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童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:43
大正8年の起こった童話童謡運動、多くの文学者、詩人、作曲家によって
多くの名作童謡を生んだ童話童謡運動。

しかし、それは戦後新しい若手勢力「ロバの会」による自らの利益を図る「童謡排斥運動」によって
終焉を迎えた。

その歴史に残る汚点は決して忘られるべきでない。

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:13
さっちゃんだとか、ぞうさんとか、他愛もない小さなこどもの歌とは歌の思いが違うのです。

「あたらしいこどもの歌」は、学齢前の幼児を対象としたものです。

「童謡」は子供であっても、ある程度年齢がいったものでないといけないもの。

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:27
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。
しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。
いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。
こうした状況に新たに日本童謡学会が作られた。
いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。
こうした状況にこれらとは違う新たに日本童謡学会が作られた。





25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:35
会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。




241 名前:

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:49
サトウハチローは「童謡協会」に利用されたのでしょう。

初代会長にはサトウハチローを、二代目は中田喜直。以後、湯山昭、「童謡協会」は「童謡」を完全にのっとった。
その代わり、童謡協会もいまや完全に過去のものとなり顧みる人もいない。

何であっても、真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

この「ロバの会→童謡協会」の「童謡のっとり」は、自らのためであり、こどものためでなかった。

そのことを教えている。

「童謡」に限らない、「歌謡」の世界でも同じ。
真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

それはいまや顧みる人もいない職能擁護的団体と化した、今の「童謡協会」の現状を目のあたりにすれば、よくわかる。


You Tubeには過去の名童謡歌手の歌う本物の童謡があふれている。 

あらたに、これとは一線を画し、「日本童謡学会」ができた。


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 06:24
仲よし小道

作詞 三苫(みます)やすし
作曲 河村光陽

仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って 元気よく
お歌をうたって 通う道

仲よし小道は うれしいな
いつもとなりの みよちゃんが
にこにこあそびに かけてくる
なんなんなの花 匂う道

仲よし小道の 小川には
とんとん板橋 かけてある
仲よくならんで 腰かけて
お話するのよ たのしいな

仲よし小道の 日ぐれには
母さまお家で お呼びです
さよならさよなら また明日
お手手をふりふり さようなら

80年前昭和14年、河村光陽 有名な童謡・代表曲
『かもめの水兵さん』、『うれしいひなまつり』、『グッドバイ』など、日本の童謡作曲者・河村光陽の有名な童謡まとめ。



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 06:57
昭和15年(1940年) 
 やさしいお母さま
    
作詞:稲穂雅巳
作曲:海沼實
歌唱:音羽ゆりかご会(川田正子)


わたしが おねむになったとき
やさしくねんねん こもりうた
歌って ねかせてくださった
ほんとにやさしい おかあさま


夏は ねびえをせぬように
冬はおかぜを ひかぬよう
おふとん なおしてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

わたしが 大きくなったなら
ご恩をお返し いたします
それまでたっしゃで まっててね
ほんとにやさしい おかあさま
      

この「やさしいおかあさま」を作詞した稲穂雅巳
は静岡県出身であること以外にあまり資料が見つ
かりません。

海沼實は「音羽ゆりかご会」の創始者、「あの子はたあれ」「ちんから峠」「お猿のかごや」「見てござる」
「里の秋」「蛙の笛」「夢のお馬車」「ばあやたずねて」「みかんの花咲く丘」「かわいい魚やさん」などがある。

しかし、「ロバの会」の童謡排斥運動は主にこれら海沼實をターゲットにしたもので、最後の童謡作曲家といわれる。



 

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 07:21
りんごのひとりごと

作詞 武内俊子
作曲 河村光陽

一.
わたしはまっかな リンゴです
お国は寒い 北の国
リンゴ畑の 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッポ
町の市場へ つきました
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

二.
果物店の おじさんに
お顔をきれいに みがかれて
みんな並んだ お店さき
青いお空を 見るたびに
リンゴ畑を 思いだす
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

三.
今頃どうして いるかしら
リンゴ畑の おじいさん
箱にリンゴを つめながら
歌を歌って いるかしら
たばこふかして いるかしら
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

作詞者が入院してるとき、お見舞いに贈られたリンゴをみて作ったという。
昭和30年代、日本がまだ貧しかった時代、戦後童謡黄金時代でたくさんの童謡歌手によって広く歌われた。
河村光陽の娘、童謡歌手河村順子が歌った。

当時、リンゴは高価なもので、リンゴとは、病気の時お母さんが枕元に出してくれるものだった。昭和15年、太平洋戦争直前、河村光陽作曲の有名な童謡。
『かもめの水兵さん』、『うれしいひなまつり』、『グッドバイ』など、日本の童謡作曲者・河村光陽の有名な童謡。
むかしの【童謡】は後ろにおかあさんや家族がでてくる。でてくる。そして人生に二度よみがえるすばらしい文化遺産。


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 22:40
十五夜お月さん

作詞:野口雨情
作曲:本居長世

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました

2 十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰(も)られてゆきました

3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
  も一度 わたしは逢いたいな

大正9年(1920)9月号仏教系児童文学誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に発表されました。

一家離散の憂き目にあった女の子の月に寄せる悲しみ。 


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:05
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50

32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:23
真の童謡その背景には人がいる、人の想いが隠れている。
そして人の深い情愛が込められている。

33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/18(Thu) 13:43
100年を超える童謡の歴史、童謡の歴史は近代日本の歴史、童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。
大正9年に作られた童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、 ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。
壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの瀬戸内の僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、
「二十四の瞳」 1954 
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1

昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。

映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:28
>>30

十五夜お月さん

 作詞:野口雨情
 作曲:本居長世

雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。

真の童謡その背景には人がいる、人の想いが隠れている。
童謡には人の深い情愛が込められている。

35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:50
>>30.>>34

このたった二行の詩に、こんなにも悲しさと切なさを表現できた野口雨情には、自分との境遇がきっと重なっていたのではないのでしょうか!
「十五夜お月さん」この唄はいろんな方が歌唱されてますが、今更ながらですが、本居長世のこのメロディは本当に琴線に触れてくるものがあります!

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:57
本居長世:生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 21:36
>>32-33

叱られて

作詞 清水かつら
作曲 弘田 龍太郎

叱られて 叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんと きつねが なきゃせぬか


叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

『叱られて』(しかられて)は、大正9年(1920)4月に少女雑誌「少女号」に発表された。
童謡歌手だけでなくなど、三浦環、藤原義江など、多くの歌手によって歌われた日本の代表的名曲。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 21:49
叱られて 名盤

叱られて 藤原義江 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25176 黒盤 17
叱られて 佐藤美子 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25205 黒盤 31
叱られて 鈴孫竜男 清水かつら 弘田竜太郎 0408 VIC 50848 黒盤 484
叱られて 宮川美子 清水かつら 弘田竜太郎 0611 COL 35216 @ 青盤 1638 328
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3482
叱られて 奥田良三 清水かつら 弘田竜太郎 0806 POL 5076 赤盤 5005
叱られて 内本 実 清水かつら 弘田竜太郎 0906 COL 35433 青盤 5944
叱られて 阿部幸次 清水かつら 弘田竜太郎 1009 TAI 56315 赤貝星 8021
叱られて 三浦 環 清水かつら 弘田竜太郎 1104 COL 35483 青盤 9105
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 1100 NIT S1413 大衆S盤 9445
叱られて 井崎加代子 清水かつら 弘田龍太郎 1112 TAI 21077 赤WS 9820
叱られて 斎田愛子 清水かつら 弘田竜太郎 1209 VIC 13523 赤盤 12791
叱られて 永田絃次郎 清水かつら 弘田竜太郎 1304 KIN 20077 群青盤 13433
叱られて 奥田良三

0311 昭和3年11月発売






39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 23:26

音羽少国民合唱団/東京放送児童合唱団/日蓄児童合唱団(コロムビア・日蓄)・・海沼實・音羽ゆりかご会

「お山の杉の子」作詞 吉田テフ子、作曲 佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、 寿永恵美子、日蓄児童合唱団。録音は11月6日に国民合唱。日蓄児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)
19年12月 ラジオ放送(国民合唱)東京放送合唱団、東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

「勝ち抜く僕等小国民」昭和20年1月21日 放送 作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 歌 東京放送合唱団 東京放送 児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

いずれも空襲が激化、国民学校5年生以上は田舎に知人があれば疎開。あければ都内で。何百万人の学童が疎開、このころ歌われた歌。東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りライオ放送したという川田正子など。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 12:15
東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りラジオ放送したという川田正子など。

41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 12:18
>>37-38

童謡歌手川田孝子の「叱られて」や「雨」絶品!

今のクラッシック歌手でもこれほどまでに歌えない。

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 13:24
>>1-7
>>8-21

童謡協会の会員(正会員)の要件は、童謡の作詞または作曲をするもの、童謡著作者(詩人・作曲家)とされるが、聞いたこともないような名前ばかり。
「先人のすぐれた童謡を受け継ぎ」となっているのだが、どうもそうとも思えない。
会員の相互連携や職能を擁護する目的で設立された典型的団体(職能団体という)の域をでていないようだ。


43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 13:45
国会図書館も職能団体にいれてるね。

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 11:25
「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。

戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。







「農家の皆さん今晩は」

(NHK「農家に送る夕」テーマソング 
     (作詞 山上武夫  作曲 海沼 實)

 1 農家の皆さん 今晩は
  一日お仕事 ごくろうさん
  お疲れ直しの この時間
  ラジオのおそばへ さあどうぞ

 2 ぷかりと一服 お父さま
  赤ちゃんにおっぱい お母さま
  まあまあたんぼの お話は
  ゆっくりお後で なさいませ

 3 おやおや時間に なりました
  おしゃべりお歌は 止めにして
  それではこれから 番組を
  次々お送り いたしましょう

  


「農家に送る夕」は終戦直後のNHKラジオ毎週月曜夜8時からの放送でした。


「東京放送児童合唱団」でした、「東京放送児童合唱団」は昭和18年NHK嘱託として、戦中、戦後早々まで活躍しました。

他に、戦後早々のNHK子供向けラジオドラマの主題歌を歌っていました。

昭和27年まで行われた『桜んぼ大将』や『鐘の鳴る丘』などで、当時録音ではなく、毎日NHKに出向いて生放送していたそうです。

昭和27年からあらたにNHK内に、『NHK東京放送児童合唱団』が作られ、おおくの合唱曲が歌われた。

このあと、『NHK東京放送児童合唱団』が、『NHK東京児童合唱団』になったが、これは、『東京放送児童合唱団』が、

『音羽ゆりかご会』のNHKラジオ放送における別称だったという歴史によるからと言われる。







終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは,食料とエネルギー源確保のため,「農家へ送る夕」(昭和20年10月より),「炭坑へ送る夕」(昭和21年8月より)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/23(Tue) 23:09
>>39-44

平成16年、「学童疎開60年」の年、夏には各地で記念展や行事がありました。学童疎開は、今から75年前、ちょうど敗戦の一年前より行われたものです。

昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
昭和 20 年 2 月に放送された「父母のこえ」という歌があります。 学童疎開をテーマにした曲で、悲哀に満ちあふれる隠れた名曲です。 作詞は童話作家の与田準一、作曲は「夕焼小焼」「揺藍のうた」の草川信です。これも、NHKラジオで放送され、東京放送合唱団、東京放送児童合唱団によって歌われました。

父母の声

太郎は父の故郷へ 花子は母の故郷へ
里で聞いたは何の声 山の頂雲に鳥
希望大きく育てよと 遠く離れた父の声

太郎は父の故郷へ 花子は母の故郷へ
里で聞いたは何の声 浦の松風波の音
生命清しく生い立てと 遠く離れた母の声



46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/24(Wed) 07:35
からすの赤ちゃん 
海沼實 作詞 作曲
昭和14年(1939年)

1)
からすの赤ちゃん なぜなくの
こけこっこの おばさんに
あかいお帽子 ほしいよ
あかいお靴も ほしいよと
かあかあ なくのね

2)
めえめえ山羊さん なぜなくの
お里の 母さんに
おねむに なったよ
あまいおっぱい 頂戴ねと
めえめえ なくのね

3)
迷子の鳩さん なぜなくの
みみずく おじさんに
夜路は こわいよ
ほおずき提灯 かしとくれと
ほろほろ なくのね

4)
きつねの赤ちゃん なぜなくの
三日月 おばさんに
木の葉でかんざし 買っとくれ
小石で花ぐし 買っとくれと
こんこん なくのね


戦後昭和30年代、童謡黄金時代によく歌われました。
川田正子ほか多くの童謡歌手が歌っています。
音羽ゆりかご会の本拠地、文京区護国寺の境内の隅に記念碑があります。


47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/29(Mon) 21:55
「お山の杉の子」作詞 吉田テフ子、作曲 佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、 寿永恵美子、日蓄児童合唱団。
録音は11月6日に国民合唱。日蓄児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)
19年12月 ラジオ放送(国民合唱)東京放送合唱団、東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

「勝ち抜く僕等小国民」昭和20年1月21日 放送 作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 歌 東京放送合唱団 東京放送 児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

いずれも空襲が激化、国民学校5年生以上は田舎に知人があれば疎開。あければ都内で。何百万人の学童が疎開、このころ歌われた歌。東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りライオ放送したという川田正子など。

昭和 20 年 2 月に放送された「父母のこえ」という歌があります。 学童疎開をテーマにした曲で、悲哀に満ちあふれる隠れた名曲です。 作詞は童話作家の与田準一、作曲は「夕焼小焼」「揺藍のうた」の草川信です。

昭和20年2月、日本の歴史で最も厳しい時、敗戦の坂道を転げ落ちるように、2月には硫黄島上陸、陥落、3月10日には一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲。

硫黄島陥落、飛行場を作って、戦闘機が護衛したもの。

「父母の声」(作詞 与田準一、作曲 草川信〉

「東京放送合唱団」は空襲の惨蛾の中、疎開もせず放送し続けたという。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/29(Mon) 22:07
訂正
「東京放送児童合唱団」は空襲の惨蛾の中、疎開もせず放送し続けたという。

49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 09:16
■日本の主な童謡歌手■

大正時代以来の、「童謡」は日本の優れた文化遺産です。

詩人、作曲家とともに、そして作曲家に薫陶された多くの優れた童謡歌手が生まれました。
その歌声は今聞いても新鮮で優しく心温まり癒されます。
いまのクラッシックを標榜する歌手もここまでとてもこれほどまでには歌えない・・そんな素晴らしい歌声は時代を超え、世代を超えて歌われ続けることでしょう。

童謡の中には、藤原義江、三浦環など日本の優れた国際的歌手が好んで歌い広めたものも多い。いい加減なものではない。

昭和30年代は、童謡黄金時代、たくさんの童謡と、たくさんの優れた童謡歌手が生まれました。童謡歌手はあたまに大きなリボンをつけて歌っていました。

この、昭和30年代童謡黄金時代に突然、実績のない一部若手の心ない策動によってか、この童謡と真の童謡運動が突然終焉を迎えることになったのは残念なことではないでしょうか。


(戦前)

本居みどり,貴美子、若葉(本居三姉妹)
平井英子
村山(ダン)道子
平山美代子
中山梶子
本多信子
金子一雄
石井亀次郎
小笠原英夫
佐々川浩子
杉山みち子
宮下礼子
尾村まさ子
大川澄子
加賀美一郎




(戦後)

川田正子
川田孝子
川田美智子
大道真弓
中根庸子
秋田喜美子
持田ヨシ子
安田祥子
安田章子
古賀さと子
田端典子
近藤圭子
岩田佐智子
伴久美子
羽崎共子
久保木幸子
関根敏子
井上裕子
桑名貞子
本間千代子
岡田孝







50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 11:36
戦前も童謡黄金時代、当時も音羽ゆりかご会(海沼實 昭和8年)、小鳩会(河村光陽)など、多くの児童合唱団があった。

弘田竜太郎は、作曲活動のかたわら、NHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指導、指揮にあたったことで知られる。
(当時、ラジオ放送はNHKのみ)


「東京放送児童合唱団」の歴史

・1943年(昭和18年) - 当時の社団法人日本放送協会 (NHK)が放送合唱団を公募し、たくさんの児童合唱団の中から、スタジオでの作曲家による審査委員会による厳重審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として委嘱。

・同合唱団は戦後早々の、NHK連続放送劇「さくらんぼ大将」「鐘の鳴る丘」など、戦中戦後のNHKラジオ放送に大きく貢献した。

・1951年(昭和26年)6月1日 - 放送法施行に伴い社団法人日本放送協会が解散。当合唱団に関する事務は、特殊法人である日本放送協会が承継。

・1952年(昭和27年)3月 - NHK独自の児童合唱団として「NHK東京放送児童合唱団」(通称N児)を編成。
 NHK独自の児童合唱団として再編成され、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。

・2003年(平成15年)10月 - NHK東京児童合唱団に改称。
 名称変更理由は、同合唱団の前身にあたる「音羽ゆりかご会」や、東京放送(現・東京放送ホールディングス)の関連合唱団と間違われないためとされる。



51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:04
「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
 ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
東京カルチャーセンター(JDMA会員) 
 SPオリジナル盤 
   
「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
 本居みどり、平井英子、本田信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
 古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
 
図書館等で、、カセットもあり


52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:18
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。

雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。




53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:23

簡単な分かりやすい詩の中に
深い人生の悲苦等隠されていて、
素晴らしい雨情の詩。


十五夜お月さん
野口雨情作詞、本居長世作曲

十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは お暇(いとま)とりました

十五夜お月さん
妹は
田舎へ貰(も)られてゆきました

十五夜お月さん 母(かか)さんに
も一度
わたしは逢ひたいな。


雨情は他に「雨降りお月さん」という曲も作詞しています。
月のような優しい陰徳の光を好んだのかもしれませんね。
表に立つのでなく裏で下で悲しむ人、苦しむ人を支えていた
月の柔らかい光の人だったと信じます。


雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。




54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:44
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50

55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/04(Sun) 23:28
童謡「やさしいお母さま」昭和15年

昭和30年代、童謡黄金時代に、多くの童謡歌手によってよく歌われた歌、母と子の情愛を歌った何かいいようのないとても
優しい旋律である。

昭和15年といえば太平洋戦争突入前年、太平洋戦争突入前年と言いながら、平和最後の時代、それに似つかわしくない優しい歌が集中している。
「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「高原の月」(西條八十)、「新妻鏡」(佐藤惣之助)・・など、


<大道眞弓の「やさしいお母さま」>

「やさしいお母さま」

  作詞:稲穂雅巳
  作曲:海沼 實

わたしが おねむになったとき
やさしくねんねん こもりうた
歌って ねかせてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

夏は ねびえをせぬように
冬はおかぜを ひかぬよう
おふとん なおしてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

わたしが 大きくなったなら
ご恩をお返し いたします
それまでたっしゃで まっててね
ほんとにやさしい おかあさま


この歌は海沼實の作曲。海沼實は、音羽ゆりかご会を指導していたが 昭和18年の関東児童唱歌研究会主催のコンクールで音羽ゆりかご会が圧勝。この「やさしいお母さま」を歌った大道眞弓が優勝し、2位は「兵隊さんの汽車(後の汽車ポッポ)」を歌った川田正子で、いずれも音羽ゆりかご会のメンバーだったという。

また、昭和18年には、「音羽ゆりかご会」は、「東京放送児童合唱団」として、NHKに任命され、戦中、戦後のNHKラジオ放送に貢献している。




56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/04(Sun) 23:53
音羽ゆりかご会の歴史


「音羽ゆりかご会」の創設者である海沼實は、明治42年に長野県埴科郡松代町で誕生しました。童謡の作曲家を志して、昭和7年に上京すると、同郷出身の作曲家・草川信に弟子入りして作曲活動を開始。当時の護国寺貫首・佐々木教純の好意で護国寺境内に無償で教室を借り受け、子どもの情操教育を志して合唱団を創設し、自らその会長となりました。

海沼の師匠にあたる草川は、自らの代表作である「ゆりかごの歌」を、この合唱団の会歌として贈り、また大正時代の半ばから「赤い鳥童謡運動」を支えてきた詩人の北原白秋は、同会を「音羽ゆりかご会」と命名し、協力にサポートして下さいました。 やがて「お猿のかごや」「あの子はたあれ」「ちんから峠」「やさしいおかあさま」等の曲で頭角を現し始めた海沼は、これら新作童謡を音羽ゆりかご会に歌わせ、次第に全国民的な支持を受け始めます。海沼が指導した音羽ゆりかご会は着実に実力を高め、創設から10周年目を迎えた昭和18年には、児童唱歌コンクールで優勝と準優勝を独占。この年から、NHKの放送では、東京放送児童合唱団という呼称でも活動を始めることになりました。


57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/06(Tue) 10:24
「あの子はたあれ」

作詞 細川雄太郎
作曲 海沼 實


あの子はたあれ たれでしょね
なんなんなつめの 花の下
お人形さんと 遊んでる
かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
こんこん小やぶの 細道を
竹馬ごっこで 遊んでる
隣の健ちゃんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
とんとん峠(とうげ)の 坂道を
ひとりでてくてく 歩いてく
お寺の小僧さんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
お窓にうつった 影法師(かげぼうし)
お外はいつか 日がくれて
お空にお月さんの 笑い顔

昭和15年に音羽ゆりかご会の秋田貴美子の歌で発売され、昭和30年代、多くの童謡歌手によって広く歌われた。

運動会にも流された。




58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 09:50

復刻盤 懐かしの童謡歌手たち @〜B  COCC-12794〜6 日本コロムビア1995
 
復刻 懐かしの童謡歌手たち @  COCC-12794

川田正子 みかんの花咲く丘  他
川田孝子 お花のホテル    他

復刻 懐かしの童謡歌手たち A  COCC-12795

伴久美子  人形       他
久保木幸子 仲良し小道    他

復刻 懐かしの童謡歌手たち B  COCC-12796

安田祥子  七つの子     他
安田章子  愉快な街の風船屋 他
岡田孝   赤とんぼ     他
羽崎共子  浜千鳥      他
松島トモ子 かもめの水兵さん 他
桑名貞子  グッドバイ    他
井上裕子  ロンドン橋落ちる 他
安西愛子  お山の杉の子   他
松田トシ  お山のお猿    他
河村順子  うれしいひなまつり他


図書館棟にあり CD,テープ


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/17(Sat) 15:11
大村主計作詞、豊田義一作曲。昭和6年(1931年)に発表されました。子供らしくかわいい歌です。

「絵日傘」

桜 ひらひら 絵日傘に
蝶々もひらひら きてとまる
乳母(うば)のお里は 花の路
すみれの花も たんぽぽも

まわす絵日傘 花吹雪
ひばりもぴーちく 来てあそぶ
乳母(うば)のお里は 春がすみ
絵日傘くるくる 通りゃんせ


「花かげ」がお姉さまへの、こちらは乳母への想いが味わい深い内容で浮かんでくるいい曲です。

「花かげ」
 大村主計作詞/豊田義一作曲

   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに 
   花嫁すがたの お姉さま
   車に揺られて 行きました
   
   十五夜お月さま 見てたでしょう
   桜吹雪の 花かげに
   花嫁すがたの 姉さまと
   お別れ惜んで 泣きました
   
   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに
   遠いお里の お姉さま
   わたしは一人に なりました

絵日傘、花影、いずれも大村主計作詞/豊田義一作曲、
昭和6年、童謡歌手永岡志津子の歌で世に出た。よく舞踊に歌われた。



60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/11(Sat) 09:05
日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 12:47
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌 好評 発売中


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 11:42
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50

63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 18:15
「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは。
、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。

当時は童謡黄金時代であったがこれはレコードであなくラジオである。
磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、
昭和三十年「ろばの会」を作って、(レコードでなく)新しいラジオ番組「歌のおばさん」で
「あたらしいこどものうた」をつくろうとした。

そしてこれまでの(レコード)「童謡」の「排斥運動」を展開したのだ。
自らと競合する『童謡』を排斥したのだ。(「童謡排斥運動」という。)

昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。


「ぞうさん」「サッちゃん」「おなかのへるうた」。。こうしたたあいないへんな歌は童謡黄金時代、「童謡」に対抗して、昭和30年に作られた「ロバの会」による「新しいこどものうた」というものです。対象就学期前の幼児でした。

そしてなんと、「童謡排斥運動」を起こしたのです。「ロバの会」自体が童謡排斥のためで、5人の若手二世音楽家によって作られたものでした。

「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。

名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。


<「ろばの会」について>
磯部俶(いそべとし)の提案で、“こどものうた”の作曲家グループとして、昭和三十年(1955年)に 中田喜直、磯部俶、中田一次(、宇賀神光利(昭和42年(1967年)に死亡)、大中恩の5人で結成。 まどみちおなど詩に加わる。

童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。

動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。

日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。

従って『童謡協会』に童謡を語る資格は無い。

また『童謡協会』は、『童謡』には関心がなさそうだ。

童謡を語れる人材も入っていないし、童謡を実際歌っている児童合唱団なども見向きもしていない。

ロバの会と同様、いずれ解散となるでしょう。

昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。
死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。
「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。

(「童謡の聖人・中田喜直」)

64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:43
[世界大百科事典]内の歌のおばさんの言及

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

この中に「童謡排斥運動」の背景がよく表れていて、童謡排斥運動、そのもので、非常に参考になる。


【童謡】より

…しかし,子どもの流行歌としての〈レコード童謡〉の量産がその質の低下をもたらし,戦後再び子どもの歌の運動が起きた。〈赤い鳥〉の流れをくむ詩人サトウハチロー(1903‐73)や新進作曲家団伊玖磨(1924‐ ),芥川也寸志(1925‐89),中田喜直(1923‐ )らによるもので,NHKのラジオ番組〈歌のおばさん〉を媒介とし,ここから《めだかの学校》《ぞうさん》など,簡単な旋律でありながら,芸術味のある歌が誕生した。ついで中田喜直,磯部俶(1917‐ )らによる〈ろばの会〉が結成され,彼らは〈レコード童謡〉のイメージから脱皮すべく童謡の名称を用いず,〈こどものうた〉とよんだ。…
※「歌のおばさん」について言及している用語解説の一部を掲載しています。



65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:49
>>53

h ttps://kotobank.jp/word/歌のおばさん-1274062

出典|株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について

66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:54
上記訂正
>>64

h ttps://kotobank.jp/word/歌のおばさん-1274062

出典|株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について

67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 23:09
うたのおばさん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『うたのおばさん』は、1949年8月1日から1964年4月4日までNHKラジオ第1放送で放送されていた幼児向けの歌番組である。平日の8時45分から9時まで放送されていた。


概要
終戦直後の貧しい時代に、「歌」は最も重要な娯楽の一つだったが、いわゆる流行歌には、子どもの歌唱にふさわしくないものも多く、健全な子どものための音楽文化育成のために、番組が制作された。[要出典]
安西愛子と松田トシがピアノ伴奏で歌唱し、歌遊びや歌唱指導もあった[1]。この番組ができた当時、安西・松田の2人はまだ30代前半で、「おばさん」呼ばわりされるには抵抗があったようだが、「長寿番組にしたいし、そうすればおばさんのほうが親しみやすい」というNHK担当者の説得で納得したという。[要出典]
まど・みちお作詞、團伊玖磨作曲の『ぞうさん』[2]など、この番組のために作られた歌もある。他に、サトウハチロー、小林純一、中田喜直、團伊玖磨、芥川也寸志、佐藤義美らが番組に協力した[3][4]。
当時は、幼稚園や保育園に通う子どもはまだ少なく、団塊の世代とその前後の、多くの人たちが当番組を聞いていた。戦後の童謡の黄金期を作った[5]。月1 - 2回の外出録音を実施し、幼児と密接になるようにつとめていた[6]。
一方、1953年にテレビ(NHK総合)にて本放送が開始される。そのような中で、当番組のテレビ版を作ろうという話があり、1961年に当番組の編成にたいそうを加えた『うたのえほん』が開始された[7]。やはり1960年代になると、テレビが普及してラジオの聴取者が激減したため、[要出典]15年続いた番組も1964年に終了した。
当番組で誕生した歌
おかあさん  作詞:田中ナナ、作曲:中田喜直
お星さま   作詞:都築益世、作曲:團伊玖磨
1948年5月に放送、発表[9]。
こおろぎ   作詞:関根栄一、作曲:芥川也寸志
サッちゃん  作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩
1959年に開催されたNHKラジオ「うたのおばさん」放送開始10周年記念の祝賀音楽会にて発表された[10]。
ぞうさん   作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨
詩は1948年春頃に、曲は1953年に作られた[2]。
みつばちぶんぶん 作詞:小林純一、作曲:細谷一郎
めだかの学校   作詞:茶木滋、作曲:中田喜直
数曲が日本の歌百選に選定された。


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 23:27
ほとんどが動物、人間には関心ないようだ、
さっちゃんとかもチンパンジーなんだそうだ!・。

69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/11(Sat) 07:48
「こどものうた」といいながら、子供がいない。
結局、自分のため。

何の実績もない自分たちのため、対抗する実績のある「童謡」を排斥したもの。

したがって、今、子供も、誰も見向きもしない。
児童合唱団さえ、今や見向きもしない。

排斥によって何も生まれなかった。

会員は詩人と作曲家となっているが、誰も知る人もない名前ばかり。
典型的、会員の職能擁護団体に成り下がってしまっている。

70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:14
【16 戦後の童謡】
(昭和22年)NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」。
海沼実「みかんの花咲く丘」「おさるのかごや」「からすの赤ちゃん」「かえるの笛」「ちんから峠」、山口保治「かわいい魚やさん」「ないしょ話」、山本雅之「もりのこびと」など、放送、レコードによる、童謡作家、童謡歌手によって紹介され好まれた。
サトーハチロー等はこれらの童謡は幼稚で低俗だと批評し、芸術的な新童謡が作られるようになった。
NHKの(歌のおばさん)等に團伊玖磨「ぞうさん」「おつかいありさん」、中田喜直「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「小さい秋見つけた」、大中恩「バスのうた」「サッちゃん」「ぞうさん」など多くがラジオなどで紹介され広く親しまれてきた。
近年はテレビの子供番組などから「山口さんちのツトムくん」「およげたいやきくん」等が出たが、CMソングなど音楽が多様化し、童謡としての曲はヒットしなくなった。

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 21:32
(取り戻そう日本の歌)日本の歌謡の歴史(日本の文化遺産)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=589880538&ls=50


72 名前:松堀不動産 投稿日:2024/10/15(Tue) 14:08
認知症男性と不動産契約、現金詐取容疑で松堀不動産 平岡 実 容疑者、松本 昇 容疑者逮捕-被害約30人か (埼玉県東松山市)

 埼玉県警東松山署は8日、認知症の高齢者に不動産売買契約を結ばせ、現金3600万円をだまし取ったとして、
株式会社松堀不動産 平岡 実 容疑者と 松本 昇 容疑者を準詐欺容疑で逮捕した。
 調べに対し平岡容疑者と松本容疑者は「利益率が高いので安易に手を出した。お金が欲しかった」と容疑を認めている。
 平岡容疑者と松本容疑者は株式会社 松堀不動産(埼玉県東松山市)の社員で、
東松山署は約30人の認知症の高齢者から計約1億1千万円をだまし取ったとみて調べをすすめている。
 調べよると、平岡容疑者と松本容疑者は、認知症の80代男性と埼玉県東松山市のアパートの一室を共同所有する不動産売買契約を結び、
今年3月にに現金3600万円を振り込ませてだまし取った疑いがある。平岡容疑者と松本容疑者はらはアパートの一室を約360万円で購入し、
その約10倍となる約3600万円で男性に販売していたという。
      (2024年7月9日 毎日新聞)

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