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日本の童謡と日本童謡学会の創設
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/01(Mon) 20:57
-
2018年は童謡が生まれて100周年。
日本童謡学会が設立されました。
- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/01(Mon) 20:58
- 日本童謡学会 設立趣旨書
2018年は童謡が生まれて100周年。
日本童謡学会が創設されました・
1918年(大正7年)に児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、ここで初めて「童謡」という言葉が使われました。
2018年で「童謡」は100周年を迎えました。
これを機に、日本童謡学会(海沼実理事長)を設立いたしました。
日本における子どもの歌は、古来より“わらべうた”として伝承され、明治時代には文部省による唱歌、そして大正時代には童心と芸術性を重視した童謡が誕生しました。
日本の童謡は、当時の著名な作家、音楽家たちがこぞって創作し、童心はもちろん、日本の自然や風習を表現した作品が数多く生まれ、海外でも稀ともいえる文化に発展しました。
子どもたちの情操教育にも活用されてきた童謡ですが、時代や風習の変化、趣味の多様化によって、童謡に触れる機会は激減し、その存在感たるや、童謡文化は危機的状況に陥っているといっても過言ではありません。
大正・昭和の名作童謡に親しんだ世代の高齢化が進み、当時の童謡の魅力を家族や次世代に体験談として伝え残していく機会はますます減っていきます。また、童謡作家の子孫たちだけが知っている秘話や資料など、今後の童謡の研究に欠かせないデータが埋もれていく恐れもあります。
童謡に関する研究、検証は、まだ不明な点や誤りが多いのも事実です。それは、唱歌と童謡の区別がわかりにくいことや、童謡の世界観があまりにも深く、様々な説が流れることにも起因します。このままでは、インターネット主流の現在、間違った情報が氾濫していて、正しい知識を身に着けることは困難です。
また、かつての昭和の戦後期に、「みかんの花咲く丘」や「里の秋」を作曲した童謡作曲家、海沼 實によれば、“童謡は「心のおやつ」”と位置付けられていました。現在、あらゆるモノに満たされた豊かな社会の裏には、最も大切な「心の豊かさ」が置き去りにされているとも感じます。家族や育児におけるトラブル、社会の歪み、そういったニュースが後を絶ちません。今こそ、子どもたちの情操教育や、大人たちの心の拠り所として、童謡文化が見直されるべきだと思います。
2018年には、児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、童謡文化が本格化してから100周年を迎えます。この童謡100周年の節目を逃してしまったら、永遠に正しい童謡文化の検証、そして継承は困難だと断言できます。
私たちは現在望みうる童謡関連の専門家、関係者、有識者の知恵を結集し、童謡の歴史や作品の解釈、正しい知識を研究し、「童謡の心」を世に残していくために、日本童謡学会を設立いたします。童謡学会を設立して童謡を普及・発展することにより、三つの効果が期待できます。
第一に、世代を超えた「コミュニケーションの活性化」です。童謡は、子どもから大人まで、世代を超えてみんなで歌える歌です。家庭で、行事で、趣味で、世代に関わらず童謡を歌う機会が増え、それは世代をつなぐ架け橋としての役割になります。かつての大衆文化の時代と違い、趣味が多様化している現代では、みんなでわかり合える文化は多くありません。その点、童謡は気軽に口ずさむだけでも良いのです。
次に、「童謡を題材にした地域創生」です。童謡の舞台となった地域や、作詞家・作曲家の軌跡は、全国各地に点在します。歌碑や記念館も多数ありますが、残念ながら、注目されるに至っていません。その地域・風土から生まれた童謡を、まずは地元で分かち合い、そしてその輪を全国に広げていく。日本童謡学会の研究は、地域創生に大きく貢献します。
最後に、この日本特有の童謡文化は、海外でも高い評価を受けており、「国際文化交流に活用」できます。日本の童謡文化は、当時一流の作家、音楽家たちが子どものために愛情を注いで芸術性の高い作品群を作り上げ、海外の童謡と比較しても、多彩な魅力を持っています。
日本を代表する文化である童謡を世界に発信し、世界各地の童謡にも親しむことで、価値ある国際文化交流につながります。
このように、童謡は、人、地域、世界をつなぐ日本文化として、次世代に歌い継いでいくことが私たちの使命だと考えます。
2018年7月1日
- 3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/01(Mon) 21:00
- 一般社団法人 日本童謡学会(海沼実理事長)
- 4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/01(Mon) 21:12
- 団体概要
ご挨拶
かつて多くの人々の心に夢や希望、安らぎを与えた「童謡」は、今や「風前の灯火」ともいえる状況にあります。昔を懐かしんで歌い、作品創作の背景や作者の私生活を掘り下げるのも大切ですが、何より私たちはこの「童謡100年」を機に、その本来あるべき姿を次世代の子どもたちに伝承していかなくてはなりません。ご承知の通り、黎明期の童謡は子ども向けの文学作品、つまり歌や音楽である以前に純然たる「文学作品」でした。作品を手掛けた当代一流の文学者や、それに共感した音楽家たちが、童謡の世界観を子どもたちに感じさせることを目指したのであれば、現代社会を生きる私たちは、その遺志を継承し童謡文化を守り抜く使命があると考えています。
理事長 海沼 実
【役員一覧】 ※2019年5月現在。敬称略。
理事長 海沼 実(音羽ゆりかご会 会長)
名誉理事長
山東 昭子(参議院議員、元 参議院副議長、童謡歌手)
名誉理事
石川 洋美(芝浦工業大学 名誉理事長)
石原 宏高(衆議院議員)
海老名 香葉子(エッセイスト、絵本作家、作家、初代 林家三平 夫人)
大瀧 秀子(元 タンポポ児童合唱団 代表)
大野 俊三(トランペッター、コンポーザー、アレンジャー)
大庭 照子(童謡/シャンソン歌手、NPO法人 日本国際童謡館 館長)
加藤 由美子(作曲家・ピアニスト)
川田 美智子(元童謡歌手、音楽教育家)
河村 建夫(衆議院議員、元内閣官房長官、元文部科学大臣)
木内 義勝(松本短期大学 学長)
グレッグ・アーウィン(シンガーソングライター、司会、童謡の伝道師)
合田 道人(日本歌手協会 筆頭理事、歌手、作家、音楽プロデューサー)
西脇 久夫(ニュー西北エンタープライズ代表、ボニージャックス、日本歌手協会 監事)
福留 強(一般社団法人 学び・まちづくり推進機構 代表理事)
松島トモ子(歌手、女優、タレント)
マンリオ カデロ(サンマリノ共和国大使館 特命全権大使 外交団長)
山谷 えり子(参議院議員、文化伝統調査会 会長)
若林 尚司(童謡研究家、元 NHK音楽番組チーフディレクター)
理事
ウィリアム・リード(山梨学院大学 国際リベラルアーツ学科 教授)
宇佐美 恵子(織田ファッション専門学校 / 織田きもの専門学校 前学校長)
大澤 よしこ(童謡歌手、『すがも児童合唱団』主宰、『童謡を歌う会』講師)
加藤 三智(加藤省吾の娘、音楽教室 ピアノ講師)
かの 香織(一般財団法人 オーバーザレインボウ基金 代表、音楽家)
澤登 信子(ライフカルチャーセンター 代表、モリモリネットワーク 理事)
田 真理(NPO法人 日本国際童謡館 理事長)
野口 不二子(野口雨情生家・資料館 館長、野口雨情の孫)
山田 真治(松本短期大学 教授、「水芭蕉コンサート in 愛知」 実行委員長)
山西 敏博(公立鳥取環境大学 教授)
吉田 和夫(教育デザイン研究所 代表理事)
監事
寺澤 祐義(加茂繊維株式会社 顧問)
相談役
菅野 晴隆(弁護士法人ブレインハート法律事務所 代表弁護士)
顧問/相談役
藤井 晃(株式会社青山ビジネスフォーラム 代表取締役)
山下 浩二(工学博士・法学博士、EVグループ代表)
- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/02(Tue) 23:58
- 次世代を担う子供たちに童謡を歌いついでいこう、
という共通認識のもと私たち日本童謡学会は発足しました。
今後、童謡学会では童謡の知識を測る「童謡検定」や、
高齢者施設で活躍する「童謡セラピスト」の養成、
「野口雨情の詩 作曲コンクール」などを行なっていきます。
私も大岡山教室のみんなと一緒に、もっと積極的に童謡を歌っていこう
私の仕事1発目としては近く、童謡学会のサイト内にて童謡についてのコラムを掲載しますね。
音楽療法士の視点から見る童謡の世界。
お楽しみにしてください(^^)
日本童謡学会は、こんな仲間たちで頑張ります。
海沼実さん、海老名香代子さん、野口不二子さん(野口雨情のお孫さん)、大庭 照子さん、 山田 真治さん、 松尾 一彦さん(元 オフコース)、私です。
- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/03(Wed) 18:50
- 日本童謡学会 設立趣意書
日本の童謡は、当時の著名な作家、音楽家たちがこぞって創作し、童心はもちろん、日本の自然や風習を表現した作品が数多く生まれ、海外でも稀ともいえる文化に発展しました。
子どもたちの情操教育にも活用されてきた童謡ですが、時代や風習の変化、趣味の多様化によって、童謡に触れる機会は激減し、その存在感たるや、童謡文化は危機的状況に陥っているといっても過言ではありません。
大正・昭和の名作童謡に親しんだ世代の高齢化が進み、当時の童謡の魅力を家族や次世代に体験談として伝え残していく機会はますます減っていきます。また、童謡作家の子孫たちだけが知っている秘話や資料など、今後の童謡の研究に欠かせないデータが埋もれていく恐れもあります。
童謡に関する研究、検証は、まだ不明な点や誤りが多いのも事実です。それは、唱歌と童謡の区別がわかりにくいことや、童謡の世界観があまりにも深く、様々な説が流れることにも起因します。このままでは、インターネット主流の現在、間違った情報が氾濫していて、正しい知識を身に着けることは困難です。
また、かつての昭和の戦後期に、「みかんの花咲く丘」や「里の秋」を作曲した童謡作曲家、海沼 實によれば、“童謡は「心のおやつ」”と位置付けられていました。現在、あらゆるモノに満たされた豊かな社会の裏には、最も大切な「心の豊かさ」が置き去りにされているとも感じます。家族や育児におけるトラブル、社会の歪み、そういったニュースが後を絶ちません。今こそ、子どもたちの情操教育や、大人たちの心の拠り所として、童謡文化が見直されるべきだと思います。
2018年には、児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、童謡文化が本格化してから100周年を迎えます。この童謡100周年の節目を逃してしまったら、永遠に正しい童謡文化の検証、そして継承は困難だと断言できます。
私たちは現在望みうる童謡関連の専門家、関係者、有識者の知恵を結集し、童謡の歴史や作品の解釈、正しい知識を研究し、「童謡の心」を世に残していくために、日本童謡学会を設立いたします。童謡学会を設立して童謡を普及・発展することにより、三つの効果が期待できます。
第一に、世代を超えた「コミュニケーションの活性化」です。童謡は、子どもから大人まで、世代を超えてみんなで歌える歌です。家庭で、行事で、趣味で、世代に関わらず童謡を歌う機会が増え、それは世代をつなぐ架け橋としての役割になります。かつての大衆文化の時代と違い、趣味が多様化している現代では、みんなでわかり合える文化は多くありません。その点、童謡は気軽に口ずさむだけでも良いのです。
次に、「童謡を題材にした地域創生」です。童謡の舞台となった地域や、作詞家・作曲家の軌跡は、全国各地に点在します。歌碑や記念館も多数ありますが、残念ながら、注目されるに至っていません。その地域・風土から生まれた童謡を、まずは地元で分かち合い、そしてその輪を全国に広げていく。日本童謡学会の研究は、地域創生に大きく貢献します。
最後に、この日本特有の童謡文化は、海外でも高い評価を受けており、「国際文化交流に活用」できます。日本の童謡文化は、当時一流の作家、音楽家たちが子どものために愛情を注いで芸術性の高い作品群を作り上げ、海外の童謡と比較しても、多彩な魅力を持っています。
日本を代表する文化である童謡を世界に発信し、世界各地の童謡にも親しむことで、価値ある国際文化交流につながります。
このように、童謡は、人、地域、世界をつなぐ日本文化として、次世代に歌い継いでいくことが私たちの使命だと考えます。
2018年7月1日
- 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/03(Wed) 19:04
- 童謡、好きです。心が清らかに洗われるようで。
なのに、この頃、学校でも習うものが減っているのでは…
流行りに合わせるだけでなく、こういう、美しい心のあり方を感じる歌を伝えて続けてほしいです。
- 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/03(Wed) 20:14
- 日本の歌こころの歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50
- 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/03(Wed) 20:25
- ☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
- 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/05(Fri) 16:00
- 寺山修司編「日本童謡集」(光文社1972)という本があって、その前書きには、『優れた「童謡」というものは、長い人生に二度あらわれる、一度目は子供時代の歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。』・・と。そして、『映画に主題歌があるように、人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。そして、それを思い出して唄ってみるときに、人はいつでも原点に立ち戻り、人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。』・・として、広い分野の歌を集めてあるのが特徴。
そして、『赤い靴』『青い眼の人形』から 、古賀メロデー『影を慕いて』『人生の並木路』・・など優れた童謡としてあげられているのが特長。
- 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/06(Sat) 21:46
- 日本童謡協会や、中田喜直らの言うところの「童謡」とは戦後、NHKラジオで放送された「新しいこどもの歌」というもので、
いわゆる『童謡』とは似て非なるものでした。
- 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/06(Sat) 21:54
- 昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。
しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。
子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/06(Sat) 22:00
- 「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは。
、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。
当時は童謡黄金時代であったがこれはレコードであなくラジオである。
磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、
昭和三十年「ろばの会」を作って、(レコードでなく)新しいラジオ番組「歌のおばさん」で
「あたらしいこどものうた」をつくろうとした。
そしてこれまでの(レコード)「童謡」の「排斥運動」を展開したのだ。
自らと競合する『童謡』を排斥したのだ。(「童謡排斥運動」という。)
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/06(Sat) 22:09
- 「ぞうさん」「サッちゃん」「おなかのへるうた」。。こうしたたあいないへんな歌は童謡黄金時代、「童謡」に対抗して、昭和30年に作られた「ロバの会」による「新しいこどものうた」というものです。対象就学期前の幼児でした。
そしてなんと、「童謡排斥運動」を起こしたのです。「ロバの会」自体が童謡排斥のためで、5人の若手二世音楽家によって作られたものでした。
「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。
名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。
童謡を歌っている児童合唱団なども見向きもしていない。
- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/06(Sat) 22:16
- 童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。
動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。
日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。
従って『童謡協会』に童謡を語る資格は無い。
また『童謡協会』は、『童謡』には関心がなさそうだ。
童謡を語れる人材も入っていないし、童謡を実際歌っている児童合唱団も見向きもしない。
- 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/09(Tue) 00:17
- 生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。
主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。
信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/09(Tue) 19:54
- シャボンだま
作詞 野口雨情
作曲 中山晋平
一
シャボンだま とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた
シャボンだま きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた
かぜ かぜ ふくな
シャボンだま とばそ
二
シャボンだま とんだ
やねより たかく
ふわり ふわり
つづいて とんだ
シャボンだま いいな
おそらに あがる
さがって いって
かえってこない
ふわり ふわり
シャボンだま とんだ
三
シャボンだま とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた
シャボンだま きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた
かぜ かぜ ふくな
シャボンだま とばそ
- 18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/13(Sat) 09:44
- ※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。
CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。
・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536
- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:15
- 日本の童謡と日本童謡学会の創設
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561982228&ls=50
- 20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:34
- 十五夜お月さん
作詞:野口雨情
作曲:本居長世
1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました
2 十五夜お月さん 妹は
田舎へ 貰(も)られてゆきました
3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
も一度 わたしは逢いたいな
大正9年(1920)9月号仏教系児童文学誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に発表されました。
一家離散の憂き目にあった女の子の月に寄せる悲しみ。
- 21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:38
- 真の童謡その背景には人がいる、人の想いが隠れている。
そして人の深い情愛が込められている。
童謡は第一級の詩人‥文学者や作曲家の想いが込められた、
日本の優れた文化遺産です。
童謡を排斥して新たに作られた日本童謡協会や、中田喜直らの言うところの「童謡」とは戦後、NHKラジオで放送された「新しいこどもの歌」というもので、
こうしたいわゆる『童謡』とは似て非なるものでした。
- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 19:31
- ☆昭和歌謡が好きな人集まれ!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/24(Fri) 22:04
- 昭和戦前・戦後のレコード(SPレコード)をかけてほしい。
古賀メロディーがいい。
- 24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/30(Mon) 21:14
- 天気予報では、うっとうしいとか言うが、日本の雨って癒しでもあり、雨に
ついての名曲も多い。
雨 (詞:北原白秋;曲:弘田龍太郎)
♪雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘はなし・・
アメフリ (詞:北原白秋;曲:中山晋平)
♪アメアメ フレフレ カアサンガ ジャノメ デ オムカイ ウレシイナ・・
雨降りお月(詞:野口雨情;曲:中山晋平)
♪雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく・・
城ヶ島の雨 (詞:北原白秋;曲:梁田 貞)
♪雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる・・
雨のつく歌は多分他にもたくさんあるはずだが、これらはあまりに有名な
日本のスタンダードといえる。
- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 09:31
- 「童謡」を排斥して新たに作られた」「日本童謡協会」や、中田喜直らの言うところの「童謡」とは戦後、NHKラジオで放送された「新しいこどもの歌」というもので、
こうしたいわゆる『童謡』とは似て非なるものでした。
今も,童謡協会の実態は、ほとんど聞いたこともない作曲家の集まり、活動実態も乏しい。会員を守る、会員のための「職能団体」でしかない。
- 26 名前:童謡ヲタ 投稿日:2020/04/01(Wed) 21:13
- 中田喜直や童謡協会の歴史的悪行を、ここまで詳しい人、初めて!
何か参考になる書籍とかありますか?
- 27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 22:29
- >>26
童謡オタさん
こんばんは
童謡の歴史に残る汚点 昭和30年、ろばの会による童謡排斥運動。戦後30年代は戦後童謡黄金時代でした。
沢山の。名童謡歌手がレコードで歌いました。
まだ日本が草深く貧しかった戦後の混乱の中でも童謡は黄金時代で、人々の心をいやしました。
さっちゃんだとか、ラジオで「新しい子供の歌」さっちゃんだとか、やっていた若手作曲家が童謡排斥運動をおこしました。
対象は「音羽ゆりかご会」、その代表作曲家海沼實をターゲットとしたもので、音羽ゆりかご会のHPに簡単だが、「童謡を排斥をする運動」と記述が残っています。
、最後の童謡作曲家と言われた海沼實は、排斥した童謡の名をとって童謡協会が作られ、失意に脳梗塞を起こし亡くなります。
現在、童謡協会はほとんど活動もなく、ほとんど誰も知らないような詩人・作曲家の会員の職能団体に成り下がってしまっています。
これが、童謡学会が作られた理由だと思いますが、これによって終焉を迎えた童謡の復活は。
「童謡の聖人・中田喜直」などと言われながら、自らのために、童謡を排斥、終焉を意図した悪行は長く童謡を愛する人の中に記憶されなければなりません。
、
■戦中戦後における「童謡」について、はここの以下を参照ください。
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史 10CHBBS ここ
サトウハチローと童謡・ろばの会による童謡排斥運動と童謡の終焉
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
>>161-163
>>235-242
>>450-476
音羽ゆりかご会HP
・・こうして童謡の黄金期を創生した海沼でしたが、昭和46年には多忙による不規則な生活から心筋梗塞を発症して急逝。折しも同時期「新しい子どものうた」という新ジャンルを確立し、古き良き 童謡を排斥する運動を始めた若手作曲家達を尻目に、時勢を見た
海沼の妻・須摩子は「アニメソング」の世界に活路を求めます。
(音羽ゆりかご会の歴史 (抜粋))
h ttp://0108.tv/history
童謡の聖人・中田喜直
awabi.2ch.sc/test/read.cgi/doyo/1173482862/l50
、
- 28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 22:37
- ☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史 10CHBBS ここ
サトウハチローと童謡・ろばの会による童謡排斥運動と童謡の終焉
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- 29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 23:03
- 参考
ろばの会(ろばのかい)は、1955年に、磯部俶による提案を受けた中田喜直を中心に、宇賀神光利、中田一次、大中恩の合わせて5人の作曲家たちが[1][2][3]、「こどものうた」の創作を目指して結成したグループ[4]。結成当時、メンバーはいずれも30代の若手作曲家であり[5]、彼らは、「子供たちのために、いい詩と、いい音楽を」、「頼まれて作曲するのではなく、自分たちで納得のいく音楽を」をモットーに掲げていた[2]。
作曲のために詩を提供した詩人には、サトウハチロー、小林純一、まど・みちお[6]、佐藤義美[7]や、大中の従弟であった阪田寛夫[3][8]らがいた。詩人たちから提供された詩を5人で合議し、希望者が曲を付けるという形で作曲がおこなわれ、時には一つの詩に複数人が曲を付けて、いずれが優れているかと議論を重ねることもあったという[6][7]。
この会の活動を通して、「サッちゃん」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)、「犬のおまわりさん」(佐藤義美 作詞、大中恩 作曲)、「ちいさい秋みつけた」(サトウハチロー 作詞、中田喜直 作曲)、「おなかのへるうた」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)[2]、「ドロップスのうた」(まど・みちお 作詞、大中恩 作曲)[9]をはじめ、多数の楽曲が創作され、広く親しまれた[2]。当時、キング・レコードの童謡担当ディレクターだった長田暁二は、ろばの会が生み出した作品のレコード化を積極的に進めた[10]。レコードの他にも、会として新作を中心としたコンサートを開催したり、楽譜集を出版することがあった[1]。
1978年には、楽曲集『ろばの会のうた』(音楽之友社)の刊行と、これに関連する演奏会とレコードの発表に対し、第8回日本童謡賞が授与された[11]。
ろばの会は、2000年3月に解散コンサートをおこない、中田喜直は同年5月3日に死去した[2]。その後、中田を偲ぶ「水芭蕉コンサート」が毎年5月に開かれるようになったが、2015年の「水芭蕉コンサート」は、<「ろばの会」結成60周年>と銘打っておこなわれた[2]。
- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 23:33
- 参考
中田喜直
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/中田喜直
ジャンル 新しい子どもの歌
職業 作曲家、社会運動家
中田 喜直(なかだ よしなお、1923年(大正12年)8月1日 - 2000年(平成12年)5月3日)は、日本の作曲家、社会運動家。
2.2 活動など
東京府豊多摩郡(後の東京市、現在の東京都渋谷区)出身。『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』、『夏の思い出』など数々の楽曲を作曲した日本の職業作曲家の一人である。
父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男であり、兄は作曲家・ファゴット奏者の中田一次である。妻の中田幸子は、音楽出版ハピーエコーの代表であり、喜直の作品を多数出版している。
年譜[編集]
1923年 東京府(現・東京都)生まれ。
1943年 東京音楽学校(現在の東京芸術大学)卒業。
1979年?年 社団法人日本童謡協会会長。
1986年 11月紫綬褒章受章。
1995年 NHK放送文化賞受賞。
1999年 日本音楽著作権協会60周年特別賞受賞。
2000年 第42回日本レコード大賞日本作曲家協会功労賞受賞。5月3日、直腸癌のため死去。76歳没。
活動など[編集]
1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。1969年に設立された日本童謡協会がサトウハチローによって派閥分裂すると、のちに会長となって童謡を排斥。対立ジャンルとして立ち上げた「新しい子どもの歌」を推して、最盛期にあった童謡を衰退に導いた。
- 31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 23:35
- 1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。1969年に設立された日本童謡協会がサトウハチローによって派閥分裂すると、のちに会長となって童謡を排斥。対立ジャンルとして立ち上げた「新しい子どもの歌」を推して、最盛期にあった童謡を衰退に導いた。
- 32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 23:50
-
61.童謡の聖人・中田喜直
h ttps://2ch.vet/re_awabi_doyo_1173482862_a_0
>100−116
- 33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 23:52
- 1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。1969年に設立された日本童謡協会がサトウハチローによって派閥分裂すると、のちに会長となって童謡を排斥。対立ジャンルとして立ち上げた「新しい子どもの歌」を推して、最盛期にあった童謡を衰退に導いた。
- 34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 00:02
- 「ろばの会」の結成
大中恩というと童謡のイメージが強いかも知れませんが、東京音楽学校を卒業してしばらくは、歌曲や合唱曲が中心で、子ども向けの歌なんて作ったことがありませんでした。30歳を過ぎた頃でしょうか、学級が2つ上だった作曲家の中田喜直さんらが中心となって、童謡に新しい風を吹かせることを目的に「ろばの会」という作曲家の集まりを結成しました。当時の童謡の歌詩は、父親や母親を「お父様、お母様」と表現するなど、あまり子どもに向けられたものではありませんでした。そこで、「おやじ、おふくろ」だとか、遊び心があって、子どもたちに受け入れられやすい歌詩の童謡をつくっていきたいということで、詩人に呼びかけるために作られたのです。
中田喜直さんから「子どもの歌をつくらないか」と誘っていただいて、面白そうだと思ったのですぐに参加することを決めました。メンバーは、私のほかに中田喜直さん、宇賀神光利さん、磯部俶さん、中田一次さんがいらっしゃいました。僕と童謡との出会いは、「ろばの会」になりますね。
「サッちゃん」のモデルはチンパンジー?
1949年から、NHKラジオで子ども向け音楽番組「うたのおばさん」が放送されていました。その番組の放送10周年を記念して、番組で歌っていた松田トシさんのリサイタルが開かれることとなりました。その時に、「ろばの会」の5人のメンバーから、それぞれ2曲ずつ童謡を贈ったのです。僕が贈ったうちの1曲が、「サッちゃん」でした。
「サッちゃん」は僕から阪田に作詩を依頼しました。他の方と童謡をつくるときは事前に「こういう子ども心の詩をつくってよ」などと依頼するのですが、このときは阪田に何の注文もつけませんでした。彼の書いた詩を見てすぐにイメージが湧き、あまり深く考えることなく曲が出来上がりましたね。「サッちゃんはこういう性格だったのかな」なんて一生懸命考えていたら、あの曲は生まれてこなかったかも知れません。
阪田に“サッちゃん”のモデルについて聞いたことがあるのですが、彼は「大阪の天王寺動物園のチンパンジーの名前だよ」と言っていました(笑)。後に、彼の幼稚園の二級くらい上のお嬢さんが本当のモデルだったことがわかりました。モデルの方は、「先生のイメージを壊してはいけないから」と、僕とは絶対にお会いになりたくないそうです。
長すぎた「いぬのおまわりさん」
1960年のことです。「チャイルドブック」という子ども向けの絵本雑誌を出版する出版社から、「いぬのおまわりさん」の歌詩が送られてきて、曲を付けてほしいと頼まれました。しかし、最初はその話を断ったんです。「迷子の迷子の子猫ちゃん あなたのおうちは・・・」「にゃんにゃんにゃにゃん・・・」長いでしょう?子どもたちには長すぎて受け入れられない歌詩だと思ったのですが、何度も頼み込まれたこともあり結局曲を書くことにしました。
断らなくて本当に良かったと思っています。このことを「ろばの会」の中田喜直さんに話すと、「また君はそうやって音楽をお金の話にする」と怒られました。冗談で「中田さんはいくつもヒットした曲があるから良いじゃないですか、僕は1曲しかないんですよ」と言って笑うと、「自分の作品をお金に結び付けて笑って誤魔化すのはだめだよ」なんてまた怒られてしまいましたね(笑)。
でも、今改めて見ると、やっぱり「いぬのおまわりさん」は歌詩が長いですよね。どれだけ歌詩が長くても、良い作品に仕上がると子どもはちゃんと覚えてくれるものなのですね(笑)。
大仲恩
h ttps://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_37/inner2.htm
「サッちゃん」のモデルはチンパンジー?・・だって!!??
「あたらしい子供の歌」って「人」がいないんだ!!
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 00:10
- ☆サトウハチローと「童謡」・・ 童謡排斥運動とサトウハチロー
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。
戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この、90年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。
- 36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 11:47
- ☆日本の童謡と日本童謡学会の創設
http//:www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561982228&ls=50
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 11:50
- 童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50
- 38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 19:21
- 「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
東京カルチャーセンター JDMA会員
SPオリジナル盤
「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
本居みどり、平井英子、本多信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
図書館等で、、カセットもあり
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 21:21
- あした
作詞:清水 かつら、 作曲: 弘田 龍太郎
お母さま
泣かずにねんね いたしましょう
赤いお船で 父さまの
かえるあひたを たのしみに
お母さま
泣かずにねんね いたしましょう
あしたの朝は 浜に出て
かえるお船を 待ちましょう
お母さま
泣かずにねんね いたしましょう
赤いお船の おみやげは
あの父さまの わらい顔
- 40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/05(Wed) 22:51
- >>24
童謡歌手川田孝子の「叱られて」や「雨」「あした」絶品!
今の若手クラッシック歌手でもこれほどまでに歌えるものは知らない。
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