作詞、 古賀政男作曲) 27121A 昭和7年11月 コロムビア 黒盤
「処女よさらば」 (西条八十作詞 古賀政男作曲)27507B 昭和8年9月 コロムビア 黒盤 松竹『嫁入り前』
[嵐の島] (西条八十作詞 古賀政男作曲)1933.2
- 26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:55
- ☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
昭和6年(1931)3月にコロンビア専属作曲家となった古賀政男は、その後専属レコード会社を
@ コロムビア(昭和6 〜9年) 第一期黄金時代
A テイチク (昭和9〜13年) 第二期黄金時代(テイチク黄金時代)
B コロムビア(昭和13年〜戦後) 第三期黄金時代、戦後第四期黄金時代
と変わった。そして変わった先でそれぞれ時代を築き、「黄金時代」を築いた。
古賀政男には、戦後の黄金時代を含めて、4つの「黄金時代」が有る。
古賀政男は多くの歌手を呼寄せ発掘し、育てたことで知られる。その一人テイチク、コロムビアにおける楠木繁夫は、早生したためあまり知られていないようだが、藤山一郎、ディックミネと並ぶ「古賀メロディ」テイチク黄金時代を築いた立役者の一人。
大正13年(1924)、東京音楽学校師範科に入学、本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家梁田貞に師事。しかし学生運動で校則などに抗議したことから、同級の高木東六とともに除籍処分となった。
昭和9年(1934)5月に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属に迎えられ、昭和10年(1935)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。
古賀政男が抜けた後の江口夜詩―松平晃のコロムビア、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う「古賀メロディー」のテイチク、佐々木俊一が台頭するビクターと三つの構図で激しいヒット競争が展開し、世にいう「テイチク黄金時代」が出現。
古賀政男は重役として迎えられ、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など多くの映画主題歌が作られた。
昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社すると、楠木もビクターに移籍。
古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。
そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。
昭和14年〈1939 〉8月31日、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。
また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。
現在の古賀政男音楽博物館のある代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街。古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて「音楽村」をつくろうという構想を持っていた。
古賀政男を初期には自信がなく、洋楽傾向を持っていて世界の音楽を取り入れていた。
その後、特に昭和14年8月、一分間1万ドルと言われたアメリカNBC放送の「世界の電波」に乗って以降、古賀政男はますます自信を深め、自身に満ち溢れたものであったという。
そして、作曲の傾向も洋楽傾向から邦楽の傾向を強めて行く。
古賀政男はコロムビアで第三期黄金時代を迎えるのだが、「古賀政男藝術大観」が出版されたこの昭和13、14年ごろと言うのは、このように自信に満ち溢れ、脂の乗りきった、絶頂期にでもあったのだ。
その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。
昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属となっていた西條八十、昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。
昭和15年(1940)にコロムビア専属とていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである
そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。第3期黄金時代を迎えた。
「花白蘭の唄」(1942.8)以降はコロムビアでの作品である。
146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:36
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:58
- ☆楠木繁夫の代表曲
国境を越えて (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲) 1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段 (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄 (佐藤惣之助作詞、 楠木繁夫歌) 1937.1
スキ‐の唄 (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲 (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴) 1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲) 1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.8
時代の霧 (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲) 1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938.6
花白蘭の唄 (白井鉄造作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) 1942.12
歌う狸御殿 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1943.3
夏子の歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:01
- ☆古賀メロディと霧島昇
日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。
霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。
霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。
苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。
昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。
昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。
アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。
これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。
「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。
☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)
誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1940.2
新妻模様 (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操) 1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男) 1941.6
思い出の記 (大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1942.5
花の生命 (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社 (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) 1944.6
麗人の歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜 〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操) 1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他) 1949
ギタ‐月夜 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1952
- 29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:32
- ☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
歌謡曲(流行歌)は日本の貴重な文化であり、後世に継承してゆくべきものです。
ところが過去の音楽は放送もされず聞く機会も失われ、名曲の数々が埋もれてしまっているので、このままいくと、将来「名曲」を誰も知らないという事態に発展しかねないのは残念なことです。。
昭和9年(1934)5月15日、コロムビアを退社した古賀政男によって、テイチク東京文芸部(古賀文芸部)が発足、ここにテイチク黄金時代がスタートする。
テイチク黄金時代の立役者は、楠木繁夫、ディックミネ、杉狂児(東京音楽学校)など、それに昭和11からビクターから移った藤山一郎が加わる。
日活と提携して沢山の映画主題歌も作られ、昭和12年だけでも40曲以上もの映画主題歌が作られたという。
デックミネ(本名、三根 徳一)、は、立教大学商学部卒。昭和9年(1934年)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを、淡谷のり子に見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。
同年、テイチクの重役だった古賀政男の推薦で「ダイナ」をレコーディング。「ダイナ」では自ら訳詞と編曲、演奏を担当。テイチクの重役だった古賀政男の推薦で,昭和9年「ダイナ」をレコーディングしデビュー、和製ジャズ歌手の草分けとなる。
二村定一を日本のジャズ・ポピュラーの始まりとするなら、ディックミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に500曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。
サトウハチロー原作、日活多摩川、渡辺邦男監督1935『うら街の交響楽』(音楽、福田宗吉・古賀 政男)の、[恋は荷物と同じよ] (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1935.6(川畑文子、ディックミネ)、(東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクール1等入選作。)が古賀作品との最初となる。
- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:32
- 昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。
昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。
楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。
古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。
藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。
若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。
古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。
そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある
因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。
ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)
かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。
ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫) 1938
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:38
- ☆李香蘭と古賀メロディ
李香蘭(山口淑子)は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。
13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。
『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。
マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。
『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。
また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。
こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。
「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭
この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。
李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:38
- 李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。
いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。
(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)
☆李香蘭の代表曲(古賀メロディ )
さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝 (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1941.11
北京の子守唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1942.7
花の生命 (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄 (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8
若き日の夢 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.3
サヨンの歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5
荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542
宵待草 (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:47
- 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。
1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。
松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 18:47
- ☆松原 操(ミス・コロムビア)代表曲(古賀メロディー)
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1933
新妻模様 (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 1939
誰も知らない(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1939
目ン無い千鳥(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1940
そうだその意気(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1941
、
故郷の白百合(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1943
三百六十五夜(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1948
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 20:41
- 二葉 あき子
広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:09
- ☆二葉あき子代表曲(古賀メロディ)
あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1940
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1940 霧島昇
春よいづこ (西條八十作詞、古賀政男作曲)1940 藤山一郎
なつかしの歌声(西條八十作詞、古賀政男作曲)1940 藤山一郎
歌えば天国 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1941 藤山一郎
旅の舞姫 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1947
夢よもう一度 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948
恋の曼珠沙華 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948
あの夢この歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948 霧島昇
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:33
- 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。
☆古賀メロディを支えた名歌手
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田英子 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 〈西岡水朗作詞〉 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 b月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:49
- >>37
☆古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
1930
佐藤千夜子 「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
関種子 「乙女心」・・・「窓に凭れて」など
天野喜久代 「チャッカリしてるわね」
河原喜久恵 「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
藤山一郎 「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
淡谷のり子 「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
中野忠晴 「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
松平晃 「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
楠木繁夫 「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935
ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
奥田瑛子 「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
李香蘭 「さらば上海」・・ 「迎春花」など
霧島昇 「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
伊藤久男 「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
奥山彩子 「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
菊池章子 「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
近江俊郎 「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/17(Wed) 12:42
- 古賀政男が昭和53年〈1978〉年7月25日に73歳の生涯を閉じた。古賀メロディーの最末期の作品は以下の通り・・
佐藤千夜子から五木ひろしまで約半世紀にわたり常に主流であり続けた作曲生活はまさに昭和のレコード歌謡の歴史そのもの。
銀座音頭 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔 1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母 1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)
- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 18:54
- 淡谷のり子
1907年8月12日 - 1999年9月22日)、青森県青森市出身。
1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立第一高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。
世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクション等で歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)が、1963年に起きた母校の内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、淡谷を中心に卒業生たちが東京声専音楽学校(現・昭和音楽芸術学院)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。
1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。A面は「酒は涙か溜息か」。歌唱者の藤山一郎は、当時東京音楽学校の学生で、将来を嘱望されていた。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。
- 41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 19:09
- ☆淡谷のり子代表曲(古賀メロディ)
私此頃憂鬱よ(高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)1931(「酒は涙か溜息かのB面)
佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞、古賀政男作曲)1932
アリアンの唄(佐藤惣之助作詞、朝鮮民謡、古賀政男編曲)1932 長谷川一郎
不如帰 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
花の東京 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)1932
二人の夢 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
春の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
来る来るサーカス(西條八十作詞、古賀政男作曲)1933
- 42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 19:14
- ☆松平晃代表曲(古賀メロディ)
はてなき旅 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1932
サーカスの唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1933
さらば故郷 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1934
- 43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:41
- ☆伊藤久男の代表曲(古賀メロディ)
熱砂の誓い(建設の唄)(西條八十作詞、古賀政男作曲)1940
馬 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1941 菊池章子
海の豪族 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1941
大空に起つ (大木敦夫作詞、 古賀政男作曲)1941
山の凱歌 (西條八十作詞、 古賀政男作曲)1941
雲のふるさと (大木敦夫作詞、 古賀政男作曲)1943 *
シベリヤエレジ― (野村敏夫作詞、 古賀政男作曲)1948
希望に燃えて (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)1949
ああ青函連絡船 (西條八十作詞、 古賀政男作曲)1954
*陸海軍礼式歌、NHKラジオ歌謡、李香蘭盤発見さる。
- 44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:49
- 作曲家・古賀政男 You Tube
・・これで検索(コピーして)してください。
- 45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:58
-
【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
.
2015/01/10 に公開
・・これで検索(コピーして)してください。 (You Tube)
美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活躍された作曲家の古賀政男(こがまさお)さんや、作詞家の佐藤惣之助(さとうそうのすけ)さん、歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られています。古賀政男さんの曲は歌い手が困っていたという裏話が面白かったです。
※曲は省略していますm(__)m
美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より
- 46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/19(Fri) 06:38
- 松島詩子
山口県出身。本名は内海シマ。柳井高等女学校を卒業後、
教員生活を経て昭和7年(1932)コロムビアから「ラッキーセブン」でデビュー。
昭和10年(1935)テイチク移籍。千早淑子、「夕べ仄かに」で最初のひっと。昭和12年「マロニエの木陰」がヒット、
最初のリサイタルを東京で開き「蝶々夫人」を歌う。
昭和13年(1936)歌劇団「パヴォー」を組織して、
オペラ「ボッカチオ」を公演するなど歌謡曲以外の分野でも活躍した。
松島詩子(千早淑子)の代表曲(古賀メロディ)
夕べ仄かに (島田芳文作詞、古賀政男作曲)1935 「緑の地平線」挿入歌、ディックミネ盤もあり、
純情一座の唄(玉川英二作詞、古賀政男作曲)1936
愛無き言葉 (島田欣也作詞、古賀政男作曲)1936
泪の春 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1936 「白衣の佳人」主題歌
- 47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 00:22
- >>43
雲のふるさと
作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男
歌 伊藤久男
常夏の椰子の木陰に
戎衣を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ
ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを
誰ぞ叱る我も人の子
胸熱く思い出ずるは
旗薄靡く信濃路
河鹿鳴く清き河部に
あの雲は今も翳らん
皇国に捧げたる身の
死にてよと汝は言わずや
幻に見ゆる故郷
我強し汝のあればぞ
弾丸の中行かんと思え
*映画「あの旗を撃て」主題歌。陸海軍礼式歌。NHKラジオ歌謡、李香蘭盤発見さる。
- 48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 00:56
-
【期間限定】『伝説の歌姫 李香蘭の世界』(2015/4/29発売)に収録の幻の2曲ほか、楽曲試聴開始!
※幻の2曲の楽曲試聴は終了しました。その他の楽曲は引続き試聴頂けます。
★『伝説の歌姫 李香蘭の世界』の楽曲試聴はこちら>>>
幻の2曲がついに世に! 『伝説の歌姫 李香蘭の世界』、2015/4/29発売!
歌手 李香蘭(山口淑子) 神話を伝える名唱 集大成!
「蘇州夜曲」「夜霧の馬車」「紅い睡蓮」「夜来香」「何日君再来」「サヨンの歌」「迎春花」
そして歌謡史上の新発見作品、貴重曲を含む永遠の47曲。
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(「雲のふるさと」、「月のしづく」)がついに世に!
大半を最新の技術で音質改良した、李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集がついに発売!
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- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 01:08
- いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」。1944 年11月録音。
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 20:28
- 昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし藤山一郎と言えば古賀メロディ。
藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。
「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、なんといっても、古賀メロディが圧倒的。それ以外で知られるのは、「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」など主にビクター時代でしょうか。
藤山一郎のビクター時代は、古賀政男と離れていたせいか、パッとしたヒット曲がない。「僕の青春」の佐々木俊一の気合いの入れようも分かるが…
- 51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 20:46
- 藤山一郎は、昭和4年(1929)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学 。昭和6年(1931)、3年生、20歳の時、アルバイトで「キャンプ小唄」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」など歌った。
昭和8年(1933)3月に東京音楽学校を主席で卒業、ビクター専属になった。
コロムビアでアルバイト中、アルバイト禁止で困ってる時に、ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていたのだ。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。
藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。
なお、20代を、若き古賀政男とともにし、溢れるように、「古賀メロディ」を、青春を、高らかに謳いあげていた、全盛期の若き藤山一郎。
一方、抑留復員後に復活した戦後の、すでに30代も後半になっていた藤山はさすがに全盛期の溌剌とした若き藤山一郎ではなかったろう。
そして昭和29年、この「歌う昭和史」藤山一郎はレコード歌手を引退し、NHKの嘱託となった。
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。
古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。
加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。
なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。
- 52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/24(Wed) 20:06
- >>47
1946 NHKラジオ歌謡、
- 53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/24(Wed) 22:33
- >>27
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡) 楠木繁夫歌
- 54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 00:32
- >>47.>>52
雲のふるさと(大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 歌伊藤久男 1946 NHKラジオ歌謡
李香蘭盤発見さる。、
- 55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 22:54
- 3つの「雲のふるさと」
李香蘭の未発表曲2曲が発見され、話題になっています。いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」で、昭和19年に録音されながら、レコ−ドにはなりませんでした。「雲のふるさと」は、信濃出身の兵士が前線で、ふるさとをしのび涙を流すところが、戦争も末期になった軍部の気に入らなかったのか。この曲はその前年に、伊藤久男が映画「あの旗を撃て」で歌ったのが最初です。6連音符をあしらったり、古賀メロディーでもユニークな歌曲調で、自信作だったようです。せっかく李香蘭の美声で歌われたのに、くやしかったことでしょう。
この歌には、なおも後日談があります。なんとかもう一度世に出したいという古賀の執念がみのって、戦後の昭和42年、関沢新一の新しい詩を得て「思い出は遠く哀しく」という歌に生まれ変わり、美空ひばりが歌いました。こんどは、幼馴染と別れて都会に出た青年が、やがてその人が誰かの花嫁となったことを伝え聞き、遠く哀しい思い出に熱い涙を流すという、青春センチメンタリズムの極致のような歌です。ヒット曲にはなりませんでしたが、「私はセンチメンタリスト」が口ぐせだった古賀は、これでやっと気がすんだことでしょう。昭和53年の古賀の葬儀でも、明治大マンドリン部の後輩たちが、この曲を演奏して、偉大な先輩を送りました。
「雲のふるさと」は、まもなくコロムビアから発売される2枚組CD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収められています。これで、この曲は、伊藤久男・李香蘭・美空ひばりの3種が揃うことになり、古賀の満足や、思うべし。「思い出は遠く哀しく」はカラオケにもあります
- 56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 23:36
- 月のしずく(大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 歌李香蘭 1944
- 57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/27(Sat) 22:01
- ☆由利あけみ代表曲(古賀メロディ)
黒いパイプ (倉中佳人作詞、 古賀政男作曲)1937
美しき鷹 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937
愛国六人娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937
花束の夢 (倉仲房雄作詞、 古賀政男作曲)1937
乙女鶯 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1938
茶房の花 (海野七郎作詞、 古賀政男作曲)1938
心の雨 (海野七郎作詞、 古賀政男作曲)1938
二人のこの日(山上重夫作詞、 古賀政男作曲)1938
*倉中佳人、倉仲房雄、海野七郎はサトウハチローの変名
- 58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/09(Wed) 19:45
-
伝説の歌姫 李香蘭の世界
李香蘭 形式: CD
価格: ¥ 2,916
CD (2015/4/29)
ディスク枚数: 1
レーベル: 日本コロムビア
収録時間: 75 分
- 59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/09(Wed) 20:47
- >>58
訂正 ディスク枚数 2枚
伝説の歌姫 李香蘭の世界
李香蘭 形式: CD
曲目リスト
ディスク:1
1. 紅い睡蓮 (MONO)
2. 心に咲く花 (MONO)
3. 春鶯曲 (MONO)
4. さくら咲く国 (MONO)
5. 黒き宝 (MONO)
6. 夜霧の馬車 (MONO)
7. 花占い (MONO)
8. 港つばめ (MONO)
9. 月下の胡弓 (MONO)
10. 楽しい満州 (MONO)
11. 北京の子守唄 (MONO)
12. 乙女の祈り (MONO)
13. 蘇州の夜 (MONO)
14. 迎春花 (オリジナル盤) (MONO)
15. 夕月乙女 (MONO)
16. 花の生命 (MONO)
17. 花白蘭の歌 (MONO)
18. 若き日の夢 (MONO)
19. サヨンの歌 (MONO)
20. 母は青空 (MONO)
21. 新しき夜 (MONO)
22. 旅人の歌 (MONO)
23. 私の鶯 (MONO)
ディスク:2
1. 雲のふるさと (MONO)
2. 月のしづく (MONO)
3. 夜來香 <中国語> (MONO)
4. 迎春花 (1コーラス改編盤) (MONO)
5. 売糖歌 (MONO)
6. 戒烟歌 (MONO)
7. 浜辺の歌 (MONO)
8. 宵待草 (MONO)
9. 荒城の月 (MONO)
10. 興亜三人娘 (MONO)
11. そうだその意気(国民総意の歌) (MONO)
12. 夜来香 <日本語> (MONO)
13. 珊瑚礁の彼方に (MONO)
14. ロンドンデリーの歌 (MONO)
15. 歩きましょう (MONO)
16. 暗い部屋 (MONO)
17. 花はなんの花(五木子守唄) (MONO)
18. 花のいのちを誰か知る (MONO)
19. ふるさとのない女 (MONO)
20. 何日君再来 (MONO)
21. 黒い百合 (MONO)
22. 七人の侍 (MONO)
23. とこしえに (MONO)
24. 蘇州夜曲 (MONO)
- 60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 08:55
-
二つの祖国を愛した李香蘭(山口淑子)
(この表題で検索のこと).
2014/09/20 に公開
"二つの祖国" サンデーモーニング
山口淑子=李 香蘭=リ・シャンラン、Lee Hsiang Lan
昭和史の申し子、昭和史を体現した人
- 61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 09:12
-
荒城の月 李香蘭 You tube
(これで検索のこと)
2010/01/15 にアップロード
荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。
ただ、ブログ連動企画なもので、試作のサウンドボックスによる録音ですので音量不足で雑音及び鮮明度の点で非常に残念です。機会を
- 62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 12:15
-
荒城の月 山口淑子 You Tube
(これで検索のこと)
2010/05/19 にアップロード
映画「暁の脱走」より
(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)
李香蘭が戦地慰問に当たって必ず最初に歌った【荒城の月】
戦後それを自ら再現した映画「暁の脱走」より
- 63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/16(Wed) 23:40
-
夕べ仄かに 松島詩子
(これで検索のこと)You Tube
2014/11/24 に公開
説明 1935年(昭和10年)、松島詩子さんによる素敵な歌唱です。背景はイメージでご覧ください。
日活「緑の地平線」1935挿入歌 (他にディックミネ盤もある)
ゆかり役 原節子のスチールが見られる。
日活「緑の地平線」1935挿入歌には
緑の地平線 楠木繁夫
ゆかりの唄 ディックミネ
夕べ仄かに ディックミネ/松島詩子
- 64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/19(Sat) 23:55
- 夕べ仄かに
昭和10年 松島詩子のB面で出された。
女学生に愛唱されたという。後、裕次郎も歌った。
夕べ仄かに 島田芳文 作詞
夕べ仄かに 窓辺に立てば
山の彼方の 空のいろ
遠いあの日の 夢に似て
かいなき君の 偲ばるる
夕べ彩なす 茜の雲よ
何故に思いを 焦がすやら
山の遠さよ 過ぎし日の
儚なき君の 思い出よ
- 65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/19(Sat) 23:57
-
嘆きの夜曲
昭和七年 芸術的歌謡をめざし作曲された。悲しさに自殺者が出たという。
嘆きの夜曲 西岡水朗 作詞 古賀政男作曲
関 種子 唄 /
呼んでみたとて かえらぬ人よ
なぜに儚い 夢じゃやら
想いつかれて 心に秘めて
暮れりゃさみしい 雪ばかり
泣いてみたとて かえらぬ恋よ
なぜにつきせぬ 涙やら
- 66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/20(Sun) 12:32
- 嘆きの夜曲
80年前に作られたこの短い歌が、あの〔東日本大地震〕を予見していたたかのような、歴史を超えた普遍性を持って生きてる。
一時、ネット You Tubeに詩とともに投稿され衝撃的好評を与えた。
「花が咲く」などよりずっと重みがある!。
- 67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/20(Sun) 12:38
- >>65
嘆きの夜曲
♪灯影(ほかげ)つめたく愁いはながく、絃(いと)のすさびも泣くばかり・・♪
- 68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/20(Sun) 19:28
- >>65-67
嘆きの夜曲(關 種子)
(これで検索のこと)You Tube
2014/02/20 に公開
- 69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/21(Mon) 07:40
-
嘆きの夜曲 西岡水朗 作詞 古賀政男作曲
関 種子 唄
呼んでみたとて かえらぬ人よ
なぜに儚い 夢じゃやら
想いつかれて 心に秘めて
暮れりゃさみしい 雪ばかり
泣いてみたとて かえらぬ恋よ
なぜにつきせぬ 涙やら
灯影(ほかげ)つめたく愁いはながく、
絃(いと)のすさびも泣くばかり
- 70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/21(Mon) 11:15
- 復興支援ソング「花は咲く」ってなんかただ長ったらしいだけで詩がよくない!。
繰り返しだけでそこに「哀しみ」が伝わってこない!。
なにをいってるのか伝わってこない。
すべては詩が悪すぎることに尽きる。
- 71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/23(Wed) 10:27
-
作曲家は数多のにのぼるが「哀しみ」を曲に昇華できるのは古賀政男をおいてない。
- 72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/30(Wed) 22:11
- 哀調を帯びた古賀メロディ、その青春を、青春の苦悩を謳った哀調を帯びた一連のメロディ−は貴重で、傷ついた心の癒しとして人に勇気を与え、歴史を超えて長く愛され記憶され歌われている。
- 73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/30(Wed) 22:26
-
◇戦後の主な古賀メロディ・・
圧倒的に西條八十作詞が多い!。
麗人の歌 1946〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛 1946〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く 1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫 1947〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩 1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌 1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜 1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華 1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー 1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車 1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう 1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節 1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん 1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌 1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌) (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ 1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度 1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて 1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲 1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖 1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー 1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈 1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖 1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜 1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー 1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ 1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘 1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース 1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター 1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿 1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌 1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし 1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠 1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ 1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男 1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌) (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松 1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜 1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
- 74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/30(Wed) 22:27
- 青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代 1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生 1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場 1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌 1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化 1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道 1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭 1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔 1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒 1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌 1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔 1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母 1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)
*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃
- 75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/04/29(Fri) 21:31
- >>74
浜昼顔
作詞は寺山修司、作曲は古賀政男である。
原曲は古賀政男が1936年に日活映画『慈悲心鳥』の主題歌として作曲した「さらば青春」(佐藤惣之助作詞、歌:藤山一郎)が原曲。
寺山修司の歌詞は全く違うが、失意の青年が新しく旅立つモチーフは同じ。
- 76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/04/29(Fri) 21:47
- >>74
ひろしまの母 1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)
(昭和52年7月発売)
*ひろしま音楽祭参加作品、最後の古賀メロディー
- 77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/05/02(Mon) 09:21
-
昭和の巨星スペシャル 作曲家・古賀政男
.
2015/10/11 に公開 YOU TUBE
これで検索のこと>
〜時代を駆け抜けた 日本のメロディー〜
- 78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/07/24(Sun) 12:02
- いいなあ!今の時代みたいにテレビのなかった時代にラジオから流れる美声に家族みんなで拍手したものです。 やはり時代を超えて心に残る、懐かしく温かみを感じますね
- 79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/09(Tue) 23:38
-
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
.
美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
(TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)
この表題で検索のこと。
- 80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/11(Thu) 22:27
-
古賀政男総合スレ 2CH BBS
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/
- 81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/03(Sat) 16:02
- 日本の大衆音楽を含めて音楽分野での「東京音楽学校」の果たした役割は非常に大きい。
滝廉太郎、三浦環、本居長世、山田耕筰、弘田龍太郎、中山晋平から佐藤千夜子、四家文子、関種子、藤山一郎、ミスコロムビア・・・、
日本で最も歴史ある芸術分野の官立専門学校が「東京美術学校」「東京音楽学校」である。
1949年(昭和24年)5月、戦後の学制改革により、「東京美術学校」と「東京音楽学校」の両専官立専門校が統合設立され、新制「東京芸術大学」ができた。
- 82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/14(Wed) 14:43
- 【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
- 83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/17(Sat) 10:35
- ☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
- 84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/17(Sat) 10:41
- 訂正
☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
- 85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/20(Tue) 17:22
- 丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
2012/10/29 に公開
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。
- 86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/20(Tue) 17:28
- 藤山一郎 影を慕いて.
2012/07/15 に公開
藤山一郎独唱・「影を慕いて」。声楽技術を駆使した歌唱芸術で古賀政男の名曲を歌いあげます。明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏でした。その後、佐藤千夜子がビクターで吹込みましたが、レコードは売れませんでした。藤山一郎の登場をまたなければなりませんでした。
- 87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/13(Mon) 00:18
- 古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50
- 88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:44
- 【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50
- 89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 00:21
- ■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。
- 90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 00:29
-
■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)東洋音楽学校(現東京音楽大学)武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)
主な門下生、弟子
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。
- 91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:25
- 昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
- 92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:31
- 昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。
- 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:44
- 丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
2012/10/29 に公開
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です
- 94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:59
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2
- 95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:55
-
☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50
☆古賀政男総合スレ 2ch,懐メロ・邦楽
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50
☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
- 96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/11(Mon) 22:48
- 昭和歌謡が好きな人集まれ!
- 97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 15:31
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 21:01
- 昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS 10cH
- 99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:24
- >>98
昭和歌謡が好きな人集まれ
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50
- 100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:31
- コガミュージアムコンサート
三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十
2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。
2018年2月18日(日)
開演 14:00 (13:30開場)
古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
東京メトロ、小田急線代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前
- 101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/25(Sun) 23:20
- 藤山一郎(1911〜1992)
東京出身、本名・増永丈夫。大正10年慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込むんでいる。童謡歌手の魁とされる本居みどりが、大正10年(1921)に、ニッポノホンレコードに「十五夜お月さん」を吹き込んでいる。あまり知られてないが、丁度同じころ、幼稚舎4年生(1921)のとき、ニッポノフォンレコード(日本蓄音器商会の前身東京三光堂、スタークトン・レコード)に童謡を吹き込んでいる。「半どん」「春の野」(田辺友三郎作詞・田村虎蔵作曲)・・♪ましろにみえし ゆき消えて・・・「何して遊ぼ」などの童謡を歌っている。
当時は、電気吹込みではなくスタジオの壁から突き出たおおきなメガホォンのような集音ラッパ吹き込むロー管吹込みだったという。この頃、大正時代、本居三姉妹が全国行脚(一部レコード)で活躍していた頃である。電気吹込みになったのは昭和3年からで、このラッパ吹込みをしてる童謡歌手は、本居三姉妹のほか平井英子(1918東京生)くらいだという。
藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。
- 102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/25(Sun) 23:23
- 昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。
直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。
古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。
古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。
古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を与えてくださった終生の恩人」と書いている。
「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)
このうち音楽学校卒業が22人。
藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。
22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。
関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。
今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。
・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・それが古賀メロディ・・・
第一級の文化遺産・大切に歌おう!
- 103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:27
- 日本の歌こころの歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50
- 104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/20(Tue) 09:25
- 日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
- 105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/03(Tue) 12:11
- 名歌手 徳山 l(たまき)P(1903〜42)
神奈川県藤沢出身。
昭和三年、東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となる。
講師時代の教え子に渡辺はま子がいる。
昭和四年、日本ビクターに入社し、レコード吹き込みを本格的に開始。
昭和五年、流行歌吹き込みの風当たりが強くなってきたので、武蔵野音楽学校講師を退職。クラシック歌手と流行歌手、双方に集中。
昭和六年、映画主題歌『侍ニッポン』、『ルンペン節』が大ヒットし、一躍人気歌手の座につく。
昭和七年、四家文子と吹き込んだ『天国に結ぶ恋』が大ヒット。
昭和九年、皇族懇話会にて、小唄勝太郎、渡辺はま子、藤山一郎らと美声を披露し、「河原乞食」よばわりされていた流行歌手の地位向上に一役買う。
その後も、古川緑波とコンビを組み、映画・舞台出演する一方で、オペラ「カルメン」などに出演。クラシック(バリトン)と流行歌の世界で大活躍。
昭和14年『太平洋行進曲』『大陸行進曲』、昭和15年『空の勇士』『隣組』…と戦時歌謡でもヒットを連発。一世を風靡した。
昭和17年一月二十八日、敗血症のため死去。38歳。
満州慰問での怪我がもと、過労と戦時中の物資不足が祟った死であった。
大柄で豪放磊落そうな見た目とは裏腹、小心者で恐妻家であったと言われる。
- 106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/03(Tue) 12:13
- 戦前日本の歌手
h ttp://karomama.com/answers.html
・放送オペラ一覧
h ttp://www.sound78rpm.jp/air/opera_air.html
藤原義江、佐藤美子、奥田良三、船橋栄吉、大下保、長門美保、下八川圭祐、佐藤千夜子、二村定一、河原喜久恵、天野喜久代、川崎豊、四家文子、関種子、徳山l、増永丈夫(藤山一郎)、東海林太郎、・など蒼々たる顔ぶれが見える。
徳山 l(とくやま たまき、1903年7月27日 - 1942年1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手。似た名前のソプラノ歌手三浦環(みうらたまき)は女性だが、徳山lは男性である。
神奈川県高座郡藤沢町(現・藤沢市)生まれ。1928年東京音楽学校声楽科(現・東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)の講師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1931年ビクターから「侍ニッポン」で流行歌手としてデビュー。大ヒットとなった。その後も「ルンペン節」や、四家文子と共演の「天国に結ぶ戀」など数多くのヒット曲に恵まれた。「隣組」「歩くうた」など、国民歌謡からヒットした曲もある。
一方、声楽家としても活躍し、ビゼーのオペラ「カルメン」のエスカミリオが当たり役であった。ベートーヴェンの交響曲第9番の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り「ガラマサどん」「東海道中膝栗毛」などの舞台に出演したり、「シネオペレッタ」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。
レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しい、コミック・ソングも得意としており、多数の傑作を遺している。
ルンペン(ホームレス)・療養所・盲学校などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は双葉山を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。
1942年、敗血症のため死去。享年38。
h ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E7%92%89
h ttp://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8220.html
- 107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/03(Tue) 12:27
- 徳山l (とくやま たまき) 随筆集 (翻訳版) 口語訳: 戦前・戦中に活躍、『ドリフの大爆笑』主題歌の元歌「隣組」を歌い、絶大な人気を誇った流行歌手のエッセイ集 Kindle版
徳山l (著), Shimizu Terumasa (編集)
出版 (有)音羽クリエーション
販売 AMAZON
その他()の形式およびエディションを表示する
Kindle版
¥ 480
今すぐお読みいただけます: 無料アプリ
もっと少なく読む
紙の本の長さ: 163ページ
利用可能な端末
- 108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/03(Tue) 12:32
- >>107
徳山l (とくやま たまき) 随筆集 (翻訳版) 内容紹介
戦前・戦中にかけて絶大なる人気を誇った流行歌手、
徳山 l (とくやま たまき) の貴重なエッセイ集!
徳山 lは東京音楽学校声楽科(現・東京芸術大学音楽学部声楽科)を
卒業し、教職を経て歌手デビュー、声楽家としてオペラへの出演、
俳優として古川ロッパとの共演、流行歌歌手として「侍ニッポン」
「ルンペン節」「天国に結ぶ恋」などを歌い、戦前・戦中にかけて
一世を風靡した歌手でした。
彼の名前を知らなくても、ザ・ドリフターズのテレビバラエティ
『ドリフの大爆笑』のテーマソングや、メガネドラッグのCMソングは
一度は耳にしたことがあるかもしれません。
実は、現在でも知名度が高いこの曲の元歌を歌っていたのが
「徳山 l」だったのです。曲名は「隣組」(昭和15年) といいます。
彼は昭和17 (1942) 年にわずか38歳でこの世を去ったため、
現在までほとんど顧みられることがありませんでした。
このエッセイ集は、彼の死後にすぐ出版されたもので、
生誕111周年を記念して復刻しました。
復刻に当たっては、表紙を新しくデザインし、
文章は読みやすいように口語に訳しました。
戦前・戦中の音楽や風俗はもちろんのこと、
勝太郎、市丸、渡辺はま子といったそうそうたる
歌手や映画俳優との交友録や、歌手になるために
家出をした話など、他では読めない貴重な話が盛りだくさん。
歌だけでなく、エッセイストとしての
徳山 lの魅力にも触れることができます。
また、巻末には300曲を超えるディスコグラフィーを
発売年代順に掲載しています。
レイアウトは、変動するリフロー型を採用、
縦書きで一度文字の大きさを設定しておけば
そのままの状態で読み続けることができます。
この機会に、貴重なエッセイ集を1人でも多くの方に読んでいただき、徳山lの魅力を感じていただければ幸いです。
目次
はじめに
序(菊池寛)
記念の時計
満州だより
北支行
楽団変人奇人伝
流行歌手出世道
三六五〇日の足跡
オペラ歌手列伝
署名の好きな人々
森蔭の旋律
真白き富士の根
僕の居候時代
結婚写真
映画スター交友録
崔承喜さまへ
はま子の先生
啄木の歌
性格歌手チェンキン
レビュー言
夏日閑談
吉本君の批評に対して
秋の感傷
烏を飼う
犬
動物園
船出は眠し
故郷の新聞
のんびり演奏会
夏の葬式
円タクの話
百鬼園先生と初対面
僕の憂鬱
行水と夕立
泣くな漫才
良人の体操
隣組五人男
[付録資料]徳山lディスコグラフィー
- 109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/04(Wed) 22:02
- >>105-108
徳山 l髄筆集
徳山 l (とくやま たまき) といえば、
「侍ニッポン」「天国に結ぶ恋」などのヒットを飛ばした歌手で、
戦前・戦時歌謡に詳しい人であれば「オッ」と思うかもしれません。
彼の名前を知らない人でも、『ドリフの大爆笑』のテーマソングや
メガネドラッグCMソングなら聞いたことがあるかもしれません。
実はこれらの曲は替え歌で、元歌は徳山 lが歌っていたんです。
メガネドラッグCMソング
『ドリフの大爆笑』のテーマソング
曲名は「隣組」。昭和15年にリリースされました。
こちらの動画では、本人も出演しています。
ヒゲを生やして歌っているのが徳山 lです。
ちなみに、この曲を作詞した岡本一平は、
「芸術は爆発だ!」でおなじみの芸術家、
岡本太郎の父親です。
絶大な人気を誇った徳山は、戦時中の昭和17年に
38歳の若さで亡くなってしまいます。
そのため、1970年代に懐メロブームが起こった際には
市丸や東海林太郎、藤山一郎らが戦前、戦中のヒット曲を
テレビの前で歌い、曲を語り継いでいったのに対して、
彼の曲は徐々に忘れられていきました。
また、彼の名前に使われている「l (たまき)」という文字も
常用漢字ではなくて、ネットでの表示や変換も難しいため、
なかなか表示や検索が困難であることも、
再評価になかなかつながらない一因にもなっています。
事実、Amazonのタイトルでは「l」の文字が
一部表示されない箇所があるのが、そのよい例だと思います。
しかし、流行歌、本業としての声楽家、俳優など
多面的な活動をしていた徳山は、エッセイを残していました。
それが『徳山 l随筆集』です。
これは彼の死後すぐに刊行されたもので、
作家の菊池寛が序文を寄せています。
徳山が日本の歌謡界に与えた影響は大きかったため、
生誕111周年を記念して復刻しました。
随筆集とあって文章はわかりやすく、
専門用語などもほとんど出てきません。
時節柄、満州の話や中国へ行ったときの話、
市丸や勝太郎とのかかわりなど、
当時の風俗や世相、流行などが手を取るように分かります。
また、飼っていた烏が逃げ出して1日中追いかけた話など、
ユーモラスな文章で楽しませてくれます。
復刻に当たり、口語訳に直し、旧字体や表記も原本を尊重しながら
編集しています。表紙は私がデザインしました。
ちなみに、表紙のレコードは私が所有している
SP盤を使用しています。
巻末には、ディスコグラフィーも可能な限り調べて
掲載しています。
この機会に、徳山 lの貴重なエッセイ集を
1人でも多くの方に読んでいただき、
魅力を感じていただければ幸いです。
(Amazon)
- 110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/05(Thu) 09:43
-
「古賀政男音楽博物館」 <大衆音楽の殿堂顕彰者> >>100
「古賀政男音楽博物館」には明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で顕彰している。
滝廉太郎、野口雨情、、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎・・から
西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎、・・ から
美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・までほとんどをカバ―している。
大衆音楽の殿堂顕彰者には明治以降、明治、大正、昭和、これまでのほとんどの大衆音楽に尽くした
作曲家、詩人・作詞家、歌手・演奏家併せて246名が顕彰展示されており、入館料だけで7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。
最近の歌は、なんでも「名曲」、しかも60年以上の長い「昭和」の歴史になかで、ほんの昭和の最末期飽食の時代の歌だけで、昭和歌謡と言ってますが、これを見ると,聞くと
もっと深いことが分かります。昭和の本当の名曲を堪能することができるでしょう。
昔は大衆音楽というのは民謡くらいしかなかった。多くの音楽家のすぐれた才能や、たゆまぬ努力によって、大衆音楽の名曲は生まれました。
古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽の歴史を振り返り、その発展に貢献された方々の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」,この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほかに、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示さえている。
顕彰者の代表曲などは、地下1階「音楽情報室」の検索システムで入館料500円だけで何曲でも聞ける。 他に、作詞者名、歌手名、もちろん題名でも検索できる。
顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html
<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 作曲家(抜粋) 75人
滝廉太郎、岡野貞一、田村虎蔵、下總壯一、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎、
成田為三、草川 信、梁田 貞、杉山長谷夫、河村光陽、海沼 實、佐々木すぐる、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、竹岡信行、町田佳声、佐々木俊一、万城目正、仁木田喜雄、池田不二夫、古関裕而、服部良一、大村能章、阿部武雄,長津義司、上原げんと、団 伊久磨、中田義直、飯田三郎、中村八大,大久保徳次郎、いずみたく、倉若春生、吉田矢健治、利根一郎、市川昭介、八州秀章、細川潤一、宮川 泰、田村しげる、富田 勲、米山正夫、吉田正、猪俣公章、船村徹、遠藤実、・・
<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 歌手(抜粋)100人
松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、関 種子、徳山 l(たまき)、田谷力三、淡谷のり子、松平 晃、楠木繁夫、中野忠晴、上原 敏、東海林(しょうじ)太郎、ミス・コロムビア(松原操)、二葉あき子、霧島 昇、ディックミネ、山口淑子(李香蘭)、伊藤久男、高峰三枝子、松島詩子、渡辺はま子、塩まさる,市丸、小唄勝太郎、高田幸吉、川田正子・孝子、河村順子、平井英子、安西愛子、松田トシ、灰田勝彦、岡晴夫,神楽坂はん子、美空ひばり、笠置しず子、小畑実、近江俊郎、竹山逸郎、榎本健一、高 英男、森繁久彌、奈良光枝、並木路子、宮城まり子、織井茂子、菊池章子、宮城まり子、三波春夫、村田英雄、、田端義男、三橋美智也、初代コロムビアローズ、ペギー葉山、橋幸夫、坂本 九、島倉千代子、こまどり姉妹、神戸一郎、菅原洋一、三浦光一、テレサテン、岸 洋子、小坂和也、フランク永井、ザ・ピーナッツ・・・
<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 詩人・作詞家(抜粋)71人
吉丸 一昌、井上 赳、大和田建樹、高野公男、井上 赳、近藤朔風、林 柳波、武島羽衣、中村雨紅、清水かつら、加藤省吾、久保田宵二、斎藤信夫、加藤省吾,武内俊子、東くめ、
野口雨情、西條 八十、佐藤惣之助、島田芳文、サトウハチロー、藤浦 洸、菊田一夫、高橋 掬太郎、佐伯 孝夫、長田幹彦、門田ゆたか、藤田 まさと、野村俊夫、島田欣也、清水みのる、寺山修司、横井 弘、西沢爽、宮川哲夫、石本美由樹、矢野亮、星野哲郎、やなせたかし・・・
(平成30年4月現在)
- 111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/05(Thu) 10:29
- 古賀政男音楽博物館は小田急線代々木上原駅前3000坪の旧古賀政男邸の跡に,没後、古賀政男の遺志と、数百億ともいわれるその莫大な著作権など資産を受け継いだ「古賀政男音楽文化振興財団が」が設立され、音楽博物館が作られました。
ここには西新橋にあった日本音楽著作権協会(JASRAC)本部も入って、その威容は音楽の聖地にふさわしいもの。
小田急線と交差する井の頭通りに面した小田急線代々木上原駅すぐ前です。
代々木上原駅(南口1)を右へ、音楽村通り2分、井之頭通り代々木上原駅南交差点 駅前交番すぐ目の前です。
新宿、渋谷に行ったらぜひ足を延ばしてみるのもいい。
古賀政男音楽博物館 h ttp://www.koga.or.jp/
〒151-0064 東京都渋谷区上原三丁目6−12
電話 Tel:03-3460-9051
交通
・新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
・京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
・渋谷区循環コミュニティバス「ハチ公バス」【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)古賀音楽博物館前、渋谷駅西口バスターミナルから7分
小田急線代々木上原駅は新宿駅から5分、渋谷区循環コミュニティバス「ハチ公バス」【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)で、始発の渋谷駅西口バスターミナルより古賀音楽博物館停留所まで7分です。料金は大人も子供も一律100円で8時から20時まで、1時間に3循環、です。次の渋谷109ビルを右に入った東急百貨店前本店前停留所らものれます。
入館料 500円
- 112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/06(Fri) 00:40
- 名歌手徳山l(とくやまたまき)
戦前、昭和の初めの大衆歌謡といえば、むしろクラシック系歌手が大勢を占めていた。佐藤千夜子、徳山l、四家文子、中村淑子、長門美保、増永丈夫(藤山一郎)、波岡惣一郎、滝田菊江、東海林太郎などなど。
徳山l(1903-1942)は、昭和3年、東京音楽学校を出て武蔵野音楽学校で教えたり、ベートーベンの「第九交響曲」のバリトンを歌ったり、「侍ニッポン」「ルンペン節」「歩くうた」「かんかん蟲は唄う」「悲しきジンタ」「夜の酒場に」「ブン大将」などのヒット曲を飛ばす。「♪トントントンカラリンと隣組」という国民歌謡「隣組」は一代の人気歌手徳山lの最後のヒット曲となった。なお、卒業に際し御前演奏を行った四家文子とは東京音楽学校同期である。
昭和17年に徳山が38歳の若さで亡くなっため、波岡惣一郎(1910-1951)がビクターのトップ歌手となった。昭和20年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」のトップバッターは紅組の小夜福子「小雨の丘」、白組の波岡惣一郎「春雨小唄」である。
戦地慰問で傷を負ったのがもとで敗血症を負った、戦時下の混乱がもとであった。
戦前・戦後を通じてレコード歌手があまた現われたが、徳山lほどの豪快で幅の広い名歌手は他にいない。戦後まで生きていれば、戦後の歌謡史も大きく変わったであろう。
豪快な中に哀調を帯びた徳山、軍歌も四家文子とともに、愛国行進曲、太平洋行進曲、満州行進曲、日の丸行進曲、愛馬進軍歌など多くの軍歌(軍国歌謡)も歌っている。日本の軍歌・軍国歌謡はなぜか哀調を帯びている。それ日本がまだ貧しかった時代、そしてほとんどが農家だった時代、多くの兵隊が貧しい農村出身であったという歴史的風土にも関係するだろう。なお、直接関係はないが、同じ昭和17年には詩人佐藤惣之助が亡くなっている。義兄萩原朔太郎の葬儀に疲れ、その5日後に相次いで亡くなり、二人の詩人が亡くなった。同じく戦後まで生きていれば、その後の歌謡史も大きく変わったでしょう。
- 113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/06(Fri) 00:44
- 豪快な「侍ニッポン」と、繊細で哀調を帯びた「天国に結ぶ恋」(四家文子)がある。いずれも西條八十作詞、松平信博作曲の名曲、(「天国に結ぶ恋」は、昭和7年伊豆の坂田山で実際に起きた慶応大生の心中事件をテーマにしたもので、両方とも変名)。
この対照的な二つの歌を聴き比べると、徳山の名歌手たるすごさがわかる。とても同じものが歌っているとは思えない。今のクラッシックの歌手が何でも大声を張り上げるのと比べ、とてもクラッシックの歌手とは思えない、言い方を変えれば本当のクラッシック歌手、いかに名歌手であったかがわかる。徳山lのレコード吹き込みは400曲ある。
古賀政男音楽博物館で、名歌手徳山lのレコードが聞ける。
- 114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/06(Fri) 00:51
- 参考にCDをあげる。
(CDアルバム)
タイトル:昭和を飾った名歌手たち 3 徳山l 侍ニッポン ビクターVICL-60328
収録曲:
(1)侍ニッポン
(2)かんかん蟲は唄う
(3)雪の渡り鳥
(4)ころがせころがせビール樽
(5)夜の酒場に
(6)ミミの歌
(7)天国に結ぶ恋(四家文子)
(8)想い出のギター
(9)ルンペン節
(10)赤い灯青い灯
(11)百万人の合唱〜幸福な朝
(12)悲しきジンタ
(13)サラリー・マンよ
(14)ブム大将
(15)ガラマサどん
(16)天から煙草が
- 115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/06(Fri) 10:50
- 1999年 昭和を飾った名歌手たちシリーズ(全15タイトル)ビクター
昭和を飾った名歌手たち(1)~東京行進曲 佐藤千夜子
昭和を飾った名歌手たち(2) 君恋し 二村定一
昭和を飾った名歌手たち(3)~侍ニッポン 徳山l
昭和を飾った名歌手たち(4)~銀座の柳 四家文子
昭和を飾った名歌手たち(5)~祇園小唄 藤本二三吉
昭和を飾った名歌手たち(6) 小唄勝太郎
昭和を飾った名歌手たち(7)~僕の青春 藤山一郎
昭和を飾った名歌手たち(8)~赤城の子守唄 東海林太郎
昭和を飾った名歌手たち(9)~待ちましょう 淡谷のり子
昭和を飾った名歌手たち(10)~港が見える丘 平野愛子
昭和を飾った名歌手たち(11)~異国の丘 竹山逸郎
昭和を飾った名歌手たち(12)~夜来香 山口淑子 / 灰田勝彦
昭和を飾った名歌手たち(13)~ミネソタの卵売り 暁テル子
昭和を飾った名歌手たち(14)~ガード下の靴みがき 宮城まり子
昭和を飾った名歌手たち(15)~船頭小唄 森繁久弥
- 116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/06(Fri) 18:48
- >>112-115
侍ニッポン 昭和6年
西條八十作詞・松平信博作曲 歌 徳山l
(一)
人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) さびしく撫(な)でて
新納鶴千代 にが笑い
(二)
昨日(きのう)勤王 明日(あした)は佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切者よ
野暮な大小 落し差し
(三)
流れ流れて 大利根越えて
水戸は二の丸 三の丸
おれも生きたや 人間らしく
梅の花咲く 春じゃもの
(四)
命とろうか 女をとろか
死ぬも生きるも 五分と五分
泣いて笑って 鯉口切れば
江戸の桜田 雪が降る
天国に結ぶ恋 昭和7年
作詞:柳水巴、作曲:林純平 歌:徳山l・四家文子
1)
今宵名残りの三日月も
消えて淋しき相模灘(さがみなだ)
涙にうるむ漁火(いさりび)に
この世の恋の儚(はかな)さよ
2)
あなたを他所(よそ)に嫁がせて
なんで生きよう 生きらりょか
僕も行きます 母様の
お傍へ あなたの手を取って
3)
ふたりの恋は清かった
神様だけが御存知よ
死んで楽しい天国で
あなたの妻になりますわ
4)
いまぞ楽しく眠りゆく
五月(さつき)青葉の坂田山
愛の二人にささやくは
やさしき波の子守唄
いずれも、西條八十作詞・松平信博作曲
- 117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 09:53
- 【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
- 118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 12:52
- >>116
訂正
2)
あなたを他所(よそ)に嫁がせて
なんで生きよう 生きらりょう
僕も行きます 母様の
お傍へ あなたの手を取って
- 119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 21:53
- 「天国に結ぶ恋」・・この歌は大磯、坂田山で昭和7年に起こった慶応大生の心中事件。
それは世間を驚かせる猟奇事件にも発展するのだが、映画になった。主題歌を頼まれた西條八十も
気が進まず拒否、でも名前を出さないということでで来たのが「天国に結ぶ恋」。
86年前に起きた、この事件は歌とともに、今でも市のホームページに大きく取り上げられている。
それは、西條八十の優しく清廉な、詩人ならでは簡潔な名詩、そして徳山l・四家文子、知る人ぞ知る二人の名歌手の優しい明唱のゆえんだと思われます。
ぜひ、聞かれることをお勧めいたします。
- 120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:22
- ☆藤山一郎と古賀メロディ
藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。
『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。
「藤山一郎」とは、昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」をはじめとする古賀作品をレコード吹き込みにあたっての名前で、これが昭和歌謡史に残る「藤山一郎」の実質的レコードデビュー。
「歌う昭和史・藤山一郎」の原点は昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」・・。
平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ『古賀メロディー』ほどの大ヒット曲には恵まれなかった。
藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。
ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。
ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍して重役作曲家になっていた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。
1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。
PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。
藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画、国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。
1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。
藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。
デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」」の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・「藤山一郎」の代表的な曲を次にあげる。
- 121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:31
- ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
*コロムビア
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲) 1931年10月
丘を越えて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年12月
スキーの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月(井上静雄名)
影を慕いて (古賀政男作詞、 古賀政男作曲) 1932年3月
*テイチク
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
東京娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12 加寿子のうたえる…
青春の謝肉祭 (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊 (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
*コロムビア
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1941.3
歌えば天国 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。日本帰任後,最初にNHKラジオ番組に出たことから主にラジオとの付き合いになってゆく。)
(戦後)
嘆きの小鳩 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952
- 122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/25(Mon) 15:37
- 日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環。大正から昭和にかけ、ロイヤルアルバートホールをはじめ、世界のオペラハウスで「蝶々夫人」2000回公演。エンリコ・カルーソ―と共演したこの大ソプラノ歌手,山中湖に疎開していた中で病気を患い、昭和21年5月26日63歳、東京渋谷の病院で亡くなり、山中湖平野の寿徳寺に母堂とともに眠っている。上野寛永寺にもある。
墓碑には自筆で、こう刻まれている・・
《うたひめは強き愛國心を持たざれば、眞の藝術家とはなり得まじ .. 環》
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちの多くがとかく西洋かぶれして、日本の文化を見失っていた中で、日本をこよなく愛した。
祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。古賀政男(1904 - 1978)と三浦環(1884〜1946),この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。
三浦環はこの後、昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を高く評価していた。
三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。
古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。
展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。
そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。
上記、昭和十一年六月十六日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演は、昭和11年(1936年)『蝶々夫人』公演2000回達成後の凱旋帰朝でのことである。
その三浦環が古賀政男のファンで、あるとき古賀に言った。・・
「古賀さん、あなたの歌こそほんとうの日本の歌ですよ。私は、あなたの歌に恋をしているの。日本にも、もっともらしい歌曲が出てきましたが、こんなの、みんなアチラのまねごとなのよ」三浦環も相当な異端者にちがいないが、外国に長く暮らすと、日本の伝統の素晴らしさに気づくということがある。この言葉に古賀政男は励まされたと自伝に書いている。(『我が心の歌』(展望社刊1965))
その古賀政男の唄には、三拍子が多いといわれる。「影を慕いて」ができるまで日本にメジャ―な三拍子の曲はなかった.「影を慕いて」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「湯の町エレジー」等々これらすべて三拍子である。日本の歌には伝統的に三拍子はない。なのになぜ古賀に三拍子が多いのかというと、彼の不幸な生い立ちに関係があるともいわれる。
古賀政男がテイチクに移ったのは昭和9年5月。コロムビアは契約違反だとして抵抗、テイチクに移ってからも作曲に使う古賀のピアノを差し押さえた。
弘田竜太郎が救いの手を差し伸べた、古賀は契約以上の作曲をしてるとの一言で解決。
藤山一郎がビクターからテイチクに移ったのが昭和11年5月、「東京ラプソディ」が公開されたころ、昭和11年6月16日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演奏会が盛大に開催され、三浦環と藤山一郎が招かれた。
倶楽部の五十年史『青春よ永遠』によると、第二部で世界的プリマドンナ三浦環がイタリア民謡《オオ・ソレミオ》(カプア・作曲)の後に古賀メロディー「忘れなの花束」と「乙女心」を歌っている。
また、藤山一郎が第一部で、イギリス民謡《永遠の誓い》と《谷間の小屋》を声楽家増永丈夫(バリトン)で、第三部『アラベスク・古賀政男想い出の名曲集より』で、《丘を越えて》、《東京ラプソディー》などを歌っている。
「乙女心」 (関種子 鹿山鴬村作詞 古賀政男作曲 1931)
「忘れなの花束」(西条エリ子 野村俊夫作詞、古賀政男作曲 1936)
- 123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/22(Sun) 12:56
- ■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。
東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。
「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。
今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。
以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞)1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、東京音楽学校本科主席卒業。
- 124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/09(Sun) 00:04
- ぱやぴーーぃーー
- 125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:50
- 藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。
古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。
加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。
なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。
- 126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 21:49
- 藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲を吹き込んだのだった。
戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」などの青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある歌声で「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。それは在学中に校則に反してアルバイトでレコード吹込みしたからで、そのからで、若く溌剌とした歌声は「青い山脈」(1949)など、戦後抑留生活の後、日本に帰った30代後半を過ぎ40代近くなった頃の戦後の歌声と比べればよくわかる。
限界を感じていた藤山一郎は、その後昭和29年(1954)に歌手を引退、NHK嘱託となった。
- 127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/15(Sat) 10:44
- 昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、歌う昭和史・藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名増永丈夫を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし「藤山一郎」と言えば古賀メロディ。
藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。
彼の歌声は明るくて、清潔そのものの感じを受けていました。作曲家の「古賀政男」とのコンビの歌を沢山歌っていましたが、何処へに行っても聞こえて来るのは此の歌声でした。
「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、「影を慕いて」「丘を越えて」「東京ラプソディ」など、昭和6年以来の古賀メロディが圧倒的で、それ以外で知られるのは、ビクタ―時代の「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」など。
戦後は昭和29年にコロムビアレコードを辞めてレコード歌手から引退するまで、長い抑留生活から焼け野原の祖国に帰ってからの戦後の代表曲は、「青い山脈」[長崎の鐘]「銀座セレナーデ」「浅草の唄」など。
- 128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 00:10
- 【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50
- 129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:02
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50
- 130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:31
- h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」
好評 発売中!
オリジナル原盤を使っているので良い。
- 131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/31(Fri) 16:43
- レコード草創期
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- 132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:13
- >>123
■■[日本のクラッシック」古賀メロディを支えた歌手は第一級のクラッシック歌手だった!!。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部) 通称;上野の音楽学校
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり (古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
■帝国音楽学校
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
■その他
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
*三浦環他に師事
玉川英二,倉仲佳人, 瀬川与志はサトウハチローの別名
- 133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:20
- 李 香蘭(山口淑子) 紅い睡蓮(西條八十作詞) 1939.9 三浦環,他に師事
- 134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 11:02
- 訂正
>>123
■■[日本のクラッシック」古賀メロディは,第一級の詩人、第一級の作曲家、および第一級のクラッシック歌手に支えられた第一級の音楽文化遺産です!!。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部) 通称;上野の音楽学校
(東京美術学校と東京音楽学校が、戦後の学制改革により東京藝術大学となった。)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり (古賀正夫作詞)1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞)1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児、 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
■帝国音楽学校
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
■その他
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
*三浦環他に師事
玉川英二、倉中佳人、瀬川与志は、サトウハチロ―の変名。
- 135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 23:34
- >>134
☆古賀メロディーを支えた名歌手 (戦前戦後) 27人
■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部) 12人
■東洋音楽学校(現・東京音楽大学) 6人
■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学) 3人
■帝国音楽学校 1人
■その他 5人
- 136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 17:39
- 戦時中に亡くなった徳山l(とくやまたまき・東京音楽学校)を知ってる人はいないだろうな
「侍ニッポン」をヒットさせた歌手だ
戦前のビクターの看板歌手。
戦前の歌は、何とも言えない味があるよね。
名歌手徳山lなどは、惜しまれてならない。
- 137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 17:41
- 戦前の忘れてはならない名歌手に徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)がいる。昭和17年に亡くなったが、侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組など、ビクターの顔として、多くの歌を残した。
戦争中で、慰問の際のケガが元で。敗血症になり惜しまれてなくなった。
- 138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 17:43
- 名歌手・徳山l、殆ど多くの歌手によって○○調など決まってしまうのが多いが、徳山lの歌は歌によって変わる。
「満州行進曲」など多くの軍歌を豪快に歌うこの歌手が歌う、四家文子と歌う「天国に結ぶ恋」のやさしい歌声。これぞ名歌手の名歌手たるところ。
- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 17:46
- 徳山l(とくやまたまき)
侍ニッポン
天国に結ぶ恋
かんかん蟲は唄う
雪の渡り鳥
ころがせころがせビール樽
夜の酒場に
ミミの歌
想い出のギター
隣組
ルンペン節
赤い灯青い灯
百万人の合唱〜幸福な朝
恋に泣く
悲しきジンタ
サラリー・マンよ
ブム大将
ガラマサどん
天から煙草が
歩くうた
紀元二千六百年
先陣訓の歌
太平洋行進曲
満州行進曲
大陸行進曲
国民進軍歌
戦友
愛馬進軍歌
日の丸行進曲
空の勇士
海の勇者
哀歌
さくら・さくら
黒い瞳
愛国行進曲
・」
・
- 140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 17:53
- 放送オペラ 放送一覧
内山惣十郎著「浅草オペラの生活」(昭和42年 雄山閣)を基に構成しました。
h ttp://stokowski.web.fc2.com/jp/nattoku/opera_air.html
二村定一、徳山l、天野喜久代、河原喜久恵、藤原義江、佐藤千夜子、奥田良三、川崎豊、四家文子、関種子、増永丈夫(藤山一郎の本名)・・
知る人ぞ知る錚々たる名がみられますね。
◇徳山l追悼/青砥道雄(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.98-100
- 141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 18:01
- ◇徳山l追悼/青砥道雄(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.98-100)
内容:徳山l[とくやま・たまき]は1942(昭和17)年1月28日、慶応病院で死去したが、声楽家としての磨きをかけて本領を発揮するのは、これからという時だった。
/徳山が東京音楽学校を出たのは1928(昭和3)年で、ちょうどビクターやコロムビアが日本吹込みを開始したばかりの時だった。当時できたばかりの武蔵野音楽学校の先生になったが、生活の設計にはいろいろ苦しみ、周囲の猛烈な反対を押し切ってビクターの専属歌手となった。
そしてレコード歌手のレベルを一気に引き上げ、自分の仕事も軌道に乗せた。こうしてレコードのごく初期にこの世界に飛び込んで、しかも終始一貫一社の専属として他社に動かず、十何年間のレコード変遷とともに生きてきた。
/第1回の吹込みは1930(昭和5)年で松竹映画の主題歌《叩け太鼓》、次が《撃滅の歌》(堀内敬三作曲)、1931(昭和6)年の《さむらひ日本》《るんぺん節》(いずれも松平信博作曲)で全国的に有名になった。
満州事変の時には《満州行進曲》(堀内敬三作曲)を歌った。
日中戦争前に官能的な流行歌の時代となったが、この時期、徳山は《天国に結ぶ恋》(松平信博作曲)や、勝太郎といっしょに《櫻音頭》を歌った。この頃の徳山は、ロッパと組んで盛んに芝居をやった。
日中戦争が起こってからは、《愛国行進曲》《日の丸行進曲》《大陸行進曲》《太平洋行進曲》を歌い、晩年には「トントントンカラリ」の《隣組の歌》を歌った。指導振りは誰にでも親しまれていたので、亡くなった直後、あちこちの隣組常会で故人の話題がしきりに出たという。
/徳山の声は実にきれいだと言われるが、声の寿命を長く保持するために禁酒・禁煙をしていた。そうした努力があってこそ、ベートーヴェンの《第九交響曲》と流行歌を同時に歌うことができたのである。
/今度の病気は、1941(昭和16)年11月に発病したのだが、同年2月には痔で入院しているから、全体に身体が弱っていたのかもしれない。しかし死ぬ前日にも、日ごろの洒脱な調子を失わずに歌っていたそうである。なんでも頭が痛いといって頭を叩いたのがいけなかったらしい。
/徳山は、さいきん音楽芸術への自覚を深め、声楽家として本腰を入れようとしていた。その一つの現われが《冬の旅》独唱会であった。ポスターやプログラムも全部自分で図案を考えたが、それが黒一色で、死んで行く徳山を予感されるようで縁起が悪い図案だった。
1941(昭和16)年に痔で入院したときには首相から見舞をいただいたし、この度はまた首相から弔問を辱うしている。
メモ:p.99に「徳山l略年譜」が掲載されている。
- 142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 18:08
- 徳山lは、代々木上原駅前の古賀政男音楽博物館にも顕彰されている。
パソコンで選んで顕彰者のレコードを聞くことができます。
- 143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 18:14
- 日の丸行進曲 (作詩・有本憲治 作曲・細川武夫)
ビクター 昭和 13 年 4 月 発売
唄・徳山 l/四家文子 中村淑子 波岡惣一郎 江戸川蘭子 能勢妙子
母の背中に 小さい手で
振ったあの日の 日の丸の
遠いほのかな 思い出が
胸に燃えたつ 愛国の
血潮のなかに まだ残る
梅に桜に また菊に
いつも掲げた 日の丸の
光あおいだ 故郷(くに)の家
忠と孝とを その門で
誓って伸びた 健男児
ひとりの姉が 嫁ぐ宵
買ったばかりの 日の丸を
はこぶ箪笥の抽斗(ひきだし)へ
母がおさめた 感激を
今も思えば 眼がうるむ
「愛馬進軍歌」
昭和14年3月発売 (作詞 久保井信夫 作曲 新城正一)
ビクター 徳山蓮・四家文子唄
くにを出てから 幾月ぞ
ともに死ぬ気で この馬と
攻めて進んだ 山や河
執(と)た手綱に 血が通う
昨日陥した トーチカで
今日は仮寝の たかいびき
馬よぐっすり 眠れたか
明日の戦(いくさ)は 手強いぞ
弾丸(たま)の雨降る 濁流を
お前頼りに のり切って
つとめ果たした あの時は
泣いて秣(まぐさ)を 食わしたぞ
- 144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 18:27
- 豪快な「侍ニッポン」と、繊細で哀調を帯びた「天国に結ぶ恋」(四家文子)がある。いずれも西條八十作詞、松平信博作曲の名曲、(「天国に結ぶ恋」は、昭和7年伊豆の坂田山で実際に起きた慶応大生の心中事件をテーマにしたもので、両方とも変名)。
この対照的な二つの歌を聴き比べると、徳山の名歌手たるすごさがわかる。とても同じものが歌っているとは思えない。今のクラッシックの歌手が何でも大声を張り上げるのと比べ、とてもクラッシックの歌手とは思えない、言い方を変えれば本当のクラッシック歌手、いかに名歌手であったかがわかる。徳山lのレコード吹き込みは400曲ある。
古賀政男音楽博物館で、名歌手徳山lのレコードが聞ける。
- 145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 19:13
- 徳山lは四家文子と多くの軍歌・軍国歌謡も多く歌っている。
満州行進曲、戦友、太平洋行進曲、愛馬進軍歌、・・
豪快な中に他と違う哀調を帯びている。絶品である。
特に愛馬進軍歌いい。
- 146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/17(Fri) 19:31
- 日本の軍歌は哀調を帯びていると言われる。
特にそうした軍歌を歌わせたら右に出るものがいない。他もそうだが。
日本の軍歌、特に昭和のそれが哀調を帯びているのは、日本の兵隊は
貧しい農村出身者特に東北など、が多いからとされる。
名歌手徳山lの歌うそれは、自由を謳歌し、飽食の物の有り余る戦後の街宣の上面をなぞるだけの空虚なそれとは当然の事ながら比べ物にならない。
豪快な満州行進曲、戦友、太平洋行進曲・・、哀調を帯びた愛馬進軍歌、日の丸行進曲・・
若くしてこの世を去ったこの名歌手が惜しまれてならない。
- 147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 22:28
- (取り戻そう日本の歌)日本の歌謡の歴史(日本の文化遺産)
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