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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
- 【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。
代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:55
- 古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。
そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。
このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。
なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:58
- 戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。
そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。
昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。
『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:58
- 毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。
藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。
古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:15
- 1931年(昭和6年),ちょうど古賀政男が作曲家メジャーデビューした年、ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。
これがいわゆるプラーゲ旋風で、これに慌てた日本政府は、1939年(昭和14年)仲介業務法を制定し、社団法人大日本音楽著作権協会に仲介業務の許可を独占的に与え、他の者は仲介業務ができなくなったのです。
このためプラーゲはあきらめて1941年、日本を去ったのでした。これ以来、大日本音楽著作権協会、のちのJASRACがわが国の音楽著作権管理を一手に引き受けてきた。
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:18
- 現在、一般社団法人日本音楽著作権協会(Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。英称を略し、「JASRAC(ジャスラック)」と呼ばれることも多い。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。
概要
音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から録音権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。社団法人であるため一般社団・財団法人法に基づいて非営利目的の運営が法律により定められている。
本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化記念財団が所有するビル内に設置され、22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは、現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年(昭和14年)に設立された大日本音楽著作権協会をその前身とする。
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:36
- ?日本音楽著作権協会(JASRAC)はヤマハや河合楽器などの音楽教室での演奏にも著作権料を徴収する方針を固めた
?JASRACは現在、コンサートや演奏会、カラオケにも著作権料を徴収している
?来年1月から徴収を始めたい考えだといい、徴収額は年間10?億円と推計。教室側は反対しており訴訟になる可能性も
これに対し反発も多い。
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:41
- ?は点の文字化けです。
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:49
- JASRACに対する反発として巷では、このようなことも巷では言われています。
それほど古賀政男はJASRACに著作権料で貢献しているといえる。
またコロンビアの顔でもあり、最大の著作権者たる「日本の名士」たる古賀政男は、JASRACの設立にも関与した。
JASRACなんて単なる古賀政男先生の版権に群がった乞食のなれの果てでしょ?
JASRACって必要か?
JASRACっていうのは古賀政男という作曲家がはじめた著作権管理団体です。
古賀政男の曲使用料をとるだけの団体だったのが、横文字の社名にして分かりにくくしてる。
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 19:44
- 明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。
これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。
代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。
古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。
戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。
これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。
ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。
また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。
また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。
西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、代々木上原の古賀邸跡の「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、平成6年に古賀財団(財団法人古賀政男音楽文化振興財団)のビルに移転。
「古賀政男音楽博物館」と一体で、その隣にそびえ立つこのビル(古賀財団のビル)にテナントとして移転。
JASRACをテナントとしてそびえたつその威容は、まさにそこが大衆音楽文化の聖地たる象徴にふさわしい。
。
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 20:33
- 《婦系図の歌》(戦後《湯島の白梅》となる)《勘太郎月夜唄》がある。この二曲は清水保雄の作曲となっているが、実は古賀政男の作曲という説が存在する。
事の発端は、昭和45年、日本音楽著作権協会(略称・ジャスラック)の会長選挙戦である。会長選挙にはサトウ・ハチローと古賀政男が出馬する意向をしめしており、二人の一騎打ちが予想されていた。
この時、清水保雄はサトウ・ハチロー側を支持する立場に回り、古賀の出馬に反対する態度をとった。
これに古賀が激怒する一幕があった。この年の五月、古賀は、急性膵臓炎のために日赤病院に入院。
本来古賀がなると思われた、戦後中山晋平、西條八十、堀内敬三の後、戦後4代目のJASRACの会長は古賀政男ではなくサトウハチローとなった。
詩人サトウハチローの後、第5代古賀政男がなったのだが、昭和53年に亡くなってしまった。
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 20:57
- 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)
歴代会長
昭和14〜20 水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23 国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27 中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40 西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者早大教授
昭和40〜46 堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48 サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52 古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55 勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜 服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜 吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜 黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜 遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜 星野哲郎(1925〜) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜) 作曲家
平成22年〜 戸倉俊一(1948〜) 作曲家
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:13
- 昭和14年に大日本音楽著作権協会として設立された。
会長は内務省関係政治家だったが、戦後は作家で、著作権者で作曲家と詩人が交代でやることになっていた。
分野はクラシックを含めたす音楽分野べて。だが「著作権」となるとクラッシックはほとんどいなく、実際は歌謡曲(歌謡曲とは歌詞をもった「歌曲」のこと)分野がほとんどすべて。
戦後初代は作曲家中山晋平、次に西條八十、堀内敬三、サトウハチロー、古賀政男、いずれも大衆歌謡に関係した知る人ぞ知る錚々たる人物といえる。
その後、歌も変わり昭和も末となるともう錚々たる人もいなくなる。
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:20
- 2006.07.24 Monday
【おぴにおん】 みんなで唄える歌がない(1) 戸倉真一
最近よくある話題に「最近の歌はメロディーがない」「皆で口ずさめる歌がない」「昔の歌はよかった」というのがある。主に70年代、80年代、集中的にヒットチャートに歌を送りこんでいた小生などの耳には一見心地よさそうに聞こえる会話なのだが、果たしてどうなのか。
確かに70−80年代に年間最低4、5曲はあったミリオンセラーが、最近のヒットチャートを見ていると1曲あるかないかである。CDの売り上げだけを見ても、2005年度は1995年度と比べても、実に半減している。この一見音楽業界の衰退とも見える現象には、様々な要因を含んでいる。
まず日本人は古来メロディー(節)を詩(うた)に付随するものとして捕(と)らえて来た。かつて故古賀政男先生から「都倉君、詩が夫でメロディーは女房の役目だよ」と言われ、若気の至りで「いや先生、私は逆だと思います」と、先生を苦笑させた覚えがある。
音楽家としては音が言葉より優先しているという気持ちが強かったようだ。1970年代と言えば録音技術の発達とともに作曲家の曲作りの方法も変わってきた頃である。いわゆるマルチトラック録音と言うもので、この辺からレコーディング・プロデューサーなる仕事も生まれた。いかにスタジオでよい音を作るか、良いサウンドを作るかにまい進し、言葉を軽視していった結果、いつしか良い「ミュージック」はあっても、良い「ソング」が出来にくくなってきたのかも知れない。
今の若者の音楽的感性は驚くほど発達して来たが、日本人のDNAが古来から持っている情緒のようなものが数十年で変わるはずもなく、もう一度すなおに「節」と「詩」に戻ってみる時なのかも知れない。
【神戸新聞 2006年1月11日(水)「随想」掲載 全7回シリーズ】
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:36
- 5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年(1928)から53年(1978)に亡くなるまでの、半世紀にわたる「昭和」の歴史そのものの作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:44
- 【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 22:27
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 23:23
- 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
設立趣旨
作曲家古賀政男は、生前から音楽文化の振興をはかるため、自己の財産を提供し、公益事業を目的とする財団法人の設立に熱意を燃やしてきました。
その遺志を受け継いで、昭和54年1月18日、財団法人古賀政男音楽文化振興財団が、文部大臣の許可のもとに設立され、その後平成25年4月1日に一般財団法人に移行いたしました。
以来今日まで、古賀メロディーの継承・発信と音楽文化の発展を目指して、古賀政男音楽博物館を中核とし、福岡県大川市の古賀政男記念館(分館)と連携しつつ、財団の活動を展開してまいりました。
古賀政男音楽博物館では、古賀政男ゆかりの品々の展示とともに、日本の大衆音楽をさまざまな角度から取り上げた企画展示を行い、博物館併設の「けやきホール」では、古賀メロディーや歌謡史などをテーマにミュージアム講座、コンサートを主催するほか、各種の演奏会も開催しております。
館内には、日本の大衆音楽文化の発展に貢献した作詩家・作曲家・歌手・編曲家・演奏家の方々を顕彰し、その輝かしい業績をたたえる「大衆音楽の殿堂」を設けております。
さらに当財団では、全国各地での古賀メロディーを中心とした音楽祭・コンクールや舞祭りなどのイベントにも、毎年、共催・後援等を通じて積極的に協力をしております。
今後さらに、古賀メロディーをはじめとする日本の大衆音楽文化の継承と発展に寄与していきたいと思います。
名 称:一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
理事長:植木 浩
所在地:東京都渋谷区上原3−6−12
TEL :03-3460-9051
設立年月日:昭和54年1月18日
設立目的
当財団は、古賀政男音楽博物館の設置・運営を行うとともに、音楽関係者に対する奨励・助成等を行い、もって我が国の音楽文化の発展に寄与することを目的とします。
事業内容
古賀政男音楽博物館の設置・運営及び音楽に関する調査・研究
「大衆音楽の殿堂」の設置による大衆音楽の創造、発展に顕著な業績のあった者に対する顕彰
音楽文化の発展に寄与している団体に対する助成
古賀楽曲の継承、振興を図るため、各地における歌謡祭等の開催
音楽堂(けやきホール)の設置・運営
事務所ビルの賃貸
その他設立の目的を達成するために必要な事業
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 23:27
-
事務所ビルの賃貸とはJASRACに対する本部ビルの賃貸です。
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 00:32
- リンカーンなんて車幅が2mを超えている。
全長6m。
リンカーーーン
リンカーン、リンカーンといえば、まだ外車がめずらしかったころ、作曲家の古賀政男が地方に行くにも愛用していた車。
よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、
車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html
師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。
古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
坂を登った左側には大きな車庫があってリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 09:21
- 古賀政男先生のご自宅へレッスンに通った日々、思い出の古賀邸スケッチです。当時、住込み修業をしていたアントニオ古賀先生のご自宅から、バス、電車を乗り継いで40分。まだ十代でした。代々木上原古賀邸の思い出でも紹介してます。 (スケッチ/ルナ・ケンゾー)
古賀政男先生の邸宅です。(図)
井の頭通りに面して正門があり、そこからず−っと奥まで敷石道が続いています。
門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
大きな石の門を入り長い敷石道の坂を上っていきます。
左側には車庫があって、ベンツ、リンカーン、マスタングなど高級車が並んでいました。
車寄せをはさんで車庫の向かい側が古い日本式洋館の古賀政男先生の邸宅です。
玄関を入って左側の部屋がレッスン室でした。
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 09:25
- >>21
h ttp://lunaken.com/e/08070101.htm
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:09
- 小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。
しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から86年前の昭和6年(1931)3月。
専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。
古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。
この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。
音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。
旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。
現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。
駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。
古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。
この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。
JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。
古賀政男没後すでに36年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。
日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。
何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:19
- 古賀政男音楽博物館など「古賀財団」のビルは、上から見るとつながったコの字型。左がJASRACが入ってるビル、右が博物館。
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:31
- 昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。
会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。
ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。
参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。
「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物が昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされた昭和の著作権王古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは古賀政男の偉大さを物語るに十分すぎる象徴的なものであろう。
http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#menu
- 26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 11:38
- ☆古賀政男と『七人の侍』
・・古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など
古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。
いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。
古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりし人。
あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカードやリンカーンを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。
戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。
古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。
いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。
清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。
さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。
『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。
このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 11:57
- 東京ラプソディ
昭和11年(1936年)
日本では軍國主義が高揚され、軍歌が流れる中で民衆には渡邊はま子〈ああそれなのに〉や、美ち奴〈うちの女房にゃ髭がある〉等に人氣がありました。6月に入り〈東京ラプソディ〉が藤山一郎の明るい歌聲で發賣されると瞬く間に流行り出しました。
風薫る5月、古賀政男は愛用のフォードで神宮外苑を運転しながら、樂想を深めたと云はれています。中山晋平の〈東京行進曲〉を念頭に、カサド作曲のマンドリン合奏曲〈西班牙の花〉の旋律を一部使ひ、昭和のモダン都市「東京」を謳歌する健康的な歌は、戰前最後のものでした。
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 14:02
- 現在の住宅地としての姿は関東大震災で焼け出された人々が土地の安さに引かれ移住したことに始まる。28(昭和3)年ごろには現在の古賀政男音楽博物館から坂を少し上った上原仲通り商店街の原型ができたが、住宅地と商店街の間には沼沢地と急峻な丘やがけがあり、大変不便な場所だった。
杯を傾け命名
これを打破するため住民たちは団結。自らの手で丘を切り開き、35年には住宅地と商店街をつなぐ1本の坂道が完成した。落成時には杯を傾け坂の命名談義で盛り上がり、「皆で協力して苦労し、やりくりしたのだから『やりくり坂』が良い」との意見にまとまったという。
「やりくり坂」完成後、沼沢地も埋め立てられ街は徐々に発展。引き寄せられた人々のなかには若き古賀政男の姿もあった。九州から上京し作曲活動の第一歩を踏み出したのがこの代々木上原だ。また日本人だけではなく、ロシア革命後、亡命を余儀なくされたトルコ系イスラム教徒の人々も住み着いた。彼らが協力して建てたのが東京回教学院。現在の東京ジャーミイである。
「この街にユセフ・トルコというプロレスの名物レフェリーがいてね。彼が苦しかった時代、何から何まで面倒を見ていたのがうちの父親だった」と当時を回顧するのは、上原社会教育館館長の大木成介さん(79)。往時から住民同士助けあって温かな交流が持たれていたようだ。
トルコとの懸け橋
東京ジャーミイは東京回教学院が老朽化、閉鎖した後、その跡地にトルコ政府の肝いりで00年に開堂。同寺院を切り盛りするエンサリ・エントルコさん(34)は第2代イマーム(礼拝のリーダー)。「東京ジャーミイは祈りの場だが、またトルコ文化センターとしての顔も持つ。トルコと日本の懸け橋となるよう施設はいつも開放し、住民の皆さんのお越しを歓迎します」と語る。今ではテレビで有名になり街の名所に。
古賀の音楽博物館
もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)がテナントとして入る。都内を転々とした古賀だが、思い出の地として52年に引っ越し、ついのすみかとなった。
- 29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 15:56
- 私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)
昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))
代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,
古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。
因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。
古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。
参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。
- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:21
- 『旅姿三人男』昭和14年
(テイチク/詩:宮本旅人/曲:鈴木哲夫/歌:ディック・ミネ)
清水港の・名物は・・
この曲を作詞した宮本旅人の、伝記作家としてのもっとも有名な仕事は、古賀政男伝でしょう。いまでこそ古賀伝はたくさんありますが、昭和13年という早い時期に古賀伝を出したのです。たぶんこれが古賀伝の最初です。
古賀邸に寝泊まりするほどの熱心さで、入念に打ち合わせて作られたとされる本で、したがって客観的な伝記というよりも、今活躍している芸能人の伝記と同様にPR的な色彩のつよい本ですが、それでもテイチク時代の古賀政男の周辺の事情などがわかり、貴重な資料となっています。
(宮本旅人はいろんな本を書いた人で、わたしの編纂したCD−ROM版SF書籍データベースには『シベリアのターザン』という本を入れてあります。シベリアを侵略してくるロシア人と戦うシベリア原住民の少年の話です)
で、その古賀伝とは――
◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)
第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集
B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。
この本を神田の古書街で若いころ(50年くらい前です)に見つけて購入しました。
古賀メロディのファンでも持っていない人が多く、当時すでに一種の稀覯本だったと思います。
古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
復刻本には、著者の宮本旅人の復刻の言葉と同氏が撮ったらしい晩年の古賀政男の写真があって貴重です。
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:49
- 俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。
「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」
古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。
昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。
コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)
西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。
『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・
昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:55
- 戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。
以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。
なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。
♪おさない日 かなしい日
聞いた歌 懐かしメロディー
君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・
映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。
次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・
なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 22:46
- 西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。
「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」
詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。
32 名前:名無しさん@お腹いっぱい
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 23:11
- 物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。
「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。
「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。
「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)
その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。
初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。
これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。
古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。
川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。
さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。
大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:12
- 「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。
今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。
いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。
目 ン 無 い 千 鳥
サトウハチロー作詩 古賀政男作曲
昭和15年(1940)
1 目ン無い千鳥の 高島田
見えぬ鏡に いたわしや
曇る今宵の 金屏風
誰の科(とが)やら 罪じゃやら
2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
過ぎし月日の 糸車
まわす心の 杯に
紅はさしても 晴れぬ胸
3 雨の夜更けに 弾く琴が
白い小指に 沁みてゆく
花が散る散る 春が逝く
胸の扉が また濡れる
4 目ン無い千鳥の 寂しさは
切れてはかない 琴の糸
青春(はる)の盛りの 若い葉に
咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨
目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、
目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。
古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」
後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:27
- 新妻鏡
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、
唄:霧島 昇・二葉あき子
1 僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの花の妻
遠くさびしく離れても
泣くな 相模(さがみ)のかもめどり
2 たとえこの眼は見えずとも
きよいあなたの面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの青空に
3 強くなろうよ 強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
なんで嵐にあてらりょう
4 むかし乙女の初島田
泣いて踊るも生計(くらし)なら
清い二人の人生を
熱い泪(なみだ)でうたおうよ
*3番は歌われていない。
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 21:53
- 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)
もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。
『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。
まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。
昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。
今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。
昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。
そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。
映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。
「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。
・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。
詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。
「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。
なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。
そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。
別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。
古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:03
- 人生の並木路
(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 )
1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば幼い二人して
故郷を捨てた甲斐がない
2.遠いさびしい日暮れの路で
泣いて叱った兄さんの
涙の声を忘れたか
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
やがて輝くあけぼのに
わが世の春はきっと来る
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛高らかに
この人生の並木路
日活 1937.1.14 「検事とその妹」主題歌
CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・
下)』テイチクTECE 24459,25460
この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
若きディックミネの歌う 昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:18
- 人生の並木路
雪も降れ降れ 夜路のはても
やがてかがやく あけぼのに
わが世の春は きっと来る
3番目の詞と4番目の
生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛 高らかに
この人生の 並木路
〜この詞に救われる思いがします。
だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽
『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。
これは、私の心の師「盲目の賢者」様から教え諭された事です。
- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:25
- 『検事とその妹』 惹句より
「検事とその妹」(1937年1月)は原節子の出世作「新しき土」(1937年2月)の直前の公開作品。宣伝チラシを入手した所、惹句には「新しき土により世界の舞台へ登場する節子。これは至純明眸可憐無比 原節子第一線への躍進篇」とあります。思いっきり原節子の話題性に飛びついた感がありますが狙いどおり、主題歌 「人生の並木路」とともにヒット作となります。
新しき土
ストーリーは泉鏡花の「滝の白糸」のバリエーションで、検事を目指し学業を続けた兄を助けるために苦労した妹の結婚が決まるが、なんとその結婚相手が犯罪に関わっており、検事の兄が拘引する、、というもの。
惹句には「熾烈を謳われる検事の兄が裁きの庭に見出したものはなんだったのだろう? 幼少より苦楽をともにし、誰よりも愛している妹の幸福を約束する若者であろうとは! 検事の胸に絶え間なく吹きつける嵐の音よ!」と煽りたてます。それで「♪泣くな妹よ 妹よ泣くな〜」なんですね。それでも最後は「♪生きて行こうよ希望に燃えて 愛の口笛高らかに この人生の並木路」と妹は兄を許し、婚約者を待ちます。戦前の日本ってこういう苦労もの、お涙頂戴ものが好きだったんでしょうか。。でも是非、見てみたいですね。フィルムが現存するという話は聞いた事がありませんが、、。
****
■「検事とその妹」は1956年に丹波哲郎と日比野恵子主演で再映画化されており、あらすじ等の詳細は下記を参照ください。<h ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24817/>
■ちあきなおみが「緑の地平線」を歌った映像があります。
曲紹介では岡譲二、小杉勇、星玲子出演と紹介されていますが、せっかくだから原節子の星玲子と写ったスチール写真も使って欲しかった、、。(スチール写真は22点現存)
↓
<h ttp://www.youtube.com/watch?v=AL1lixFc1C8>
- 41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:35
- 「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。
「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm
- 42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:00
- NHK 2016年(平成28年)1月25日[月曜日]
文化・エンタメニュース一覧
「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元
原節子 永遠に美しく
「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元
1月25日 18時41分
「伝説の女優」と呼ばれ、去年9月に95歳で亡くなった原節子さんが16歳の時に出演した映画のフィルムが残されていたことが分かり、劣化したフィルムから一部の映像が復元されました。専門家は「原さんの初期の映画は失われたものが多く、復元できたことは意義がある」と話しています。
このフィルムは去年9月、95歳で亡くなった原節子さんが昭和12年、16歳の時に出演した映画「検事とその妹」です。
これまで神戸市の資料館に保管されていましたが、フィルムの劣化が激しく内容が分からない状態となっていました。このほどNHKなどが最新のデジタル技術を用いて修復したところ、およそ10秒間のシーンを復元することに成功しました。
映画「検事とその妹」は、検事になった兄と原さん演じる妹のきずなを描いた作品です。復元された映像は、裁判所の傍聴席とみられる場所を映した場面で、カメラが移動すると原さんが着物姿で前を見つめながら座る姿が映し出されます。
原さんは、このあと出演した別の映画をきっかけに大スターとなりましたが、それ以前のフィルムは多くが失われているということで、映画評論家の佐藤忠男さんは「ただきれいなだけでなく非常にそうめいな昭和初期の良家のお嬢さんという感じがよく出ていると思う。ワンカットだけでも復元できたことは意義がある」と話しています。
- 43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:05
- 古賀政男の最初の映画主題歌は、昭和6年、同名の映画「チャッカリしてるわね」、
まだサイレント映画であった。
古賀政男はサイレント時代から映画の主題歌を作っている。
今、2015年10月
、トヨタ・カローラのCMに使われている「丘を越えて」(古賀政男作曲)。
これは昭和6年〈1931〉、新興キネマ「姉」の主題。
昭和4年マンドリン合奏曲として作られたものだが、「姉」の映画化に伴い
野口雨情門下の詩人「島田芳文」が詞をつけたもの。
CMで違うが、「酒は涙か溜息か」とともに藤山一郎によって吹き込まれたもの。
「酒は涙か溜息か」は、映画「想い出多き女」になっている。
- 44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:09
- 丘を越えて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:藤山一郎
丘を越えて行こうよ
真澄の空は朗らかに
晴れてたのしいこころ
鳴るは胸の血潮よ
讃えよわが青春(はる)を
いざ行け遥か希望の
丘を越えて
昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)の丁度5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)
戦後70年、2015昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。
- 45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:17
- 「目ン無い千鳥」(サトウ・ハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)
戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。
映画化(1940,1956)
TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策
♪目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・
「目ン無い千鳥」とは、[目隠し鬼ごっこ]のこと。
子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。
詩人サトウ・ハチローは、 目が見えぬということを、一言も触れずに,それをあらわしています。
多分、今ではこういう歌はできないでしょう。
この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。
太平洋戦争前に、こうした[青春歌謡]ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。
でもやはり、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。
歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。
飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。
また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。
15 名前:名無しさん@お腹いっぱい
- 46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:25
- 日本映画の黄金時代と、昭和レコード歌謡(歌謡曲)の黄金時代はほぼ重なる、日本がまだ貧しい時代であった。
日本における最初のレコード歌謡は、昭和3年〈1928)佐藤千夜子「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)であった。
佐藤は日本におけるレコード歌手第一号とされ、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手であり、古賀政男の才能を見抜き
メジャーデビュ―させたことで昭和歌謡史で忘れることのできない歌手。
古賀政男は佐藤について自伝で、私の作曲家としての道を開いてくださった「終生の恩人」と書いている。
- 47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:33
- 戦前から戦後にかけて名作で知られる大女優「原節子」が亡くなって。
15歳から多数の映画に出演した。
ここにでてくるものでは・・・
『緑の地平線』*前篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『緑の地平線』*後篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『白衣の佳人』*(阿部豊 監督、1936年)由紀子
『検事とその妹』*(渡辺邦男 監督、1937年)明子
『勝利の日まで』*(成瀬巳喜男 監督、1945年)(冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品。)
『麗人』*(渡辺邦男 監督、1946年)菊小路圭子
『青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子
『続青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子
*主題歌 古賀作品
- 48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:39
- ゆかりの唄
作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)
都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命
あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。
高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命
1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。
「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。
- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:46
- ・新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草
You Tubeのほか、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942 COL100542
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 13:01
- 丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。
藤山一郎 影を慕いて.
藤山一郎独唱・「影を慕いて」。声楽技術を駆使した歌唱芸術で古賀政男の名曲を歌いあげます。明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏でした。その後、佐藤千夜子がビクターで吹込みましたが、レコードは売れませんでした。藤山一郎の登場をまたなければなりませんでした。
- 51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:07
- ☆西條八十と古賀政男
「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。
以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。
「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・
優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。
「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。
そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。
戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。
「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、
戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集 生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。
CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。
このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。
「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。
- 52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:21
- 誰か故郷を想わざる
(西條八十作詞 古賀政男作曲)
花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を 組みながら
唄をうたった 帰りみち
幼馴染(おさななじみ)の あの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を 想わざる
- 53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:28
- 昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。
昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。
楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。
古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。
藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。
若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。
古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。
そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある
因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。
ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)
かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。
- 54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:32
- >>51
訂正
藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現東京芸術大学)首席卒業の名歌手との出会い。
- 55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/20(Mon) 11:52
- 李香蘭の未発表曲2音源発見 古賀政男作曲、漂う厭戦感
米原範彦
朝日新聞デジタル2015年4月11日15時18分
写真・図版
兵庫・西宮で開催された「大東亜建設博覧会」で「父よあなたは強かった」を歌う李香蘭時代の山口淑子さん。この催しについては1939年4月13日付大阪朝日新聞朝刊で「素晴らしい満映の花 唄のうまい李香蘭」などと報じられた
戦中は時代の波に左右された俳優・歌手、戦後は政治家としても活躍した山口淑子(よしこ)さん(1920〜2014)が戦時中の1944年、李香蘭(りこうらん)時代に録音したとみられる2曲の未発表音源が見つかった。
「雲のふるさと」「月のしづく」で、いずれも作詩は大木惇夫(あつお)、作曲は昭和を代表する作曲家の古賀政男。発売されなかった理由は不明だが、戦後70年を経て埋もれていた戦時歌謡が発見され、専門家は「奇跡的だ」と評価する。
山口淑子さん死去(2014/9/14)
特集:山口淑子さん
山口さんが昨年9月に亡くなったのを受け、日本コロムビア社が音源を調査。古賀政男音楽文化振興財団(東京都渋谷区)が所有する古賀の遺品のSP盤を整理する過程で、確認した。
SP試聴盤の裏表に1曲ずつ収録されていた。盤中央には、各曲名と「李香蘭」の文字が書かれている。
包装紙には「未発表」「S19」などの文字が見える。
- 56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/21(Tue) 23:17
- 「勝利の日まで」
「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。
・・
昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。
「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)
昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。
遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。
『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。
そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。
そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。
・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・
- 57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/27(Mon) 01:06
- 古賀政男は昭和53年8月に亡くなった。同じ年の暮れに「平凡出版」から追悼本「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」が出版された。
その最初のあたりに「日本人と古賀メロデー」と題して歌人・楠本憲吉氏が追悼文を寄せている。古賀作品の真髄は決して「義理、人情」ではない。
人生に真面目に取り組む姿勢であると。以下抜き出して紹介してみる。
私(楠本憲吉氏)は、「古賀メロデー」という言葉には、二つの使い方があるのではないかと思っている。
ひとつは広く古賀政男作曲を意味するものと、もうひとつは、古賀政男の書いた曲のうち、
特に詩のテーマが人生の悩みや苦しみを表現しているもの。
後者の系列に入るものとしては、「男の純情」「人生劇場」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「誰か故郷を想わざる」などがはいるでしょう。
こうしてみると、この狭い意味での「古賀メロデ-」は、いかにも日本人の心の琴線に触れるエッセンスがたっぷりという感じがする。
今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。
病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、「今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねエ」といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、
「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、「僕にはこの詩に曲を付けることができません。」といって返したことがあるという話が印象的だった。
結局は西条氏に「貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。」といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。
とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。
「人生劇場」には、「義理と人情のこの世界」と歌い上げているが、古賀メロデーの真髄は、決して「義理、人情」ではない。人生に真面目に取り組む姿勢である。
真面目に取り組んでいれば必ずいい明日がある。--自分がそうだったから、古賀氏は真実そうおもっていたと思う。
だから古賀メロデーはどんなにどんなに哀愁を帯びていても、暗さがないし陰気な感じをうけないのである。
最後に私の選んだ古賀メロデーベストテンとして、10曲をあげている。
目ン無い千鳥、勝利の日まで、南の花嫁さん、柔、女の階級、サーカスの唄、湯の町エレジー、男の純情、人生の並木路、青春日記
それぞれ簡単な説明つきだが、「勝利の日まで」は軍国歌謡のひとつだが、この歌には思い出があり忘れられない曲だという。
なお、「目ン無い千鳥」は、最近いろいろな人が歌っているがやはりオリジナルの霧島昇夫妻のがいいとある。
男の純情・人生の並木路・青春日記の三曲は説明不要だろうとある。
- 58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/02(Thu) 00:07
- JASRACは古賀政男さんという作曲家の大御所がはじめた著作権管理団体で、もともとは作曲作詞者の権利を守り利益を正当に得るための業界団体を目指していたのだろうと想像します。
目的を達成するには音楽関係の著作権全般をできるだけ網羅し、利用したい人はJASRACと契約する以外ないという状態が効果的です。
かなり早い段階でその目的達成のための手段は達成されました。
その後、強引すぎると感じられる権利行使がいろいろな場面で問題ではないかと批判の的になってきました。・・
- 59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/04(Sat) 10:25
- 日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。
まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。
大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)。
これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。
- 60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/05(Sun) 10:23
- 今年、平成29年〈2017〉は「昭和」で数えると92年目。
「昭和」は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで62年と14日となる。
「昭和」は、日本の歴史、いや世界の歴史の上で最も長く続いた元号であり、元年と64年は共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。
元号の【昭和】は『書経』堯典の「百姓昭明、万邦協和」によるもので、すべての国民の安寧のもとに国際社会の平和の実現を目指すものだった。
実際は、「昭和」の時代は、30年代半ば、高度成長時代くらいまで、今では考えられないほど貧しい時代、食料難の時代で、しかも戦争に明け暮れたのでした。
最近テレビで「昭和歌謡」とか言って若い下手な歌手しか出てこないが、その歌は昭和最末期、昭和50年代、飽食の時代。
明治と大正を合わせた60年より長い。60年をはるかに越える「昭和」。
その昭和の「名」だけいいとこどりした、退屈なモノトーンの歌、下手を競い合うような歌ばかり!。
「レコード歌謡」が始まった「昭和」、昭和改元して実2年後の「昭和3年〈1928〉」にそれは始まった。
レコード歌手第一号はビクターの「佐藤千夜子」。第一号は「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)である。
佐藤千夜子は、昭和4年〈1929〉から昭和5年〈1930〉にかけて、まだ一学生にすぎなかった古賀正男の作曲した「影を慕いて」など7曲をビクタ―に吹き込み、
直後イタリアに渡った。
翌、昭和6年〈1931〉3月彗星のごとく登場したのが「古賀政男」だった。
世は「大学はでたけれど」、世界恐慌の真っただ中だった。今から86年前のことだった。
まだ日本が草深く、農村主体のまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代だったことでしょう。
最近の歌はギスギスして何を言ってるのかわからない。このころの歌には心を打たれるものがある。
そっと寄り添う優しい歌、やさしいメロディ、優しい詩。
第一級の詩人、第一級の作曲家、第一級の歌手が心を込めて作り上げ歌い上げた名曲である。
- 61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:08
- ☆古賀メロディの戦後
戦後の主な古賀メロディ(1947〜1977)
1949までについては、別に「古賀メロディと映画主題歌」参照。
古賀メロディの「古賀メロディ」らしさは、西條八十との黄金コンビの映画主題歌「三百六十五夜」〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)などや、「湯の町エレジー」(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)など、名曲が謳歌した昭和20年代前半あたりまでだろう。
それ以後、日本が豊かになりアメリカナイズして、世の中がハッピーになっていくにつれ歌も変わっていく。昭和23年には、ミス・コロムビア(松原操)は、「三百六十五夜」を最後に歌手を引退。以後、昭和54年に亡くなるまで、家庭に入り歌うことはなかった。家庭の人として、夫・霧島昇をささえ、育児に専念し、その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。
藤山一郎は、昭和29年(1954)に、レコード会社専属(コロムビア)を引退、NHK嘱託となり23年間にわたる歌手生活に終止符を打った。そして、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した事で知られる。
一方、昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』になっていた。指には大きなダイヤを付け、『日本の名士』だった。
「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られるはか、「黄金(きん)の椅子」などのなつかしの歌番組によくでることがあった。
昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。
また「去りゆく影」(昭和8年(1933)1月)に始まる「西條八十」との黄金コンビは戦後も続き、西條八十最晩年の作品でもある「銀座音頭」「若いい銀座」(1968いずれ美空ひばり歌)まで、35年も続いたことになる。
・西條八十作詞、古賀政男作曲 初期の作品
去りゆく影 1933,1 西條八十作詞、古賀政男作曲 関種子 歌
恋ごころ 1933.1 西條八十作詞、古賀政男作曲 長谷川一郎歌
サーカスの唄 1933.5 西條八十作詞、古賀政男作曲 松平晃 歌
しかし、昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。
代々木上原の広大な屋敷の中に7か所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。
「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
- 62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:20
- ◇戦後の主な古賀メロディ・・
圧倒的に西條八十が多い!。
麗人の歌 1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛 1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く 1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫 1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩 1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌 1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜 1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華 1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー 1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車 1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう 1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節 1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん 1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌 1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌) (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ 1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度 1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて 1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲 1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖 1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー 1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈 1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖 1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜 1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー 1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ 1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘 1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース 1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター 1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿 1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌 1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし 1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠 1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ 1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男 1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌) (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松 1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜 1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
- 63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:33
- 続き・・
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代 1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生 1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場 1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌 1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化 1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道 1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭 1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔 1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒 1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌 1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔 1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母 1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)
*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃
- 64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:37
- ☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
昭和4年(1929)の菊池寛原作の日活映画『東京行進曲』の主題歌「東京行進曲」(西條八十作詩、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、わが国の「映画主題歌第一号」とされています。トーキ‐の最初は、昭和6年6月、松竹蒲田、田中絹代主演、五所平之助監督「マダムと女房」と言われる。
今映画館はどんどんなくなってきて大都市以外殆ど見かけなくなった。昭和の初め1930年代から1950年代にかけて、まだ日本が貧しかった時代、日本映画黄金時代だった。
茶の間にまだテレビもなかった時代、どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々の娯楽の主体はラジオと映画だった。人々はそれを心待ちしたのだ。
一世を風靡した川口松太郎原作[愛染かつら](昭和13〜14年)などたくさんある。溢れるような「古賀メロディー」、それは映画主題歌とともに、映画とともにあって、無声映画時代から戦後に至るまで、しかもとぎれなく人々の心を慰め生きる力を与えてきた。
「古賀メロディ」の特徴は、まずヒット曲が多いことである。作曲家は数多く出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものは無いのです。
そして実は、「古賀メロディ」には映画主題歌が圧倒的に多のだ。
《東京ラプソディ》も、《緑の地平線》、《女の階級》、《人生の並木路》(日活「検事とその妹」)も《目ン無い千鳥》(日活[新妻鏡])などみんな映画主題歌。
昭和6年、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」に始まる映画主題歌には、この無声映画に始まり、戦後まで続くのは「古賀メロディ」しかない。(なお、「チャッカリしてるわね」は、関種子の「乙女心」と表裏にある。)
古賀政男は昭和53年に王貞治選手に次いで「国民栄誉賞」を与えられた。存命の人に与えられる「国民栄誉賞」が亡き後に贈られたのだが、古賀の人生が、まさに日本に「歌謡曲」というものができて、それが確立する歴史そのものであるということからも、それに値するといえるだろう。
昭和12年、テイチク時代、映画も40編を超えているのだが「映画主題歌にみる主な古賀メロディ」などを、まとめてみました。
主な古賀メロディーの映画主題歌・・以下参照
- 65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:47
- ■ 主な古賀メロディーの映画主題歌。・・
・松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声 映画)
主題歌 チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞 天野喜久代歌)
(映画と関係ないが、片面が関種子「乙女心」♪朧月夜のその頃に・・)
・松竹映画1931.10 「想い出多き女」 (無声映画)
主題歌 酒は涙か溜息か〈高橋掬太郎作詞 藤山一郎歌〉
挿入歌 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞 淡谷のり子歌)
・松竹 1931.11清水宏監督「青春図絵」(菊池寛 原作)
主題歌 青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛詩、関種子歌)
・入江プロ 1936「白衣(びゃくえ)の佳人」
主題歌「白衣の佳人の唄」 (佐藤惣之助作詞 デックミネ歌)
・新興キネマ1931「姉」
主題歌 丘を越えて(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
挿入歌 窓に凭れて(島田芳文作詞 関 種子歌)
・松竹映画1932.1野村芳亭監督「金色夜叉」(無声映画)
主題歌 お宮の唄(佐藤惣之助作詩、関 種子歌)
・松竹映画1932.3 島津保次郎監督「勝敗」
主題歌 町子姉妹の唄(菊地寛詩、河原喜久恵歌)
・日活映画1932.7「鳩笛を吹く女の唄」(無声映画)
主題歌 鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、井上静雄(藤山一郎)歌)
・大衆文芸プロ映画社1932「佳人よ何処へ」
主題歌 あけみの歌〈原阿佐緒作詞、関種子歌〉
挿入歌 佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞 淡谷のり子歌)
・日活映画1932「上海」
主題歌 さらば上海(時雨音羽作詞 関種子歌)
・新興キネマ1932「スキーの唄」
主題歌. スキーの唄(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
主題歌 白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」
主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子.歌)
- 66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:50
- ・日活映画1935阿部豊監督「緑の地平線」
主題歌 緑の地平線(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
挿入歌 ゆかりの唄(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
挿入歌 夕べ仄かに (島田芳作詩、デックミネ歌)
・日活映画1936島耕二監督「情熱の詩人啄木」
主題歌 啄木の唄(島田磬也作詞 楠木繁夫歌)
挿入歌 春まだ浅く〈石川啄木作詩 有島通夫歌〉
・テイチク提携東宝映画(PCL映画)1936東京ラプソディ」
主題歌 東京ラプソディ(門田ゆたか作詩 藤山一郎歌)
挿入歌 東京娘(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
挿入歌 青春の謝肉祭(カーニバル)(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「慈悲心鳥」
主題歌 慈悲心鳥の唄(佐藤惣之助作詩 楠木繁夫歌)
挿入歌 さらば青春(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「魂」
主題歌 男の純情(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
挿入歌 愛の小窓(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
・日活映画1936千葉泰樹監督「女の階級」(吉屋信子原作)
主題歌 女の階級(村瀬まゆみ作詞 楠木繁夫歌)
挿入歌 回想譜(今城靖児作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」
主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞 美ち奴歌)
・日活映画1937.1.14渡辺邦男監督「検事とその妹」〈竹田敏彦原作『検事の妹』〉
主題歌 人生の並木路(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)(テイチク1200)
挿入歌 聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活1937「真実一路」(山本有三原作)
主題歌「真実一路の唄」(佐藤惣之助作詞 楠木繁夫歌)
・東宝映画1937.7西條八十原作、「白薔薇は咲けど」
主題歌 白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
挿入歌 緑の月(佐藤惣之助作詩、奥田瑛子歌)
・日活映画1938「人生劇場―残侠編」(尾崎士郎原作)
主題歌 人生劇場(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
・東宝映画1940「春よいづこ」(川口松太郎原作)
主題歌 春よいづこ(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
挿入歌 なつかしの歌声(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌)
挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・松竹映画1940「愛の暴風」
主題歌 相呼ぶ歌(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・東宝映画1940「蛇姫絵巻」
主題歌 蛇姫絵巻(西條八十作詩、志村道夫、奥山彩子歌)
・新興キネマ1940「誰か故郷を想わざる」
主題歌 誰か故郷を想わざる(西条八十作詞 霧島 昇歌)
・東宝映画1940.10渡辺邦男監督「熱砂の誓い」
主題歌 熱砂の誓い〈建設の歌〉〈西條八十作詩 伊藤久男歌〉
挿入歌 紅い睡蓮(西條八十作詞 李香蘭歌)
・東宝映画1941山本嘉次郎監督「馬」
主題歌 馬(佐藤惣之助作詞 伊藤久男、菊池章子歌)
(「めんこい仔馬」は、この映画のために作られたのがだが映画には入らなかった。)
・東宝映画1941「歌えば天国」
主題歌 歌えば天国(西條八十作詩、藤山一郎、古川ロッパ、二葉あき子歌)
(古賀メロディーらしからぬジャズ調の曲です。)
挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
挿入歌 働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詩、藤山一郎歌)
・日活映画1941「海の豪族」
主題歌 海の豪族(佐藤惣之助作詩 伊藤久男歌)
・松竹・満映合作映画1942「迎春花」(インチュンホウ)
主題歌 迎春花(西條八十作詞 李香蘭歌)
・映画「蘭花扇(らんかせん)」(1942 5月)
主題歌 花白蘭の唄(李香蘭、楠木繁夫歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」
主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原じゅん子歌)
挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
- 67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:52
- ・松竹映画1943清水宏. 監督:「サヨンの鐘」
主題歌 サヨンの鐘(西條八十作詞、渡辺はま子歌)(台湾名 月光小夜曲)
挿入歌 サヨンの歌(西條八十作詞、李香蘭歌)
挿入歌 なつかしの蕃社(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロ‐原作)
主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・東宝映画1944「あの旗を撃て」
挿入歌「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)(1946年NHK「ラジオ歌謡」)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原じゅん子歌 )
・東宝映画1946渡辺邦男監督「麗人」(佐藤紅緑原作『麗人』再映画化)
主題歌 麗人の歌(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
・大映映画1946「或る夜の接吻」
主題歌 悲しき竹笛(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
・東宝映画1947「こころ月の如く」
主題歌 こころ月の如く〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
挿入歌 旅の舞姫(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・新東宝映画1948渡辺邦男監督「あの夢この歌」(西條八十「唄の自敍傳」より)
主題歌 あの夢この歌〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・東宝映画1948市川崑監督「三百六十五夜」(小島政二郎原作)
主題歌 三百六十五夜〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
挿入歌 恋の曼珠沙華〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
・新東宝映画1948 「湯の町悲歌」
主題歌 湯の町エレジー(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
・新東宝映画1949野村浩将監督「影を慕いて」(古賀政男原案)
主題歌 影を慕いて(古賀政男作詞、藤山一郎歌)
・新東宝映画1949 「夢よもう一度」
主題歌 夢よもう一度(西條八十作詩 二葉あき子歌)
挿入歌 愛の灯かげ(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
玉川英二、星野貞志はサトウハチロ‐の変名。
・新東宝映画 1949「影を慕いて」(古賀政男作曲生活20周年記念制作映画)
主題歌 希望に燃えて(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)
★「希望に燃えて」(伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・高倉敏・二葉あき子・奈良光枝)ー新東宝が古賀政男作曲生活二十年を記念して上原謙・山根寿子主演、野村浩
将監督で制作した「影を慕ひて」のラストシーンを飾る主題歌となったが、もともとこれは映画のためではなく、NHKの視聴者リクエストによる「希望音楽会」のテーマーソングとして制作されたもの。
東日本大震災の被害にあわれた方々にぜひ聞かせてあげたい曲。
★ 希望音楽会(1945年、NHK)
主題歌:「希望に燃えて」
音源:「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」(GES-31299)より
敗戦後初の歌謡曲番組。
1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の大詔」を放送、日本は事実上敗戦し、無条件降伏した。
そんな時世の中、国民に希望を与えるため、10月3日に本番組は開始された。
リスナーからのリクエスト曲を出演歌手が生で歌うといった内容のもので、資料によれば戦後初の
大ヒット曲「リンゴの唄」も、この番組で初めて電波に乗ったそうである。
番組最後に出演者全員によって歌われるのが「希望に燃えて」であり、サトウハチロー作詞、古賀政男
作曲によるこの曲は、後半のメジャーに転調する展開と一気に希望を歌う歌詞と一体になって、当時の
国民に大きな希望を与えたであろう名曲である。
(但しレコード化されたのは昭和24年〈1949〉のこと。)
- 68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:56
- ・新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草
You Tubeのほか、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942 COL100542
・松竹映画 1955萩原徳三監督「娘船頭さん」
主題歌 娘船頭さん (西條八十作詞、古賀政男作曲)美空ひばり
日本の映画は昭和35年(1960年)に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えました。
ちょうど、テレビの普及が進んだころで観客動員数は1958年の11億強を最高に、ゆるやかに下降し、3年後の1963年には半分以下の5億人強になりました
・日活映画 1956小林桂三郎監督「乙女心の十三夜」
主題歌 乙女心の十三夜(西條八十作詞 古賀政男作曲)島倉千代子
- 69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 11:36
- ・大映映画1963市川崑監督「雪之丞変化」(西條八十作詞、美空ひばり歌)
- 70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 11:44
- ・東宝映画1958稲垣浩監督「無法松の一生」(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
・大映映画1963市川崑監督「雪之丞変化」(西條八十作詞、美空ひばり歌)
- 71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:39
- 古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)
坪井賢一:ダイヤモンド社論説委員
「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
?詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。
「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
?ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。
「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。
?藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。
?古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。これは次回に。この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。あっという間にヒット・メイカーとして流行歌(レコード歌謡)を牽引する作曲家となった。
- 72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:47
- 東京・代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。
本田美奈子「アマリア」のマンドリン
「決定盤?古賀政男?心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤
?ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。
?明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。
?年1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが(後述)、あまり売れた形跡はない。
?−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。
?本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある(連載第8回)。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
?萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。
?本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
?本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。
- 73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:54
- 「トレモロ寂し?身は悲し」
?古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
?ギターをとりて?爪弾けば
?どこまで時雨?ゆく秋ぞ
?振音(トレモロ)寂し?身は悲し
?という一節がある。
?トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。
?マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。
?連載前回、「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。
?どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。
?この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。
毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。
- 74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:59
- 「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)
?
?古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。
?コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。
?けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。
?月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している(連載第43回)。
?古賀の入社は1931年3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907−90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。
- 75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:05
- 作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。/昭和五年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)
?この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年4月、「乙女心」は5月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
?コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。
西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために
?古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。
?藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。
「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲≪影を慕いて≫≪酒は涙か溜息か≫≪丘を越えて≫は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)
「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。
- 76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:10
- 古賀作品の音域は広く、1オクターブ半からときには2オクターブに及ぶ。跳躍も多い。藤山一郎はこう語っている。
「(略)マンドリンなどのプレクトラム族は、楽器を見ながら指を飛ばして演奏できるという特質を持っています。だから、作曲に当たっても、ギターを弾き、その指を見ながら曲を書いていける、ということが可能となります。いわば、音を手でさわりながら見ているわけです。さらにいえば、視覚で曲を作れる、ということになりましょうか。そこに意表をつく曲の展開も出て来るというわけです」(藤山一郎「デッサンの確かな作品群」『古賀政男――昭和の日本のこころ』所収、平凡出版、1978)
?ギターを弾きながら作曲するのならば、後年のシンガーソング・ライターと同じではないか、と言われそうだが、フォークソングなどは旋律を弾きながら作曲するのではなく、和音(コード)鳴らしながら横へ流れていく旋律を作る。古賀政男はコードではなく、旋律を目で縦に見ながら作曲したのではないか、というのである。
★参考文献★
比留間賢八『マンドリン教科書:独習用』(共益商社書店、1903)
比留間賢八『マンドリン独習』(共益商社書店、1910)
『日蓄(コロムビア)三十年史』(日本蓄音器商会、1940)
コロムビア五十年史編集委員会編『コロムビア五十年史』(日本コロムビア、1961)
日本ビクター50年史編集委員会編『日本ビクター50年史』(日本ビクター、1977)
『古賀政男――昭和の日本のこころ』(平凡出版、1978)
高橋功『評伝・古賀政男』(全音楽譜出版社、1984)
古賀政男「「私の履歴書」(『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
飯島國男『比留間賢八の生涯――明治西洋音楽揺籃時代の隠れたる先駆者』(全音楽譜出版社、1989)
倉田喜弘『日本レコード文化史』(東京書籍、1992)
藤山一郎『藤山一郎自伝――歌声よひびけ南の空へ』(光人社NF文庫、1993)
下嶋哲朗『謎の森に住む古賀政男』(講談社、1998)
團伊玖磨『私の日本音楽史』(NHKライブラリー、1999)
古賀政男『自伝わが心の歌』(新装増補、展望社、2001)
藍川由美『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)
菊池清麿『評伝・古賀政男』(アテネ書房、2004)
佐高信『酒は涙か溜息か――古賀政男の人生とメロディ』(角川文庫、2008)
和田登『唄の旅人?中山晋平』(岩波書店、2010)
竹内貴久雄『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』(ヤマハミュージックメディア、2011)
- 77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:23
- おわび、?は文字化けによるものです。
- 78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 20:16
- ☆古賀政男に関する文献
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。
くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1955)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
菊池清麿「佐藤千夜子 ・永遠の歌姫 」(東北出版企画)
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)
『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが
福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他
長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他
- 79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 20:25
- ☆古賀政男に関する文献2
・古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史
古賀政男著 東京音楽書院 1978
・森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972
・田辺 明雄 「古賀政男論」
掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10 p.p180〜189
・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140
・「日録20世紀 1931 昭和6年」(講談社1997)注記:12/30 第1巻 第43号 通巻43号
・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52
・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(わが人生を天職に生きて<特集> ; わが人生を天職に生きて--この道ひとすじ五十年--味わい深い人生哲学の数々) 掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 214) 1977-03 p.p246〜247
・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があ った--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」
掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228
・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354
・松山祐士 編著「わが心の日本抒情歌集 」
ドレミ楽譜出版社 2003 (シニアのためのピアノ曲集)
・舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
・里村あきら 著 影を慕いて… : 「古賀メロディー」知ったかぶり
雄文社出版企画室 1993
- 80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 20:26
-
☆古賀政男に関する研究文献
森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―
(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)
The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi
([日本橋学研究] 日本橋学館大学 3(1) (20100331))
「日本橋」のキーワードのもとで、中山晋平、佐藤千夜子、古賀政男、藤山一郎 の関係する「SP歌謡」たる黎明期の「昭和歌謡」成立の系譜と展開について詳しく述べ られている。
- 81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 12:36
- 昭和初期〜20年代の歌謡曲の良さは異常。
改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。
- 82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 12:55
- ■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)東洋音楽学校(現東京音楽大学)武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)
主な門下生、弟子
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子
- 83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 15:31
- 関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。
- 84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 17:58
- >>78-80
テイチク株式会社社史編纂委員会 企画・編集
「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)昭和館所蔵
- 85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 09:53
- >>84
(参考)
テイチク50年史・・
テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ
昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史
コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、
南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。
古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。
・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更
コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。
- 86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 19:43
- ☆古賀政男と主な人脈
歌手 佐藤千夜子、藤山一郎、藤原義江、三浦環
詩人 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香蘭)、森繁久弥
- 87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/03(Mon) 22:07
- ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。
自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。
ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。
朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。
「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。
作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。
序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。
文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。
なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。
参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。
平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。
常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。
「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25
・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について 萩原朔太郎
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)
詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。
- 88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 22:53
- 昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。
マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。
なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、古賀邸のある代々木上原から二つ目、三つ目。
朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半月後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、
4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。
朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。
(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
- 89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 23:39
- 代々木上原の3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。
古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。
それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。
- 90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 23:48
- >>88
(参考)世田谷散策記 せたがや地域風景資産 No.2-3
代田の丘の61号鉄塔
- 91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/05(Wed) 11:33
- >>90
せたがや地域風景資産 No.2-3
代田の丘の61号鉄塔
東京電力の鉄塔のひとつである代田の丘の61号鉄塔のすぐ下には、昭和8年頃、詩人の萩原朔太郎が家を建てて住んでいたということです。その娘葉子の小説にも鉄塔が描写されるなど、文学にゆかりのある貴重な資産となっています。(紹介文の引用)
・場所 : 世田谷区代田2丁目4−11
・登録団体など : 北沢川文化遺産保存の会
・備考 : ーーー
・サイト内関連項目 : ーーー
・関連サイト(外部) : 東京荏原都市物語資料館
- 92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:00
- 1938年の藤原義江・世界歌の旅
1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。
古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。
南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。
そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。
日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。
- 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:10
- ☆三浦環と古賀政男
日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。
環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。
祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。
なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。
「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。
古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。
三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。
三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。
そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。
古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。
展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。
そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。
昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。
三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。
夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。
- 94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:12
- 環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。
夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・
しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。
遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。
祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。
今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の
《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ 環」》
との文が刻まれている。
ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。
世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。
昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。
昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。
環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)
ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。
葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな
- 95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:20
- 一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。
今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。
こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。
自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。
平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html
(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)
・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭 ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835
・流行歌曲について 萩原朔太郎
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html
- 96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:11
- ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!
物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。
「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。
「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。
「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)
その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。
初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。
これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。
古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。
川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。
さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。
大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。
- 97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:14
- 彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。
その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。
この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。
酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。
なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。
そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。
昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。
今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。
太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。
佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。
義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。
惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。
没後75年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。
- 98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:29
- ☆西條八十と古賀政男
「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。
以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。
「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・
優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。
「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。
そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。
戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。
「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、
戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集 生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。
CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。
このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。
「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。
- 99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:31
- 関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。
詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。
彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。
自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)
このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。
その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。
・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5 VIC 50321@
當世銀座節 (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7 VIC50371@
東京行進曲 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6 VIC50755A
愛して頂戴 (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8 VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌) 1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇 (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2 VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2 VIC 51093A
この太陽 (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6 VIC 51240A
- 100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:36
-
西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。
大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。
そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。
コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。
この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。
また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。
*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)
去りゆく影 (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子 1933.1
恋ごころ (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄 (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子 1933.2
強くなってね (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子 1933.2
来る来るサーカス (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄 (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
椿姫の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子1933.3
浮草の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄 (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃 1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲) 淡谷のり子1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴 1933..6
十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.6
気まぐれ涙 (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅 (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃 193310
「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。
この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。
- 101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 17:20
- 「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。
この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。
なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。
「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」
古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。
昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。
コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)
西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。
『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・
昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。
新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。
あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html
1940 .2 誰か故郷を想わざる 霧島昇
1940 .2 あの花この花 二葉あき子
1940.5 春よいづこ 藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声 藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻 志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌 霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い 伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮 李香蘭
1941.7 そうだその意気 霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7 夜霧の馬車 李香蘭
1941.7 歌えば天国 藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘 渡辺はま子
1942.7 夕月乙女 李香蘭
1943.3 若き日の夢 李香蘭
1943,5 サヨンの歌 李香蘭
- 102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 00:08
- 山田耕筰は、「日本の代表的な歌」として、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し、外国に紹介していた。
☆農村婦人の唄 山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード 昭和7年
ttp://www.garitto.com/product/14389470
山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌。
桑田登志子作詞 山田耕筰作曲 オリオンコール女声合唱団 0709 COL27067
北部善良作詞 古賀政男作曲 淡谷のり子 0710 COL27067
専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式。28歳の時である。
相手は松竹少女歌劇スター、コロンビア専属歌手だった中村千代子。だが結婚は一年も続かなかった。翌、昭和8年10月離婚。離婚については、古賀は多くを語らない。それから一生古賀が結婚することはなかった。
この一連のごたごたで体調を崩して肺浸透で入院、伊東温泉に別荘を借りて転地療養。古賀政男がスランプで作曲を停滞させたのは長い作曲家人生でただこの期間だけだった。
その間、帝国蓄音機と言う小さなできたばかりの会社の社長南口重太郎氏の見舞いを受ける。この間、コロムビアの冷たい対応で、古賀は昭和8年5月1日、コロムビアを退社。だが、コロムビアは契約をたてに、退社を受け入れなかった。
この争いに救いの手を差し伸べたのが弘田龍太郎だった。
契約条件をはるかに超える作品を作っているという言い分が通って解決。
そして、昭和8年5月15日、古賀政男はテイチク入社、専務取締役としてである。南口社長は、古賀に重役待遇で,レコード企画と吹き込みにつき、一切の権限と責任を持つと言う破格の条件を示して熱心に招請していたのだった。
そして古賀は、銀座にテイチク東京文芸部、通称古賀文芸部を発足させ明大マンドリンクラブの後輩7人を呼び寄せ、11年にはビクターとの3年契約の終えた藤山一郎を呼び寄せる。ここに、世にいう「テイチク黄金時代」(古賀政男第二期黄金時代)が始まる。
山田耕筰は、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し「日本の代表的な歌」として紹介していた。
なお、中村千代子との結婚の前、昭和7年6月には、山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌「農村婦人の唄」である。
その後、昭和13年,古賀政男はテイチクを退社。1年間の「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカや南米各地を回り、世界の古賀として凱旋、昭和14年にコロムビアに復帰。
コロムビアに移籍していた西條八十との黄金コンビも復活。古賀政男第三期黄金時代を築く。
弘田龍太郎は、国民合唱・陸海軍礼式歌「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲。楠木繁夫・松原操歌。1944年10月・日畜=コロムビア)の編曲を行っている。
- 103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:27
- ☆《丘を越えて》と山田耕筰
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。
- 104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:33
- 丘を越えて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:藤山一郎
丘を越えて行こうよ
真澄の空は朗らかに
晴れてたのしいこころ
鳴るは胸の血潮よ
讃えよわが青春(はる)を
いざ行け遥か希望の
丘を越えて
昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)
戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。
- 105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:40
-
<<「日本の名曲」 影を慕いて>>
影を慕いて
詩・曲 古賀政男
まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く
昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。
平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。
作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。
昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。
翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。
「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。
492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/01(Wed) 18:45
- 106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:16
- 昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&to=50
- 107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:42
- 丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
2012/10/29 に公開
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です
- 108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/12(Wed) 22:58
- <「古賀政男」の出てくるドラマ>
昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平
昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
(1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)
昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十)
NTVテレビ
平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京
- 109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/15(Sat) 19:15
- 上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。
- 110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:58
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2
- 111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/08(Mon) 11:37
- (参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)
h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27
- 112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/12(Mon) 17:28
- ☆古賀政男と主な人脈
歌手 佐藤千夜子、藤山一郎、奥田良三、藤原義江、三浦環
詩人 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香蘭)、森繁久弥
- 113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:47
-
<「影を慕いて」の曲碑>
古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内、そして戦時中疎開していた河口湖畔にもあります。
この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。
青根温泉「影を慕いて」曲碑 h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館 h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html
河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑
h ttp://www.mt-fuji.gr.jp/spot-manabu/koga/
「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。
- 114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:48
- 山梨きまぐれ歴史散歩「古賀政男記念碑」(2008年11月)
ここは河口湖の北岸ということになりましょうか、河口湖円形ホールの前です。
新聞で紅葉回廊という言葉を見て、まいりました。10月24日から11月16日まで、富士河口湖紅葉まつりも行われております。
紅葉回廊は辻が花染めで知られる久保田一竹美術館の前入ったところです。
紅葉を愛でながら河口湖に沿って歩いておりましたら、古賀政男の碑がございました。
大変立派な石碑です。横幅が3メートルほど、縦が2メートルくらいの自然石に黒御影がはめ込まれておりまして、左側には「影を慕いて」の楽譜が、右側にはその歌詞が、そして歌詞の上部に古賀政男氏のレリーフが刻まれております。
下の台が、70センチほどもありましょうか、大変大きな石碑です。
お散歩中のご近所の方にお話を伺いました。
「対岸に見えているのが鳴沢です」
「あの下あたりに、大きなゴルフ場が3つくらい・・・河口湖カントリーとか富士桜カントリーとかね」
「ここから見る富士は素晴らしいです」
「ドレスのようになだらかに裾をひいていますでしょ、女富士っていうのです」
「あそこの橋の向こうに、太宰治が書いた「かちかち山」の舞台になったところです」
うっとりとした表情でお話くださいました。
碑の裏側に回ってみましょう。
- 115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:50
-
「昭和の大作曲家として日本歌謡史に燦然と輝く音楽家として、国民栄誉賞を受賞した古賀政男、その生涯で数々の名曲を生み出した古賀が、昭和20年3月から8月まで過ごしてのがここ富士河口湖町、当寺の河口村であった。きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった私の故郷河口村に疎開することとなったのである。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごした。8月15日、古賀の安否を気遣って駆けつけてきた青年達と共に、終戦の日を迎えた。古賀は青年達一人一人に石鹸を手渡し、これからは新しい時代が来る。間違いなく来る。皆で古い時代の垢を洗い流し、新生日本に向って第一歩を踏み出そうと激をとばし、一斉に河口湖に飛び込んで心身共に清め、霊峰富士に向って新たな誓いをたてたのである。今年は古賀政男生誕百年。」この記念すべき年に、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようという富士河口湖町の人々の古賀に対する熱い思いが結実し、歌碑を設置していただき、多くの方々に古賀の意思と歌の心に触れていただけることとなり、心より深く感謝申し上げる次第である。」
平成16年11月
財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事長山本丈晴
- 116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:53
- 山本丈晴といえば、女優の山本富士子と結婚なさった方ですよね。古賀政男の内弟子だったのですね。
山本丈晴は本名を古屋武治といい、ここ富士河口湖町の出身です。
昭和20年2月に古賀政男に入門して、ギターと作曲を学びました。
そして3月に古賀政男は、当時古屋武治であった山本丈晴の出身地河口村に疎開したということなのですね。
その後、ハワイ、北米、ブラジル、アルゼンチンなどへ古賀政男と共に演奏旅行をしています。
昭和37年に女優の山本富士子と結婚して、山本丈晴となるのですね。
古賀政男が作曲した作品の数は4000とも5000とも言われているようで、正確な数は判りません。それほだ多くの曲を作ったということなのでしょう。
その中からいくつかの作品をご紹介いたしましょう。
丘を越えて 歌 藤山一郎
酒は涙か溜息か 歌 藤山一郎
影を慕いて 歌 藤山一郎
緑の地平線 歌 楠木繁夫
ああそれなのに 歌 美ち奴
人生の並木道 歌 ディック・ミネ
人生劇場(1938年・1959年)楠木繁夫、村田英雄
誰か故郷を思わざる 歌 霧島昇
湯の町エレジー 歌 近江俊郎
赤い靴のタンゴ 歌 奈良光枝
トンコ節 歌 久保幸江・加藤雅夫
ゲイシャ・ワルツ 歌 神楽坂はん子
白虎隊 歌 霧島昇
りんどう峠 歌 島倉千代子
青春サイクリング 歌 小坂一也
無法松の一生 歌 村田英雄
東京五輪音頭 歌 三波春夫
柔 歌 美空ひばり
悲しい酒 歌 美空ひばり
数の多いのにも驚きますが、その巾の広さも凄いですね。
この碑の正面に立ちますと、「影を慕いて」と「丘を越えて」が交互に演奏されます。
こちらにおいでの節は、おためしくださいませ。
- 117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/20(Thu) 19:20
- ☆古賀政男とその主な人脈
歌手 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環
淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・
- 118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 08:44
- 日本の洋館 第6巻 昭和篇2
ISBN-13: 9784062614863
▼目次(日本の洋館 第6巻 昭和篇2)
はじめに 藤森照信 増田彰久
岩崎小彌太別邸(静岡県) 三菱解体を見届けた財閥最後の館
三井家別邸(北海道) 迷路か迷宮か、三井家の屋敷の数々 国登録文化財
乾新兵衛邸(兵庫県) 乾汽船はジャコビアン様式の館
日向利兵衛別邸(静岡県) 世にも不思議な竹と絹の地下空間
刑部人邸(東京都) 画家の家は国会議事堂と兄弟!?
アントニン・レーモンド別邸(長野県) 日米の狭間に生きた建築家の夏の家
徳川義親邸(長野県) 熊彫りと葵の御紋、尾張徳川家の館 長野県指定文化財
土浦亀城邸(東京都) バウハウス流モダニズムの旗手の家 東京都指定文化財
細川護立邸(東京都) 現地解説つき細川家の大型西洋館 東京都指定文化財
杵屋六左衛門別邸(静岡県) “新興数寄屋”の代表作に残る一つの謎
遠山元一別邸(埼玉県) 日興証券創業者の親孝行の家 国登録文化財
福本貞喜邸(東京都) いぶし銀のような経営者の終の住み家
原邦造邸(東京都) 御殿山に出現した白いモダニズムの家
師岡和賀邸(現存せず) 名女将の隠れ家的小住宅「歓帰荘」
渋沢信雄邸(長野県) 哲学青年が望んだイギリス田舎屋風
林芙美子邸(東京都) 放浪の末たどり着いた女流作家の館
古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ
新津恒吉邸(新潟県) 石油王が造ったヨーロッパ重箱詰めの館 国登録文化財
掲載邸一覧(施主/竣工地/竣工年/設計者/現状および公開・非公開/現住所および問い合わせ先電話番号)
◆歴史遺産 日本の洋館 全6巻
◆背景ビジュアル資料5 洋館・洋風建築
- 119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 08:51
-
・・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ
私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)
昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))
代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,
古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。
因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。
古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。
参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。
ついでに赤穂浪士が討ち入りしたという本所松坂町(現在の両國3)の吉良邸
の屋敷は2550坪という。
- 120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 11:48
- 殆どの有名人の豪邸というのが、土地がせいぜい100坪位、道路に面してすぐ車庫や玄関があり、そこに外車があったりするが、そんなものではなかった。 代々木上原駅前、井之頭通りに面した3000坪の土地に構える豪邸、古賀政男邸、現在は「古賀政男音楽博物館」とJASRACビルが入るビルになっているが、
当時、その門から60メートルお石畳の先に和洋折衷の洋館の玄関があた。
玄関前は約20台の車を停められる広場がって、そこには二三台の車が入る大きな車庫が二つ、三つあった。
ベンツ2台に、大きなリンカーン、キャディラックが見える。
- 121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 12:00
- よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、
車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html
師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。
古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
坂を登った左側には車庫があって車幅2mもあるリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。
- 122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/25(Tue) 11:35
- 小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。
しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。
専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。
古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。
この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。
音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。
旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。
現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。
駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。
古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。
この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。
JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。
古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。
日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。
何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
- 123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 17:40
-
☆有名人の邸宅(参考)
古賀政男邸(代々木上原) 3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区) 2000坪
麻生太郎邸(渋谷) 1500坪
孫正義邸(港区) 960坪
三木谷御殿(渋谷区) 272坪
鳩山由紀夫邸(大田区 205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒) 173坪
- 124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/29(Sat) 18:48
-
『知ってるつもり?!』は、1989年10月8日から2002年3月24日まで、日本テレビ系列にて、毎週日曜日21:00〜21:54に放送された。
1990年の一部/
·7月29日 カーネギー
·8月5日 棟方志功
·8月12日 古賀政男
·8月19日 バロン西(西竹一)
·8月26日 湯川秀樹
横浜情報文化センター放送ライブラリーで視聴可。
横浜情報文化センター放送ライブラリーは、NHK以外の民法の記録されているラジオやTV放送を無料でみることができる施設。
NHKについてはNHKアーカイブスや各放送局、放送博物館。
- 125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:17
- 白虎隊
作詞 島田欣也 作曲 古賀政男
歌 藤山一郎
(一)
戦雲暗く 陽は落ちて
弧城(こじょう)に月の 影(かげ)悲し
誰(た)が吹く笛が 知らねども
今宵名残の 白虎隊
(二)
紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保寒(とりで)
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃の 白虎隊
詩吟
「南鶴ヶ城を望めば 砲煙あがる
痛哭(つうこく)涙を飲んで
且つ彷徨(ほうこう)す
宗社(そうしゃ)亡び 我事終る
十有九人(じゅうゆうくにん) 屠腹(とふく)してたおる」
(三)
飯盛山の 山頂(いただき)に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
- 126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:20
- >>125
[白虎隊]は昭和12年(1937)藤山一郎、昭和27年(1952)霧島昇。
日本舞踊でもよく踊られ歌われる有名な作品です。
白虎隊
島田欣也作詞 古賀政男作曲
昭和12年 藤山一郎 詩吟 鈴木吟亮 テイチク
昭和27年 霧島昇 詩吟 荒国誠 コロムビア
吟亮流吟風会
·
初代が琵琶から詩吟に転向したのが昭和5年。その5年後に古賀政男先生に認められて「白虎隊」(テイチク)が大ヒットしました。運も実力のうち?。戦後の霧島昇さんとの共演版(コロンビア)と続けて入れてありますので聴き比べて下さい。
h ttps://www.youtube.com/watch?v=POxCDFUGIGM
鈴木吟亮「白虎隊」詩吟(戦前版と戦後版比較)
昭和12年の藤山一郎さんVir.と、戦後の霧島昇さんVirを詩吟部分のみ比較しました。大きな違いは詩が異なります。戦前版は「十有六人」。戦後版は「十有九人」。大ヒットしただけに反響や論議が活発だった…
youtube.com
- 127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:25
-
日本の豪邸
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50
- 128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/11(Mon) 22:49
- 昭和歌謡が好きな人集まれ!
- 129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 15:37
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 20:54
- 昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS 10cH
- 131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:27
- >>130
昭和歌謡が好きな人集まれ
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50
- 132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 18:02
-
11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日
史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。
- 133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/19(Sun) 22:54
- 古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。
日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。
- 134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/19(Sun) 23:07
- 古賀政男音楽博物館の概要
作曲家の古賀政男が住んでいた屋敷をそのまま公開したもの。ここで数々の名曲・古賀メロディーが生れ、今では大物とよばれる歌手たちもレッスンに通っていた。書斎・居間・寝室には生前のままにピアノなどの愛用品が置かれ、懐かしのレコードや多くの写真・原譜も展示されている。
- 135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/16(Sat) 22:38
- 3つの「雲のふるさと」
李香蘭の未発表曲2曲が発見され、話題になっています。いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」で、昭和19年に録音されながら、レコ−ドにはなりませんでした。「雲のふるさと」は、信濃出身の兵士が前線で、ふるさとをしのび涙を流すところが、戦争も末期になった軍部の気に入らなかったのか。この曲はその前年に、伊藤久男が映画「あの旗を撃て」で歌ったのが最初です。6連音符をあしらったり、古賀メロディーでもユニークな歌曲調で、自信作だったようです。せっかく李香蘭の美声で歌われたのに、くやしかったことでしょう。
この歌には、なおも後日談があります。なんとかもう一度世に出したいという古賀の執念がみのって、戦後の昭和42年、関沢新一の新しい詩を得て「思い出は遠く哀しく」という歌に生まれ変わり、美空ひばりが歌いました。こんどは、幼馴染と別れて都会に出た青年が、やがてその人が誰かの花嫁となったことを伝え聞き、遠く哀しい思い出に熱い涙を流すという、青春センチメンタリズムの極致のような歌です。ヒット曲にはなりませんでしたが、「私はセンチメンタリスト」が口ぐせだった古賀は、これでやっと気がすんだことでしょう。昭和53年の古賀の葬儀でも、明治大マンドリン部の後輩たちが、この曲を演奏して、偉大な先輩を送りました。
「雲のふるさと」は、まもなくコロムビアから発売される2枚組CD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収められています。これで、この曲は、伊藤久男・李香蘭・美空ひばりの3種が揃うことになり、古賀の満足や、思うべし。「思い出は遠く哀しく」はカラオケにもあります。
- 136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/18(Mon) 08:57
- 「雲のふるさと」は戦後、NHKラジオ歌謡として放送された。
- 137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:05
- 音楽文化研究家、長田暁二氏によると、古賀政男が世に出た昭和初期は、
東の横綱はカチューシャの唄の中山晋平、西の横綱は祇園小唄の佐々紅華。
ここに古賀政男が打ってでて世代交代を果たしたといえる。
これまでの作風と大きく違うところ、それは、これまでのピアノと違って、
ギター(クラッシックギター)は旋律の指ずかいからまるで違ったもので、
ギタ―歌曲にしかできない繊細なメロディが奏でられる。
ピアノ、オルガンは、いくつかのキーボードで決まってしまうデジタル演奏である面があるのに対し、
ギタ―は純アナログ演奏ってしまうといえる。
ギター演奏家大家であった古賀政男「古賀メロディ」の秘密。
- 138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:07
- ピアノ、オルガンは、いくつかのキーボードで決まってしまういわばデジタル演奏である面があるのに対し、
ギタ―は純アナログ演奏といえる。
- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:35
- いくつかのキーボードで決まってしまうピアノ、オルガンに対し、
ギタ―歌曲では繊細なメロディが表現できる。
これがギターの大家であった古賀政男「古賀メロディ」の秘密。
- 140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:10
- キーボード楽器でもあるピアノが限られた鍵盤で演奏するしかないのに対し、
ギタ―は間(ま)の細かい繊細な音を自由に奏でられる。
プレクトラム音楽家で演奏家、ギタ―の名手でもあった古賀政男。
「古賀メロディ」と称され愛されで続けた理由でもある。
「影を慕いて」は昭和3年の作曲であるが、完成には3年位かかり、昭和4年(1929)10月29日の
アンドレ・セコビアの来日を経て完成。
ギタ―演奏については徹底的に研究し尽した、ギタ―の最大の名手である。
昭和6年1月佐藤千夜子(ビクター)、昭和7年3月藤山一郎(コロムビア)で公開された。
。
初期の「影を慕いて」や「月の浜辺」から、戦後の「麗人の歌」「湯の町エレジ―」など多くの曲に自らギタ―伴奏している。
これが、「古賀メロディ」の特徴であり、「古賀メロディ」が「「古賀メロディ」として永く多くの人々に愛され歌われ続けた理由はここにある。
- 141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:44
- 国民栄誉賞作曲家古賀政男の,正式なレコードデビューは昭和6年3月コロムビアであるが、その前にも佐藤千夜子版がビクタ―から出た。
さらに古賀政男のレコードデビュ―としては、その前にも作曲家としてではなく、ギター演奏家としてのレコード吹込みが先だった。
昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》がそうだ。
尺八の野村景久と共演した。さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。
まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
昭和四年十二月二十三日、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手佐藤千夜子の歌でレコードになる。
- 142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:50
- 国立国会図書館 歴史的音源
永続的識別子 info:ndljp/pid/8274465
タイトル ギター・尺八連奏:恋慕流し(上)
作詞・作曲・編曲・実演家
野村 景久[尺八]
鈴木 光久
古賀 正男[ギター]
製作者(レーベル)コロムビア(戦前)
発売年月日 1929-06
詳細レコード表示にする
- 143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/22(Fri) 22:16
- 日本コロムビア ホームページ
古賀政男プロフィール
古賀政男
◇ 本名:古賀正夫
◇ 生年月日:明治37年11月18日
◇ 出身地:福岡県三潴郡田口村(現:大川市)
明治大学在学中に明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画し、在学中に音楽家を志す。
昭和4年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にて処女作「影を慕いて」を発表。昭和6年にはコロムビア専属の作曲家となり、昭和9年にはテイチクに移籍したが、昭和13年にコロムビアへ復帰。半世紀近くに渡っていわゆる“古賀メロディー”を発表し、数々のヒット曲を生み出した。
作曲活動のかたわら、昭和13年には外務省の音楽文化親善使節として世界各地を訪問、昭和49年には広島平和音楽祭を開催するなど、音楽で平和を訴える活動を続けた。また、昭和34年には日本作曲家協会を創設して初代会長に就任。日本レコード大賞を制定するなど、音楽界の発展に尽力した。
昭和53年7月25日、73歳で死去。翌8月4日、“古賀メロディー”作曲による実績が認められ、国民栄誉賞を受賞した。
- 144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 09:11
- 古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。
藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。
東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。
古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。
古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。
ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。
東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・
その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。
優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、
昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。
昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。
- 145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/01(Mon) 20:18
- 作曲家古賀政男が昭和53年7月に亡くなって、今年、平成30年(2018)は40年になる。
古賀政男が作曲家として世に出たのは昭和6年(1931)だった。日本がまだ貧しかった時代(1931)である。
昭和の大不況、世界大恐慌と、満州事変の勃発、太平洋戦争に至る遠因ともいわれる東北大凶作の真っただ中だった。
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡が新たに「古賀政男記念博物館」として公開されていた。
しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から87年前の昭和6年(1931)3月。
「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。
古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。
この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。
音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。
旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。
現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。
駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。
古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。
この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。
JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。
- 146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/01(Mon) 20:21
- 古賀政男没後すでに40年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。
日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。
何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
- 147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 11:49
- 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)
戦後の会長は作家で、詩人と作曲家が交互にやることになっていたのが、吉田正あたりから詩人がいなく崩れてきているようだ。
歴代会長
昭和14〜20 水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23 国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27 中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40 西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46 堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48 サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52 古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55 勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜 服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜 吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜 黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜 遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜 星野哲郎(1925〜) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜) 作曲家
平成22年〜 戸倉俊一(1948〜) 作曲家
- 148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 11:53
- 公益社団法人 日本作曲家協会歴代会長
初代 古賀政男 1958 - 1978 (昭和33年−53年)
2 服部良一 1978 - 1993
3 吉田正 1993 - 1997
4 船村徹 1997 - 2005
5 .遠藤実 2005 - 2008
6 服部克久 2008 - 2013
7 叶弦大 2013 - 2017
8 弦哲也 2017 -
- 149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 20:03
- 設立目的 日本作曲家協会
昭和33年(1958年)11月30日に「作曲活動を振興し日本の音楽や芸術文化の向上を図り作曲家の社会的地位と著作権を守る」ことを目的に初代古賀政男氏(昭和53年・1978年没)を会長に発足しました。そして平成24年4月1日に公益社団法人日本作曲家協会として再出発しあらためて「作曲活動の振興を通じて音楽の普及を図り、もってわが国の芸術文化の発展に寄与することを目的とする」を定款に掲げ活動を続けております。
- 150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/13(Sat) 08:05
- NHKホームページより
NHKアーカイブス・スペシャル
幾山河は越えたれど 〜昭和の心 古賀政男〜
放送:前編 12月29日(日)23:10〜翌0:55(105分)
後編 12月30日(月)23:25〜翌1:10(105分)
大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。
■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
1979年(昭和54年)4月14日放送
90分×2本(二部構成)
前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。
後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。
【スタッフ】
脚本:早坂 暁/たなべまもる
音楽:山本丈晴
制作:萩原具佳
演出:岡崎 栄
美術:青柳敏郎
技術:高尾禮充
効果:高橋美紀
撮影:山下政人
VTR技術:松岡住夫
照明:宮本省二
音声:服部己喜男
【出演】
渥美 清
柳生 博
水谷良重
ハナ 肇
山内 賢
森 光子
・・・ほか
藤山一郎
ディック・ミネ
霧島 昇
近江俊郎
村田英雄
島倉千代子
美空ひばり
森 進一
さとう宗幸
八神純子
ツイスト
原田真二
さだまさし
矢野顕子
【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒
【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。
*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。
古賀政男音楽博物館
〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12
*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。
古賀政男記念館
福岡県大川市大字三丸兼木844
- 151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/19(Fri) 09:45
- 最近なんでも区別がない、何でも同じ。名曲が存在しない。
戦後に至るまで「メロディ」のつく作曲家は古賀政男の「古賀メロディ」ただ一つ。
それはレコード最初期から半世紀にわたって世の主流だった「古賀メロディ」だから。
それは大御所、惧れ多い称号のようなものだったのだ。
戦後、昭和40年台「懐メロブーム」が起こって、たくさんの作曲家を区別のためなのか、
作曲家の後ろにナンデモ「メロディ」をつけて同じにしてしまったのだ。
服部良一などリズム系(J−POP)とされるものなどにも、なんでもかんでも。
服部メロディとか、古関・・吉田・・とか・・実際にそういうのが使われた形跡はない。
いまの「なんでも名曲」につながるおかしなこととして指摘しておきたい。
- 152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/20(Sat) 20:06
- 昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。
直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。
古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。
古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。
古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を与えてくださった終生の恩人」と書いている。
「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)
このうち音楽学校卒業が22人。
藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。
22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。
関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。
今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。
・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・それが古賀メロディ・・・
第一級の文化遺産・大切に歌おう!
- 153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/21(Sun) 15:50
- 最近なんでも区別がない、何でも同じ。名曲が存在しない。
戦後に至るまで「メロディ」のつく作曲家は古賀政男の「古賀メロディ」ただ一つ。
それはレコード最初期から半世紀にわたって世の主流だった「古賀メロディ」だから。
それは惧れ多い称号のようなもの。
戦後、昭和40年台「懐メロブーム」が起こって、たくさんの作曲家を区別のためなのか、
作曲家の後ろにナンデモ「メロディ」をつけて同じにしてしまったのだ。
服部良一などリズム系(J−POP)とされるものなどにも、なんでもかんでも。
服部メロディとか、古関・・、吉田・・、、とか・・実際にそういうのが使われた形跡はない。
「なんでも『・・メロディ』」は、いまの「なんでも名曲」につながる」、誤解を与えるおかしなこととして指摘しておきたい。
- 154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/22(Mon) 21:11
- 【古賀メロディ】とは、レコード歌謡創世記昭和6年頃から戦後に至るトップブランド「古賀メロディ」・・昭和の歌謡史が生んだ、そのトップブランドへの唯一の敬称で他にない。
- 155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/26(Fri) 23:59
- (論文紹介)
メロディパタンのクラスタ分析 -古賀メロディパタンの特徴- Cluster analysis of melody pattern-A characteristics of KOGA melody style-
h ttps://ci.nii.ac.jp/naid/110003106845
・参考文献: 19件
・被引用文献: 2件
著者
秋山 好一 AKIYAMA Kouichi
大阪電気通信大学短期大学部
松田 稔 MATSUDA Minoru
大阪電気通信大学工学部
抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。
収録刊行物
日本音響学会誌 00053(00012), 915-921, 1997-12-01
(一般社団法人 日本音響学会)
- 156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:29
- コガミュージアムコンサート
三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十
2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。
2018年2月18日(日)
開演 14:00 (13:30開場)
古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
東京メトロ、小田急線代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前
- 157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/12(Mon) 20:10
- 古賀政男
1904‐78(明治37‐昭和53)
昭和の大衆歌謡の最大の作曲家。《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》《人生劇場》《湯の町エレジー》《悲しい酒》など広く愛唱される〈古賀メロディ〉の数々を残した。福岡県生れで少年時代を朝鮮で過ごし(そのため朝鮮民謡の影響を受けたとされる),明治大学マンドリン・クラブの部員時代に作曲を試み始め,コロムビア・レコード専属作曲家となって,1931年以後次々にヒットを出した。中山晋平に代表される大正期には,唱歌調,新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が,[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて「歌謡曲」として確立されたと言える。
出典 株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
- 158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/12(Mon) 23:05
- >>152
今やなんでも名曲だが、シンガーソングライターといって、すべて自己流、音楽学校出はいない。
トップブランドネームたる「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が佐藤千夜子から、戦後を除いて27人。(1929‐1945)
このうち音楽学校出身歌手が22人。
藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。
音楽学校出身22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」*音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。
(*東京美術学校と東京音楽学校が戦後の学制改革で東京芸術大学となる。)
関種子、藤山一郎(増永丈夫)は東京音楽学校本科主席卒業。
(そのレコードデビューは古賀政男のデビューそのもの。
今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。
- 159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/13(Tue) 00:19
- >>158
■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。
東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての
「歌謡曲」というジャンルが確立していった。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には」、それを支えた優れた音楽学校出身歌手がいた。
以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり (古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞) 1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)
主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。
- 160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 12:24
- >>157
中山晋平に代表される大正期には,唱歌調,新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が,[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて「歌謡曲」として確立されたと言える。
- 161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 16:35
- NHKTV「日本の名曲10曲」
「荒城の月」
「波浮の港」
「叱られて」
「この道」
「浜千鳥」
「影を慕いて」
「出船」
「宵待草」
「花」
「からたちの花」
- 162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:18
- 日本の歌こころの歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50
- 163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 11:58
- ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■
「荒城の月」 土井晩翠作詞、 滝廉太郎作曲 1901
「波浮の港」 野口雨情作詞、 中山晋平作曲 1928
「叱られて」 清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲 1920
「この道」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1927
「浜千鳥」 鹿島鳴秋作詞、 弘田竜太郎作曲 1919
「影を慕いて」 古賀政男作詞、 古賀政男作曲 1931.1932
「出船」 勝田香月作詞, 杉山長谷夫作曲 1928
「宵待草」 竹久夢二作詞、 多 忠亮作曲 1918
「花」 武島羽衣作詞、 滝廉太郎作曲 1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1925
日本の名曲、それは日本がまだ貧しかった時代、明治から大正、昭和の初めにかけて、多くの当代随一・第一級の大歌手・声楽家が歌い継いできた、80年を超える歴史を持つ。
- 164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/20(Tue) 09:23
- 日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
- 165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/21(Sat) 18:08
- 古賀政男音楽博物館「国際博物館の日」記念 無料開館日
平成30年5月18日(金)
5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」です。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)を無料開館日と致します。
ぜひご来館ください。
- 166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/20(Fri) 13:59
- 作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。
ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06
尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。
- 167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/08(Wed) 16:35
- (参考)
「音の歴史とビクター」日本ビクタ―(株)(研修資料)
抜粋
日本ビクタ―蓄音機株式会社創立前後
ラッパ吹き込みと電気吹き込み
赤盤と邦人歌手
レコード流行歌とビクタ―の独走
古賀メロディの出現
ラジオ放送とレコードの競争
昭和10年代 第一次・第二次大戦時代
昭和20年代 戦争は終わった
昭和30年代 SPの終焉とステレオレコード その他
- 168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/09(Thu) 12:45
- >>167
音の名門ビクター その貴重な資料から、古賀メロディーの出現について・・
古賀メロディーの出現
古賀政男の最初のヒット曲「酒は涙か溜息か」が、昭和6年 8月に藤山一郎の唄 でコロンビアから発売されると、空前の 大ヒットとなった。「影を慕いて」が作曲としては早く、明大の学生当時(3年)に明大マンドリン倶楽部の演奏会で佐藤千夜子が唄っている。レコードも4年にビクターから発売されているが話題にならなかった。7年に藤山一郎が唄ってヒットさせている。
古賀政男は子供の頃朝鮮に育ち、「ヨナ抜き」晋平節の流行の中で、日本的な 哀調味をただよわせながらも、朝鮮の俗謡に流れる哀愁味をつきまぜ、独特の頽廃感をもった曲である。藤山一郎は東京音楽学校 在学中で,レコード吹き込みが学校側に知れて、退学処分にされかけた。1ケ月の停学で ある。「酒は涙か溜息か」に続いてヒットした「丘を越えて」 (島田芳文作詞、古賀政男作曲)は、伴奏にアコーディオンを 初めて使ったものであったが、50〜60万枚売れたという。
- 169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/12(Sun) 20:24
- 作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。
ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06
尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。
さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。
- 170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:13
- 「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」
と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。
その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。
古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。
今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。
優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。
人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。
多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。
歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。
詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。
人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。
“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)
その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。
【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。
(作曲家の後ろに何でも、JPOP、リズム系までなんでもメロディをつけて呼ぶのは、戦後昭和40年代以降のナツメロ番組で、実際にそう呼ばれたわけではない。)
古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。
曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。
古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。
『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。
佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、
いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。
そして両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。
古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。
古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。
宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
- 171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:43
- 日本の歌こころの歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50
ラジオ番組について
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50
- 172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/19(Fri) 00:25
- [古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年3月から8月まで。
古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。
合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。
昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。
今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。
西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。
そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。
ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。
西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。
慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。
慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。
古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあって、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。
なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・
平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。
湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
- 173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:07
- ☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50
- 174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:45
- 藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。
古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。
加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。
なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。
- 175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/18(Tue) 22:54
- 月の浜辺
作詞 島田 芳文
作曲 古賀 政男
唄 河原喜久恵
1.月影白き 波の上
ただひとり 聞く調べ
告げよ千鳥
姿いずこ かの人
ああ 悩ましの夏の夜
こころなの 別れ
2.月早やかげり 風立ちぬ
われ啜り泣く 浜辺
語れ風よ
姿いずこ かの人
ああ狂おしの夏の夜
とこしえの 別れ
1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』
と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。オリジナル
のレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。
- 176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:29
- 昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。
古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年昭和93年7月で40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。
- 177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:29
- 丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺(河原喜久恵)
乙女心 (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)
昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。
他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。
今年平成最後の平成31年(2019)は昭和94年、古賀メロディ発祥88年。
古賀メロディの殆どの名曲は80年を超える【日本のクラッシック】の名に恥じないものと言っていい。
- 178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/30(Sat) 22:25
- >>133
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。
日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴する古賀邸は、昭和13年に作られた、テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
14年、コロムビア復帰、JASRACのもととなる大日本音楽著作権協会設立にコロンビアとして深く関与。
古賀政男は著作権としても圧倒的であって、「著作権」と切っても切れない関係。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
戦後、古賀政男は、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長。
財団法人古賀政男音楽文化振興協会、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。
- 179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:45
- 古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。
日本作曲家協会を作り自ら初代会長として日本レコード大賞を制定、作曲家の権利向上など、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。・・
古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きな屋敷に住み、指には大きなダイヤをつけ、幅2mもあるリンカーンなど大きな外車に乗り、テレビが家庭に普及していく中で、歌謡番組では審査委員長として「よかったね、よかったね」と。
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
- 180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:52
- 古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。
西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。
多くの人が歌った聴いた、80年の歴史の重みをもつそれはもう「古賀メロディ」を越えた、「童謡」に匹敵する名実ともに【日本のクラッシック】である。
- 181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/01(Mon) 23:44
-
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。
西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。
- 182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/07(Tue) 03:56
- 古代文明
- 183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/13(Sat) 00:13
- メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴 Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
参考文献: 19件
被引用文献: 2件
秋山 好一 Akiyama Kouichi
大阪電気通信大学短期大学部
松田 稔 Matsuda Minoru
大阪電気通信大学工学部
抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。
収録刊行物 日本音響学会誌
日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997
一般社団法人 日本音響学会
- 184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/09/16(Mon) 11:12
- 1
- 185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:53
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50
- 186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 10:02
- 【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50
今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。
「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。
小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。
楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。
この日本がまだまだ草深い、まだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、でも日本人が心豊かだった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない多くの若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。
- 187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/16(Sun) 17:38
- 今亡き父母を思い出しました涙が溢れて昔の事が浮かんで来ましたありがと??
- 188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/24(Mon) 09:45
- 古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03
- 189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/17(Tue) 21:54
- ☆私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男
h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741
☆古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03
☆古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e
- 190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/20(Mon) 19:56
- 昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。
古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。
「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。
だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。
当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。
そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。
そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。
現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。
イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。
帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。
なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。
- 191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/21(Tue) 16:34
- 昭和SPレコード歌謡番組を待望する。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50
- 192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 17:18
- ☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆昭和SP歌謡 歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50
☆【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50
☆懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50
☆名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50
☆日本の歌こころの歌BBS)(ラジオBBS)
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50
☆昭和SPレコード歌謡番組を待望する。 (ラジオBBS)
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50
☆童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動 (ラジBBS)
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50
☆『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=581643467&ls=50
☆古賀政男音楽博物館
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/fc680eb40403d8544cc667836dceca8a
☆戦前の流行歌
h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
- 193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 17:35
- ☆古賀政男音楽博物館 公式ホームページ
h ttp://www.koga.or.jp/
(一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団)
- 194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 18:17
- 《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月
昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。
協会設立時における主な会員出席者は洋楽では
作曲家(25人):
本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他
なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。
- 195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/26(Tue) 12:09
- (参考)
ステレオで聴く不滅の古賀メロディー大全集
12,100円(税込)訂正、 5,580円(税込)
作曲家活動90周年の90曲!
「影を慕いて」(昭和3年)を作曲してから90年
そして昭和53年にこの世を去るまで、半世紀にわたって第一線の作曲家として活躍した古賀政男。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ 」「人生劇場」「湯の町エレジー」など戦前SP時代の大ヒット曲も名歌手によるステレオ録音で、また「柔」「悲しい酒」など後期の代表曲も収録。
日本人の心のメロディーとなった名曲の数々をぜひご堪能ください。
●発売日 2018年05月18日
●CD5枚組(全90曲)
●別冊歌詞・解説書つき
●ボックスケース入り
h ttps://www.eroaniment.shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1349
会社名:株式会社toto・noel
-->店舗連絡先:free@emorimoto.com
- 196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/01(Mon) 22:07
- 昭和20年、終戦の年、野口雨情が疎開先の宇都宮で、この世を去ります。
そして、10月には本居長世が成城の自宅で亡くなります・
それでも、戦後西條八十は古賀政男らとのコンビで多くのヒット曲を生み出します。
そして、昭和27年(1952)年には盟友、中山晋平もこの世を去りました。
昭和45年(1970)8月12日、西條八十はこの世を去ります。彼の残した曲の多くは、今でも多くの人々の記憶に刻まれています。そして、その数の多さには誰もが驚かされるでしょう。
最近テレビでは、ロック、J-POPなど外国系に占領されてしまったようですが、
今、街では、大衆歌謡劇団が、昭和の初めから昭和30年代のSP歌謡を歌っています。そして、実態に沿って、あれもこれも、出てくる歌の多くが「西条八十作詞」です。
(そして、中でも。西条八十作詞、古賀政男作曲が多い。)
八十が大衆の歌を、詩を書くようになったきっかけは、大正12年、関東大震災の時、ふと聞いた、少年の吹くハーモニカの歌と自伝にあるが、音楽評論家から、さんざん批判を浴びるも、物ともせず書き続けます。
この詩人、フランス文学者、早稲田大学仏文科教授西条八十は、童謡が854曲(うち訳詞が63曲)、流行歌の作詞が3200曲、校歌、社歌700曲以上、これらのうちでレコード化されたものは7000枚になるといいます。それに加えて、詩、訳詩、小説、随筆、少女小説、紀行文なども多数あります。
最後に、生前彼が残した素晴しい詩をどうぞ!
おわりの詩 西条八十
わたしの足の 可愛い小指も
その小指の先の
ゆがんだ小さな爪も
みんなわたしのもの
わたしのからだの一部
わたしは風
わたしは光 わたしはこだま
姿は消えても永遠に生きる
うたって下さる 聴いて下さる
みなさん ありがとう
- 197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/25(Thu) 14:50
- 古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、昭和14年、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。
西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
また、昭和14年、テイチクからコロムビアに復帰し、外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米訪問、日本に帰った古賀政男は、大日本音楽著作権協会の設立にもかかわって設立総会にも出席。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。
《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月
昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。
協会設立時における主な会員出席者は洋楽では
作曲家(25人):
本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他
なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。
- 198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/25(Thu) 15:46
- ■古賀メロディの歴史 クラッシック(洋楽)を基本・とした大衆歌曲・歌謡曲を確立
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。
昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。
ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06
尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。洋楽と邦楽の融合である。
さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。
まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。
最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューです。
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品:
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。
青い芒(すすき) (野口雨情作詩・中山晋平作曲) 大正13年(内外蓄音機) 1924
紅薔薇 (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲) 同
ひばり (西條八十作詞、 宮城道雄作曲) 同 1929.4
鶯の夢 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313 1928.5
波浮の港 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313 1928.5
■日本の大衆音楽と本居長世 邦楽と洋楽の融合
本居長世には歌曲・童謡など800曲近い作品がある。因みに、山田耕筰は700曲近く(うち軍歌が100曲以上)という。楽譜は、春秋社等の他、佐竹楽譜は如月社系で、本居長世の楽譜を専門とするようです。
本居長世の作品には近世邦楽的な要素が見られるといわれ、明治41年、東京音楽学校を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。
洋楽にしても、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。大切なことは長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。
そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄と「新日本音楽」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会に大きな影響を及ぼしたといわれます。
1920(大正9)年には,宮城と作曲家本居長世の作品発表会が,「新日本音楽大演奏会」と名付けられ,ここで発表された「十五夜お月さん」 が大きな反響を呼び、人気童謡作家として知られるようになる。
宮城道雄、本居長世、弘田龍太郎らで進められてきた「新日本音楽運動」は、日本語を使う日本人の手で、本居宣長に代表される日本の伝統美学に根ざす伝統音楽と、西洋音楽との融合・・西洋音楽の中に、伝統音楽の美学を取り入れる・・をめざすものであったということができよう。
- 199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/25(Thu) 16:54
- 古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。
西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。
西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。
古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう
1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY
古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。
- 200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/25(Thu) 16:57
- ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。
古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。
『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。
支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。
「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。
ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。
これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。
また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。
- 201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/25(Thu) 19:15
- 昭和13年〈1938〉11月8日、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)を最後にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
約1年間、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国。
昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。
アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。
そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》(西條八十作詞)がヒット。
古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。
アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。
また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。
昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。
古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。
昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)には、サトウハチローがコロムビアの専属に。
そして、昭和14年4月には、3年の契約が切れた藤山一郎がテイチクから、コロムビアに移籍。
昭和15年(1940)には、佐藤惣之助がコロムビア専属に。
(昭和17年5月に、この世を去る。)
こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。
昭和14年11月、大日本音楽著作権協会発足した時期は、1年間に亘る外務省音楽文化親善使節から帰任し、「世界の古賀」となって凱旋、コロンビアの顔、コロンビアのドル箱として、第三期黄金時代と言われ、絶頂にあった。
- 202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/07/20(Mon) 07:06
- 最近の歌事情は、歌というより「音楽」、それが「ライブ」になってしまっているということだ。
殆ど、歌としては素人、だから「シンガーソングライター」とかいって、ヘタクソな歌唱を自分流勝手流に喚きたて叫きたてるだけ。
昔は、淡谷のり子などが「歌屋」といって批判していた。
昔は古賀政男とか「大御所」と言われる人が居て、黙っていても、いるだけで、それだけで歌を目指す人にとっての重石(おもし)になっていて、睨みを利かし、歌とはこういうものだという、生きた規範・規準になっていたのだ。
今、古賀政男以後、古賀政男に匹敵するそういう生きたルールになる「大御所」が見当たらない。
- 203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/07(Fri) 15:20
- 懐メロ・昭和の名曲] 佐藤千夜子・ベスト全曲集〜波浮の港,東京行進曲,影を慕いて,当世銀座節など(CD)
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[懐メロ・昭和の名曲] 佐藤千夜子・ベスト全曲集〜波浮の港,東京行進曲,影を慕いて,当世銀座節など(CD)の商品説明
朝ドラ『いちばん星』のモデルとなった戦前の名歌手・佐藤千夜子のベスト全曲集。 後に日本を代表する作曲家になる中山晋平や古賀政男は、佐藤千夜子の活躍がきっかけで世に出たと云われる。
本作には佐藤千夜子の数あるヒット曲から『波浮の港』『当世銀座節』『東京行進曲』『影を慕いて』『紅屋の娘』 など全23曲を収録。
佐藤千夜子・ベスト全曲集 収録曲(あいうえお順)
・愛して頂戴 佐藤千夜子
・雨降りお月 佐藤千夜子
・影を慕いて 佐藤千夜子
・カチューシャの唄 佐藤千夜子
・悲しき踊り子 佐藤千夜子
・君恋し 佐藤千夜子
・恋し新潟 佐藤千夜子
・ゴンドラの唄 佐藤千夜子
・島の椿 佐藤千夜子
・出船の港 佐藤千夜子
・新橋夜曲 佐藤千夜子
・船頭小唄 佐藤千夜子
・章魚つき 佐藤千夜子
・煙草の唄 佐藤千夜子
・帝都復興祝歌 佐藤千夜子
・東京行進曲 佐藤千夜子
・当世銀座節 佐藤千夜子
・波浮の港 佐藤千夜子
・琵琶湖シャンソン 佐藤千夜子
・紅屋の娘 佐藤千夜子
・鉾をおさめて 佐藤千夜子
・蛍草 佐藤千夜子
・毬と殿さま 佐藤千夜子
- 204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/15(Tue) 23:19
- 昭和の初め、佐藤千夜子の歌唱によって世に出た・「波浮の港」・「影を慕いて」 、90年を超えるこの二つの名曲は、
後に、昭和が終わった平成元年(1989)、NHKテレビは、「叱られて」などとともに、「日本の名曲 10曲」として、
1年間、繰り返し放送した。
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