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ラジオ放送について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:24
ラジオ放送について、番組や放送について、
取り上げてほしいことや、やめてほしいこと、その他なんでも
どうぞ!!。

2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:26
昭和は60年を超える世界で一番長い年号。まだ日本が貧しかった、貧しくも心豊かだった時代。まだテレビもなく、どんな小さな街にも小さな映画館があったころ、日本映画黄金時代、昭和戦前の「古賀メロディ」などSP昭和歌謡番組をぜひ期待。
いまの下手な歌手ではなくて、当時のオリジナルレコードをつかってお願いします。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:33
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.


4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:37
「ラジオ深夜便」を夜10時台にしてほしい。

5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 15:40
(参考)

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 21:50
声楽の基礎の無い歌手が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌うと思わず耳を覆いたくなる、
これは私だけだろうか。


中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌っても耳を覆いたくなるぜ
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。あほかと。


7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 00:10
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 10:13
【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50

今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。

楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。

この日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/20(Mon) 20:04
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。



10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/21(Tue) 16:40
ラジオ放送について
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=581053040&ls=50


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:10
ドラマネタバレ 2020.4.25―NHK連続テレビ小説―「エール」
h tps://dorama-netabare.com/archives/77362
交響曲竹取物語は実話で楽譜や音源は?、国際作曲コンクールは実在?

今回は朝ドラ「エール」で登場する「国際作曲コンクール」と受賞した交響曲「竹取物語」は実話なのか?調べてみました。「エール」に出てくる国際作曲コンクールは実在するのでしょうか?

また、「国際作曲コンクール」の交響曲「竹取物語」の受賞がきっかけで文通がスタートというのは事実なんでしょうか?
「エール」の原作の「国際作曲コンクールに」の交響曲「竹取物語」に関するネタバレも紹介しています。また楽譜や音源があるのか?気になっている人が多いので、調べてみました!
0204/25
2020.04.17 2020.04.25
________________________________________
「エール(えーる)」は作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)さんと、奥様の金子(きんこ)さんご夫婦をモデルにした朝ドラです。
古関裕而さんをモデルにした古山裕一(こやまゆういち)を窪田正孝(くぼたまさたか)さん、そして金子さんをモデルにした音(おと)は二階堂ふみ(にかいどうふみ)さんが演じています。
今回は朝ドラ「エール」で登場する「国際作曲コンクール」と受賞した交響曲「竹取物語」は実話なのか?調べてみました。「エール」に出てくる国際作曲コンクールは実在するのでしょうか?。

ツイッターでも反響!楽譜と音源がないのが残念の声との声

「エール」の原作の「国際作曲コンクールに」の交響曲「竹取物語」に関するネタバレも紹介しています。また楽譜や音源があるのか?気になっている人が多いので、調べてみました!
その雑誌には「国際作曲コンクール」のことが掲載されていました。
裕一はその国際作曲コンクールに向け交響曲の作曲に挑戦。
苦悩しながら作ったその交響曲「竹取物語」が、なんと「国際作曲コンクール」で入賞しました♪
「国際作曲コンクール」のニュースを新聞で知った音(二階堂ふみ)。しかも縁がある「竹取物語」です。
さっそく熱烈なファンレターを送り、返事が来るのを毎日楽しみに待ちます。
裕一も音に手紙を送り、ふたりは文通をスタートさせるようになりました。
という展開になります。



12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:17
予告のあらすじではまだ「国際作曲コンクール」としか出ていません。
ではこの「国際作曲コンクール」とは実際に古関裕而さんが入賞したコンクールなのでしょうか?
竹取物語の受賞は実話?楽譜や音源は実在する?

このコンクールは、イギリスにあるチェスター楽譜出版社募集の世界的な作曲コンクール。
このコンクールには舞踏組曲「竹取物語」など5曲を応募されました。
そのすべてが2位に入賞。国際的な作曲コンクールで日本人初となる快挙でした。
しかも当時無名だった古関裕而さん。無名の青年の快挙ということで、新聞にも大々的に報じられたそうです。
この入賞により音楽家への道を進みだすことになります。

ちなみに気になるのが「竹取物語」の楽譜。見てみたいですよね?

ドラマネタバレ」 2020.4.25
h tps://dorama-netabare.com/archives/77362

古関さんは、複数の交響曲やピアノ協奏曲・交響詩「ダイナミック・モーター」や弦楽四重奏曲など、多くの作品群を完成させていました。

それらの楽譜は現在は、ほぼ行方不明とのこと。残念ながら「竹取物語」も行方不明になってしまっているということです。

そして現在では音源も残ってないということです。

当時、グーセンス指揮で英コロンビア・レコードによる録音が予定されましたが、古関裕而の渡英断念により立ち消えとなりました。今日、チェスター楽譜出版社は現存せず、楽譜の行方も不明のままとなっているのは残念です。


エール交響曲「竹取物語」にツイッター反響!楽譜と音源がないのが残念の声
エールで「竹取物語」の世界的コンクールに、ピアノがない主人公の古山裕一が受賞!しかも、実話!?ということでツイッターで大反響でした。
1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家で

NHKは、不明な点が多いとされる「チェスター楽譜出版社」について、以前ロンドンに調査チームを送り込んで本格的調査を行ってNHK番組で放送した。
しかし、結論は、「チェスター楽譜出版社」については詳細に調査するも、現存せず、しかも会社について、どのようなものであったかなど、存在と結び付ける確たる情報は得られなかったという。
幻以上のものでないデリケートな存在なのだ。

(参考)
・古関裕而こそ努力の天才 渡部亮次郎 2009.08.28 Friday name : Jeo
  tp://kajikablog.jugem.jp/?eid=983830
・ドラマネタバレ 2020.4.25―NHK連続テレビ小説―
 響曲竹取物語は実話で楽譜や音源は?、国際作曲コンクールは実在?
  tps://dorama-netabare.com/archives/77362





13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:29
・古関裕而こそ努力の天才 渡部亮次郎 2009.08.28 Friday name : Jeo
ttp://kajikablog.jugem.jp/?eid=983830
コメント付き
・ドラマネタバレ 2020.4.25―NHK連続テレビ小説―
交響曲竹取物語は実話で楽譜や音源は?、国際作曲コンクールは実在?
ttps://dorama-netabare.com/archives/77362



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:37
日本の本格的「レコード歌謡」は、昭和3年(1928)、佐藤千夜子の歌った「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、ビクター)にはじまった。

洋楽に属するクラッシック音楽を基調としたものだが、歌うことを目的とした点で、詩を持つ点で、演奏を目的とした協奏曲、組曲等クラッシック曲と決定的に違う。

「レコード歌謡」が、これまでの、純粋のクラッシック音楽と違うのは、作詞家・詩人、それに歌手の存在である。

最終的には文芸部が指揮をとるのだが、「作曲家」の腕の見せ所でもある。

「三分間の芸術」と言って、三分という短い時間で聴く人に訴えかける新たな大衆音楽芸術、それが「レコード歌謡」(流行歌)というもの。

当初、ビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、古賀メロディの登場によって、コロムビアに移る。

この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たしたのが古賀政男(古賀正男)。

当初、作曲家であることに自信が無かった古賀が、まもなく「古賀メロディ」で決定的な影響を及ぼす一人の詩人と出会う。

詩人の名は佐藤惣之助、昭和7年の事だった。

古賀の自伝には「三人の詩人」として、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローの名を上げている。

古賀の自伝には、「私が、《作曲の醍醐味》を知るのは惣之助さんと出会ってからである。」とある。佐藤惣之助とのコンビでたくさんの名曲が生まれる。

昭和8年(1933)には、「ビクター専属」の西條八十と、「コロムビア専属」の古賀政男との間で、専属を超えた二巨匠の歴史的交流が始まる。詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。

「サーカスの唄」は、この時の作品。こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができたという。

歌手や他の作曲家などから、いつも「古賀先生」と呼ばれていた古賀が,終生《先生》とよんだ詩人。西條八十と古賀政男の黄金コンビは戦後、八十の亡くなる昭和40年代まで続いた。

また、詩人・サトウハチローとのコンビも、『恋は荷物と同じよ』の、日本最初のミュージカル映画「うら街の交響楽」(1935日活、第1回「全日本映画コンクール」受賞作)から始まる。

こうして古賀は三人の詩人との関係も、古関がヒットがでなく悶もんとしていた昭和一桁代にも作り上げてゆく。

古賀は「詩はお姉さん、曲は弟」と、詩を大切にした事で有名、圧倒的に多くのヒットの多い古賀メロディの秘密である。

古関氏と対照的に、昭和の初めから戦中、戦後を通じて、数え切れないほど圧倒的多くのヒット作品を持つ古賀政男。
そのほとんど、多くが「映画主題歌」でもある。(後から映画が作られたのもある。)

実は、「古賀メロディ」には沢山の「映画主題歌」があって、「想い出多き女」(酒は涙か溜息か、昭和6年)など、無声映画の時代から戦後まで途切れることなく、数え切れないほど多くある。

そして、映画主題歌等の多くは、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなどによって書かれた。

まだテレビもなく、映画とラジオ位しか無かった時代、日本が未だ貧しかったその時代は、日本映画黄金時代だった。

《東京ラプソディ》も、《緑の地平線》、《女の階級》、《人生の並木路》(日活「検事とその妹」)も《目ン無い千鳥》(日活[新妻鏡])などみんな映画主題歌。

「古賀メロディ」というのは、映画を離れて、その独立した一曲にも値するような前奏・間奏・後奏。

その三分間のドラマの中に、聞く人を引き込み、それぞれの人生を重ね合わせる事が出来るのはすばらしいことではないでしょうか。

昭和3年、人生の苦悩から始まった「古賀メロディ」、「古賀メロディ」には人生・青春を歌ったものが多い。特に、「影を慕いて」「人生の並木路」など人生の、青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

人生を真面目に生き、作曲にも真面目に取り組んだ、それが「人生の並木路」などにもみられる。

それが同時代の、聞く人の日本人の「心の琴線」に触れ共感を与えた。

何と言っても昭和の歌謡史に今も残る三人の詩人をはじめとした多くの詩人・作詞家との交流。

東京音楽学校首席卒業の藤山一郎、関種子(昭和6年〜)をはじめとして、淡谷のり子、霧島昇、楠木繁夫、松平晃、ミス・コロムビア、ディックミネなど沢山の歌手とその育成・・



15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:47
人生の苦悩から始まった古賀メロディ、一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指した古関・・。

そして何と言っても、残念なのは断片的で、一貫したテーマというのが見えてこないこと!!。

古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」」(「クラッシックの香り」)・・大切なことは香りではない。因みに「クラッシックの香り」といえばトイレの芳香剤を意味する・・という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、・・はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 22:56
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。

古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。

コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。

苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。

古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。

古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。

それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。

古賀政男はコロムビアからから新興テイチクへ移った、専務取締役として。文芸部長兼、プロヂューサー兼作曲家として、そして第二次黄金時代を築く。

古関にはとてもできない芸当だった。

古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。

作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けた多くの人に歌われ、知られたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。

コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかったのだ。


17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 23:06
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した?古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと・・と思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

彼には思いこみがいっぱいあったようなのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるもの・・でなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえることになるのだ。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。

そのことを教えてくれる。

作曲数5000曲というのはl古賀のことで、それは置いとくとしても、彼の多くの人に知られた曲は数えるほどしかないのが実態!。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 23:34
本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 23:59
作曲家、中山晋平は、1887年(明治20年)長野県日野村(現在の中野市)の農家に四男として生まれました。県庁に勤めていた父親が死んだため、一家は厳しい生活を強いられることになりました。高等小学校を辞めることになった晋平少年は、呉服屋に丁稚奉公するものの、寂しさに耐え切れず逃げ帰ってしまいます。その後、なんとか高等小学校を卒業した彼は16歳になると代用教員として働き始めました。もしかすると、彼はそのまま田舎の教員として一生を終えていたかもしれません。しかし、運命は彼にチャンスを与えます。
 1905年(明治38年)、早稲田大教授島村抱月の実弟夫人から、抱月氏が書生を求めているという連絡をもらい、彼はまよわず東京へと旅立ちました。牛込原町の抱月宅に住み込み、書生となった彼はそこで原稿の浄書や家事手伝いをし始めますが、同時に東京音楽学校(現東京芸術大学)にも通い始めます。その学校で、小学校の音楽教師になるためピアノ科に進んだ彼は借金をして中古のオルガンを買い、島村家の玄関脇で練習開始。ところが、あまりに不器用でピアノを弾くよりも、作曲家になる方が良いと教師に薦められたといいます。

東京音楽学校は当時良家の子女が多かったなかで、貧しい農家生まれの晋平は、靴も買えず、一人だけ足袋で和服姿で登校した。
師の本居長世は彼の足袋の破れた指先にいつも墨を塗っている姿に理解を示し。黙って見守ったという。

彼、中山晋平の目指したもの。彼の偉大なところ、それは自らが作曲家として賞をもらうとかではなかった。
彼の目指したもの、彼のテーマとしたもの、それは「誰でも歌える歌ずくり」だった。

彼の歌・・、いわゆるヨナ抜き単音階・・は、自ら「晋平節」とよんだ。

「晋平節」は、昭和の初めいわゆる「古賀メロディ」にとってかわられるのだが、古賀の作品集に寄せた序文で、「平易性」として称賛したのだった。




20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 00:11
晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

【古賀 “メロディ” 】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平 “節” 】に対する言葉である。(上山恵三)

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 00:38
晋平節を世に広めた歌手、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、平成元年、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)



22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 00:49
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 00:59
>古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

こういうことは、古賀政男だからできること!・・

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 19:19
>>17
>作曲数5000曲というのはl古賀のことで、それは置いとくとしても、彼の多くの人に知られた曲は数えるほどしかないのが実態!。

☆戦前の流行歌〈1928−1943〉

 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 19:45
<「古賀政男」の出てくるドラマ>

昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平   
昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)
昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十) 
NTVテレビ
平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京
平成5年 西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男  NHK   1993年2月4日
「駿台音楽院」で教えていました。
そして最も多感な7歳から17歳まで朝鮮で過ごした。この10年間の生活・・実は筆舌に尽くしがたいものだった・・がその後の古賀メロディに大きな影響を与えたといわれる。

参考までにこうしたテレビ、ラジオドラマ等は、NHKは、埼玉・川口のスキップシテイー
や、東京港区愛宕のNHK放送博物館や各県のNHK放送局で見れる。

民放等は、横浜の情報文化センター・放送ライブラリで見れる。多彩なコースでご要望に合わせたレッスンが可能で以下NHKは横浜の情報文化センター・放送ライブラリでみれます。
・NHK 幾山河は越えたれど・昭和のこころ・古賀政男(1979.04.14)
・テレビ大阪 古賀政男物語  1992.03.03
・ NHK 連続テレビ小説[いちばん星] 第一回目(1977.04.04)




26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 19:52
NHK連続テレビ小説「いちばん星」は、川口のNHKアーカイブス、NHK放送博物館、NHK各放送局でみれます。
    (最初と最後と途中いくつか。)
・NHK HPによると、NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)
西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男        1993年2月4日
この人と語ろう                 1977年11月21日
あの人あの芸 古賀政男             1997年5月5日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編 2002年12月29日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 後編 2002年12月30日
NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日 

・NHK連続テレビ小説「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 20:16
NHKアーカイブス NHK放送史
ドラマ 幾山河は越えたれど−昭和のこころ・古賀政男
h ttps://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040166_00000
?放送期間:1979年
?この動画・静止画の放送年:1979年

詳細
脚本:早坂暁、たなべまもる/演出:岡崎栄/出演:渥美清、水谷良重、藤山一郎、ハナ肇、美空ひばり/NHK初の3時間ドキュメンタリードラマ。
渥美清がリポーターと古賀政男の二役を演じ、古賀政男の半生を紹介する。



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 21:02
>>24
「詩はお姉さん、曲は弟」と,詩を大切にし、自らも詩を作る古賀政男と違って、古関裕而は詩にあまり関心がないようで、
詩に曲をつけるのはあまり得意ではないようだ。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/01(Fri) 21:13
『六甲颪』(ろっこうおろし)(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。


戦前から歌われたかのように思ってしまうが間違い。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。
 そもそも、
1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』改題は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』 朝日放送アナウンサー



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/01(Fri) 22:14
今度の朝ドラ「エール」というのは、震災後の福島県へのエールという意味だそうで、
だいぶ働きかけをしたようだが軽い。

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 14:57
この話は、クラッシックと「クラッシック紛い」・・クラッシックの香り?・の違いに気ずかず、
交響楽の権威の作曲家に見透かされ、クラッシックの作曲家になる野望が
挫かれてしまったということで、あまりたいした話ではないのだが、その話を話題にしたら、とてもいい話なのだが、おしまいになってしまう話!。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 16:43
信州、中野出身の中山晋平は、東京中野に居を構えていた。(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館はこれをそのまま移築したもの。
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海、西山町の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海〕、その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の「節」(「晋平節」)にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正から昭和の初めにかけて活躍した晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

当時、まだラジオもレコード歌謡もなく、誰でも歌える歌がなかったのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれ自らそう評していた。

この時、別荘を建てた時、作曲に使うピアノも一緒に送ってしまったのだ。

「古賀メロディ」が怒涛の如く大衆の中に受け入れられていく中で、昭和8年の「東京音頭」、9年の童謡「皇太子様お生まれなった」(北原白秋作詞)を最後に、晋平は戦後までほぼ虚ろな毎日を送る。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。


昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、その28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 19:50
>>28-32

NHKTV連続テレビドラマ「エール」とは古関裕而とその妻,金子(きんこ)のことだが、実際は震災の福島へのエールを目的にとして、福島県や金子の豊橋の強い請願があったようだ。「竹取」とか豊橋の手筒花火の紹介もしていた。
昭和53年の「いちばん星」は、日本におけるレコード歌手第一号・佐藤千夜子の半生をを描いたもので、歴史的、社会的、文化的にもそれなりの大きな価値と意義がある。

一方、この「エール」は、どうだろうか?。主にスポーツへのエールというが、スポーツという限定されたものにどれだけ意味があるのかを含め、まず「懐メロ」も死語になろうとしているのに、こともあろうに「古関」も、まして、金子(きんこ)といわれても誰も名も知らないし、知ろうともしない名。

知られたヒット曲もないことのほうが問題。

経歴がはっきりしないことも大問題。
これはかってNHKが正式に調査するも存在しないと結論ずけられたものだ。

今コロナで大いそがしいようだが、どこかの国の都知事が経歴詐称で追及されているようだが、一番信頼いそがしいようだがを失墜することで一番困ることだ。

今、ネットでも「竹取」とかに、「なんだ、聞きたいのになにも無いのかよう!?」といった声があがっているようだ。
これは。「山田耕筰」に「反対」された「史実」が逆になっているのをスルーしている、つまり経歴詐称からなのだ。だから、コロムビアヘの「専属」期日もあわない。




34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 20:00
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。
一方、晋平の生き方とも逆に、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、一貫したものが見られないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、この、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実に基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。

間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば福島コンビで、古関の代表曲とされる戦後の、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)など、戦後を含めマイナ−なごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないのに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。

なんでも、?紛い物(似非・エセという)?などはいらない!。

(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。ネットで検索すると消臭剤がでてくるはず!>)

アロマじゃないわけだから「香り」などいらない。

    クラッシックに香りは不要!!。

やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。

古関の評伝に基本的に間違いが多いものが目に付く。

古関は参考にしていた作曲の本のコロムビアの山田耕筰に英国留学を相談するも、
山田に思い留まるよう説諭されたのだが、多くは、このことを知らないか、この部分が削除されているのだ。
コロムビア専属も食い違いがあるのも、このあたりに理由が潜んでいる。

NHKはすでに調査して結論をだしていることは大変重いのだが。

一応、名前も変えてあり事実ではないというのだが。

洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちに求められるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。
真に人の心に届くものがなければ、年月を超えて多くの人に共感を与えることはない。


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 21:20
☆《丘を越えて》と山田耕筰

古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時に、この《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も「明朗性」を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)    
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html



「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。

日本の交響楽の権威だった山田耕筰、古関裕而は、山田耕筰の本を買いあさって勉強し、ロンドン留学について相談したが、ダメだしされた。
山田耕筰とは、さぞ、クラッシック、交響楽に凝り固まったいたのかと思うが、それが本物かどうかはすぐわかる。
山田耕筰は思ったよりバランスの取れた偉大な音楽家であったことがわかる。

なお、音楽を学んだものは、クラッシックの香りがするなどとはいわない。
「平易(大衆)性」とか「明朗性」とか、音楽美学にいう表現を使う。

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 21:36
「丘を越えて」と山田耕作

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品、古賀メロディ。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴  く人の心を捉えて離さない。

『丘を越えて』、歌詞が出てくるまで、沢山の音符で構成された楽譜一枚分の前奏である。ひとの心をとらえないはずがないのだ。

これが当時の主流であった『晋平“節”』と一味違う、新鮮な『古賀“メロディー”』というものかと気ずかなければおかない楽譜である。

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「キャンプ小唄」「丘を越えて」「月の浜辺」「窓に凭れて」などを初め 、童謡など多くの大衆歌謡を手がけた


昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。今でもあちこちで演奏あれ歌われている名曲である。

なお、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。

山田耕作は「明朗性」を表す傑作として高く評価、ヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持ち歩き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。

日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価。

日本における交響楽団の雄たる山田耕筰がその最大の理解者であった事は特質に値する。

専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年(1932)12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。

その前、昭和7年(1932)6月には、古賀政男と山田耕作、二人の作曲家の合作・競作企画、財団法人富民協会の当選歌「農村婦人の唄」の作曲がある。


37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 22:00
☆萩原朔太郎と古賀メロディ

『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎、日本における交響楽の雄、作曲家山田耕筰も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。



38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 07:33
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
角川文庫

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 10:48
『六甲颪』(ろっこうおろし)(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。


戦前から歌われたかのように思ってしまうが間違いで、一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、。

昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 19:03
★♪ 第4回ダブルレインボー音楽会 ♪
ttp://www.jrps.org/chiba/local/kaiho1/chiba53-1.html
ttp://www.jrps.org/chiba/local/kaiho1/chiba53-1.html

2.山本 英子  歌唱
   「千曲川旅情の歌」(広田 龍太郎作曲)
   ピアノ伴奏 宇佐見 幸子
4.宇佐見 幸子  ピアノ演奏
   「春の歌」(メンデルスゾーン作曲)
   「ワルツ 69の1」(ショパン作曲)
5.伊藤 勲  ギター演奏
   「荒城の月変奏曲」(瀧 錬太郎作曲)
   「我が心のアランフェス」(ロドリーゴ作曲)
12.伊藤 和子  琴演奏
   「六段の調べ」(八橋 検校作曲)
   「千鳥の曲」(吉澤 検校作曲)
13.中野 早苗  歌唱
   「影を慕いて」(古賀 政男作曲)
   ギター伴奏 伊藤 勲





41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 19:08

山田耕筰は、「日本の代表的な歌」として、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し、外国に自慢していた。


☆農村婦人の唄 山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード 昭和7年
ttp://www.garitto.com/product/14389470
山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌。

桑田登志子作詞 山田耕筰作曲 オリオンコール女声合唱団 0709 COL27067
北部善良作詞  古賀政男作曲 淡谷のり子        0710 COL27067
 



42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 19:32
>>40

<「日本の名曲」影を慕いて >

「影を慕いて」は 『日本の名曲』で、現在でもクラッシックコンサートで演奏されています。


h ttp://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

PROGRAM

1 「春の海」  作曲:宮城道雄(尺八:森川友博、ピアノ:吉野りん子)
Spring Sea music by MIYAGI Michio
syakuhachi:MORIKAWA Tomohiro,piano:YOSHINO Rinko

2 「アランブラ宮殿の思い出」  作曲:F.タレガ(ギター:中子祐二)
Recuerdos de la Alhambra music by Francisco Tárrega (guitar:NAKAKO Yuji)

3 「バルカローレ」  作曲:A.タンスマン(ギター:中子祐二)
Barcarole music by Alexandre Tansman(guitar:NAKAKO Yuji)

4  「影を慕いて」  作曲:古賀 政男(ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAI TE music by KOGA Masao(guitar:NAKAKO Yuji)

5  「ダニー・ボーイ」  作曲:アイルランド民謡
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ギター:中子祐二)
Danny Boy Irish traditional (soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko,guitar:NAKAKO Yuji)

6  「エーデルワイス」  作曲:R.ロジャース 作詞:O. ハマースタイン2世
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ウクレレ:中子祐二)
Edelweiss music by Richard Rodgers & words by Oscar Hammerstein II
(soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko, ukulele :NAKAKO Yuji)

【曲目解説】
4 影を慕いて (ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAITE(guitar:NAKAKO Yuji)
『影を慕いて』 (かげをしたいて) は歌謡曲の一つ。古賀政男作。藤山一郎の歌でヒットした。歌謡曲としては1931年発表。藤山一郎のヒット曲。作曲者古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌の最高傑作である。
この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められており、古賀政男の人生の歌ともいえよう。




43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 20:55
古賀政男自伝「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔の写真が載っています。当時から、分野は違うが、日本のこれらの音楽家と肩を並べる作曲家であり、それなりの交流があったものと思われます。
昭和13年に発売された、古賀の半生の作品集に、萩原朔太郎、佐藤惣之助、三浦環と並んで、中山晋平、小松耕輔らが序文を寄せています。

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/03(Sun) 21:18
>>39

参考

『六甲颪』(ろっこうおろし)     ・・『おはようパーソナリティ中村鋭一です』

>戦前から歌われたかのように思ってしまうが間違いで、一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、。

昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。


阪神タイガースを公然と応援
当番組の放送を始めた頃の朝日放送ラジオのプロ野球中継では、阪神タイガースの公式戦を中心に据えながらも、読売ジャイアンツ(巨人)や関西地方に本拠地を置くパシフィック・リーグの球団(主に近鉄バファローズ)の公式戦も随時放送。放送業界全体でも、「不偏不党」という原則が、スポーツ関連番組の編成や放送にまで徹底されていた。しかし、中村が阪神タイガースの熱烈なファンであることから、当番組では開始当初から阪神を応援する姿勢を明言。阪神がセントラル・リーグの公式戦で勝利した翌日の生放送で、中村が球団歌の『阪神タイガースの歌(六甲おろし)』を熱唱したことをきっかけに、阪神ファンのリスナーから絶大な人気を博した。ラジオ中継の実況を収録した音源から阪神が勝った試合のハイライトシーンを放送したり、阪神が読売ジャイアンツ(巨人)戦に勝利した翌日の放送で軍歌の『凱旋』を歌ったりするなど、応援は次第にヒートアップ。放送開始翌年の1972年に、テイチクレコードから中村の歌唱・朝日ミュージックサービス(現在のAMC)製作で『阪神タイガースの歌』のレコードを発売したところ、関西地方を中心に40万枚を超える売上を記録した。現在一般に広く知られている「六甲おろし」という通称は、このレコードの発表に際して、1番の歌詞の最初のフレーズ(「六甲颪」)を基に中村が考案したとされる。
また、「鋭ちゃんと一緒に阪神を応援しよう」という企画で、3000名のリスナーを阪神の本拠地・阪神甲子園球場に招待。招待したリスナーに小旗やメガホンを無料で配りながらの観戦で、リスナーとの親交を深めた。中村は、後年のインタビューで、「(野球の応援に)集団でメガホンを使うのはあそこ(前述の企画)からやと思います」と述べている[8]。

番組から派生したレコード
阪神タイガースの歌(六甲おろし) / 初恋は星に似て(1972年発売:テイチクレコード A-89)

45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/04(Mon) 23:16
>>34
>>11-13
>>31

(参考)

>>34

>たとえば福島コンビで、古関の代表曲とされる戦後の、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)など、戦後を含めマイナ−なごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないのに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。

なんでも、紛い物(似非・エセという)などはいらない!。


>洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちに求められるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


古関裕而は福島出身だが、福島は東北ということもあるのか、郷土意識が高く、郷土の結束は、信じられない位、強固で緊密なものがあるようなのだ。
今回のNHK『連続テレビ小説 エール』というのも、震災後の郷土福島へのエールの意味が濃く、そのために何があるか探して、古関裕而に白羽がたてられたのだという。

そして豊橋市とともに、NHKに強力に働きかけた結果だそうだ。

因みに、古関裕而と一緒にやってきた福島関係の郷土の人の名を集めると、野村俊夫、菊田一夫、丘灯至夫、伊藤久男・・がでてくる。

古関裕而の歌でクラッシックでもないのに、ことさら「クラッシックの香り」、「クラシック系」などと評されるものが多く違和感を覚える歌の特徴は;

明らかに、誰が見ても一目で「クラッシック」というほどのものではなさそうということは明らかで、歌の作詞家に注目すると特徴がある。「詩人」でなく、「詩人・西条八十」ではなく、どこかの国の総理大臣みたいに、作詞者が福島系「お友達」を集めたようなものと決まっているようだ。これを見ると、ああ、なるほど郷土意識の表れ・・その程度のものかということが分かった‥。どう思いますか!?。

例:

高原列車は行く (丘灯至夫)岡本敦郎歌
ばら咲く小路  (野村俊夫)藤山一郎
雨のオランダ坂 (菊田一夫)渡辺はま子
イヨマンテの夜 (菊田一夫)伊藤久男








46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/04(Mon) 23:40
古関先生は生来の詩人ではなく、古賀政男みたいに詩に曲をつけるのは得意ではなさそうだ。

だから、古賀政男の場合、西条八十作詞のメジャ‐な名曲は余すほどあるが、古関裕而の場合は詩人・西条八十の曲でもメジャ―な曲になってるのが軍歌以外に殆どない。

だから、在郷のでも「お友達」のがいつの間にかクラッシック?になってしまうのだろう。

「影を慕いて」は誰もクラッシックどうのこうのなどと言わないが、あちこちのクラッシックの演奏会で、クラッシックとして演奏され歌われるが、古関さんの「クラッシックの香り」のするそうな曲が演奏されたのは聞かない。

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 00:16
「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。

「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。

その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の3000坪の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。


なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。

しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。

古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。

昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平 “節” 』に対し、『古賀 “メロディー” 』と呼んだのでした。


戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。


「9月18日未明、満州事変勃発」
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。

怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 17:42
☆古賀メロディーを支えた名歌手 (戦前戦後) 27人


■東京音楽学校 (現・東京藝術大学音楽学部) 12人
内主席2名
■東洋音楽学校 (現・東京音楽大学)      6人
            内主席1名
■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)     3人
■帝国音楽学校                 1人
■その他                    5人


49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/07(Thu) 15:44
>>45-46

>1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家で・・

NHKは、この不明な点が多いとされる「チェスター楽譜出版社」について、以前ロンドンに調査団を送り込んで本格的調査を行ってNHKTV番組で詳細に放送した。
しかし、今出ている名前のものを含め詳細に調査するも、結論は、この「チェスター楽譜出版社」については現存せず、しかも会社について、どのようなものであったかなど、存在と結び付ける確たる情報は得られなかったという。

また、都内のある大きなレコード店であるTレコードによっても、同じ結論です。
幻以上のものでないデリケートな存在なのだ。楽譜と音源がないでは話にならないというのが実態のようだ。

NHKも、NHKとして、すでに調査が行われ結論が放送されているものを放送すべきでない。

・・「「エール」第4週の放送では、1929年にイギリスのチェスター楽譜出版社の作曲コンクールにオーケストラ曲《竹取物語》で応募し、見事入賞した場面が描かれました。《竹取物語》が一躍トレンドワードとなったほど反響がありましたが、残念ながらこの作品は楽譜が紛失していて、音源も残されていません。当時、グーセンス指揮で英コロンビア・レコードによる録音が予定されましたが、古関裕而の渡英断念により立ち消えとなりました。今日、チェスター楽譜出版社は現存せず、楽譜の行方も不明のままとなっているのは残念です。」(Tレコード)


50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:13
>>44-47,>>49


h ttp://electronic-journal.seesaa.net/article/23976803.html
情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ830号)2002年03月29日 コメント2011年08月20日 15:03
>古関が、クラシックの作曲から離れた理由に、実家が経済的に破綻して、一族を養わなくてはならず、次第にクラッシックから離れざるをえなくなった・・ともいわれている。

クラシック志望で山田耕作の推薦で待望のコロムビア専属作曲家になったのだが、入社後燃え尽きてしまったのでしょうか。

ものごとは最初が肝心といわれるが、どうしたのか、彼は最初から長い空白を作ってしまったのです。・・

このあたりが本当の古関裕而を知る上、重要かもしれません!。



・・実は、明大マンドリンクラブ出身で、当時のコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある先生の最初のHPに、重要な記述があって、これによると、重大な史実が隠れていて、多くはこれがパスされているようなのだ。

古関は、参考書で勉強した山田耕筰に英国留学をしたい旨相談したのだが、山田はそれほど評価しているわけではなく、現状ではあなたの力では、このクラッシック交響楽の世界で生きていくのは難しい、と
今流にいえば、ダメだしされてしまったということです。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、・・はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月正式にコロムビア専属の辞令を受けるのだが、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。



51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:30
日本における交響楽の雄、山田耕筰が高く評価していたのは、クラッシック志望の古関ではなく、
「作曲家」になるのに自身が無かったという古賀政男でした。

昭和7年には山田耕筰の仲立ちで古賀政男は結婚式を挙げるのでした。そして、
クラッシックの山田耕筰、「古賀メロディ」の古賀政男の競作「農村夫人の唄」を発表。

山田耕筰は、ヨーロッパに赴くときは古賀政男【丘を越えて】のレコードを持ち歩いて聞かせていた。


52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:44
「影を慕いて」、「丘を越えて」は90年になる、萩原朔太郎や、山田耕筰も愛した「日本のクラッシック」で、
あちこちのクラッシック演奏会で今でも演奏され、歌われている「日本の名曲」です。

53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:48
>>50

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 18:44
古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国でした、訂正します。ドイツ留学したのは山田耕筰です。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。


古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。

古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。

コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。

苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。



55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 18:55
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。

古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。

古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。

作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。

コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。


昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 19:23
h ttp://electronic-journal.seesaa.net/article/23976803.html
情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ830号)2002年03月29日 コメント2011年08月20日 15:03
>古関が、クラシックの作曲から離れた理由に、実家が経済的に破綻して、一族を養わなくてはならず、次第にクラッシックから離れざるをえなくなった・・ともいわれている。

クラシック志望で山田耕作の推薦で待望のコロムビア専属作曲家になったのだが、入社後燃え尽きてしまったのでしょうか。

ものごとは最初が肝心といわれるが、どうしたのか、彼は最初から長い空白を作ってしまったのです。・・

このあたりが本当の古関裕而を知る上、重要かもしれません!。

・・実は、明大マンドリンクラブ出身で当時もコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある某氏の最初のHPによると、重大な史実が隠れていて、これがパスされている。

古関は、参考書で勉強した山田耕筰に英国留学をしたい旨相談したのだが、山田はそれほど評価しているわけではなく、現状ではあなたの力では、このクラッシック交響楽の世界で生きていくのは難しい、と
今流にいえば、ダメだしされてしまったということです。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、・・はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月正式にコロムビア専属の辞令を受けるのだが、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。



57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 19:42
>1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家で・・

NHKは、不明な点が多いとされる「チェスター楽譜出版社」について、以前ロンドンに調査団を送り込んで本格的調査を行ってNHKTV番組で詳細に放送した。
しかし、今出ている名前のものを含め詳細に調査するも、結論は、この「チェスター楽譜出版社」については現存せず、しかも会社について、どのようなものであったかなど、存在と結び付ける確たる情報は得られなかったという。
また、都内のある大きなレコード店であるTレコードによっても、同じ結論です。
幻以上のものでないデリケートな存在なのだ。楽譜と音源がないでは話にならないというのが実態のようだ。
NHKも、いかに物語で事実でないといえ、NHKとして、すでに調査が行われ結論が放送されているものを安易に放送すべきでない。


58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 20:36
古関のコロムビア専属は山田耕筰の推薦、によるものだが、出社通知と辞令はまだ手にしていなかった。古関は阿佐ヶ谷にある義姉の家に部屋を借りて住んでいた。三百円という多額の契約金を貰ったので、当面の生活の心配はなかったがとはいえ、コロムビアからは一行に音沙汰がないことが古関に猜疑心を生むような不安をあたえていた。
昭和五年といえば、昭和恐慌によって不景気のどん底で,街には失業者が溢れていた。古関は不安を抱えながら昭和六年を迎えた。昭和六年に入ってもビクターの勢い衰えず、コロムビアの劣勢は変わらなかった。昭和六年一月新譜の《女給の唄》は華やかな昭和モダンの「翳」ともいうべき女給の哀しき姿をテーマにした歌である。同月新譜には佐藤千夜子が吹込んだ古賀メロディー・《影を慕いて》が発売された。A面は《日本橋から》でマンドリンオーケストラ伴奏、B面・《影を慕いて》はギター歌曲だった。だが、レコードは売れなかった。コロムビアは作曲者の「古賀正男」に白羽の矢を立てた。そして、古賀政男を誕生させたのである。ということは、古関裕而と古賀政男はほぼ同時期にコロムビアの専属作曲家になったことになる。

さて、古関は流行歌といっても、作曲したことがなかった。そこで、とりあえず、日本歌曲のつもりで作曲していた自作品を吹込みことにした。それが《福島行進曲》と《福島セレナーデ》である。発売は昭和六年七月新譜。ちょうど、古賀政男と藤山一郎の第一作の《キャンプ小唄》も同月に発売されている。古賀はコロムビアから専属作家としての打診を受けたとき、流行歌の作曲には自信がないことをのべて、社員入社を希望していた。
古賀社員希望であったことは、古関の自伝にもつぎのように記されている。

「私がコロムビア専属になった頃、古賀政男さんは既に社員として入社していた。ストップウォッチ片手に吹き込みの記録などを担当していた。私のレコーディングにも幾度か立ち会ってくれたこともある。時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながらお互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてかたわら盛んに作曲もやっていた」(古関裕而『鐘よ 鳴り響け』)

古賀の社員入社は古関の記憶違いであろう。古賀は社員希望だったが、コロムビアからは強引に専属作曲家の契約を結ばされている。だが、古賀は作曲家としての自分に全く自信がなく、会社に毎日出社し社員の真似ごとをやっていたことは事実である。
古関と古賀はほぼ同期ということもあり、お互いを励まし合いながら地下食堂で語り合うことが多かった。古賀はこのとき自分の音楽の夢はギター・マンドリン、プレクトラム音楽の演奏家として身を立てることを語った。現に古賀は母校の明治大学のマンドリンオーケストラを指揮・指導していた。古関が古賀と将来の夢と抱負を語り讃え、励まし合っていたということは、古賀自身がまだコロムビア入社の頃、クラシックを志向していたことになるのではなかろうか。


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 20:47
>洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。


人生の苦悩から始まった古賀メロディ。
一方、晋平の生き方とも逆に、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、一貫したものが見られないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、この、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実に基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。

間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば福島人脈を駆使した、古関の代表曲とされる戦後の、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)の類など、戦後を含め、ごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないものが、いつの間にか「クラッシック」(クラッシックの香り)になってしまう不思議。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。

なんでも、?紛い物(似非・エセという)?などはいらない!。

(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。ネットで検索すると消臭剤がでてくるはず!>)

アロマじゃないわけだから「香り」などいらない。

    クラッシックに香りは不要!!。

やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。

古関の評伝に基本的に間違いが多いものが目に付く。


古関は参考にしていた作曲の本のコロムビアの山田耕筰に英国留学を相談するも、
山田に思い留まるよう説諭されたのだが、多くは、このことを知らないか、この部分が削除されているのだ。
コロムビア専属も食い違いがあるのも、このあたりに理由が潜んでいる。

NHKはすでに調査して結論をだしていることは大変重いのだが。

一応、名前も変えてあり事実ではないというのだが。

洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。
したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確で顕著な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちに求められるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。
真に人の心に届くものがなければ、年月を超えて多くの人に共感を与えることはない。






60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 11:54
>>50
(重要!)

>・・実は、明大マンドリンクラブ出身で、当時のコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある先生の最初のHPに、重要な記述があって、これによると、重大な史実が隠れていて、多くはこれがパスされているようなのだ。


古関は、山田耕筰に英国留学をしたい旨相談した。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。
つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって止められたのです。




61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 12:09
>>60,>>50


古関裕而の一番重要な点、不都合な点、これが都合の良いように後から脚色されてしまって必要以上に史実と異なるのでは困るのではないだろうか。
いかに物語と言え、基本的にじじつと逆ではいけない。その旨、事実は正しく公開しなければならない。

62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 14:37
スポーツ応援歌など、耳障りなもの聞きたくもないよ!。

63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 20:31
>>34
>>59

>たとえば福島コンビで、福島人脈で古関の代表曲とされる戦後の、(丘灯至夫作詞・古関裕而作曲)など、戦後を含めマイナ−なごくごくありきたりの普通の「歌謡曲」でしかないのに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものでは決してないはずなのだが!?。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。

・・

高原列車は行く (丘灯至夫)岡本敦郎歌
ばら咲く小路  (野村俊夫)藤山一郎
雨のオランダ坂 (菊田一夫)渡辺はま子
イヨマンテの夜 (菊田一夫)伊藤久男

「高原列車は行く」・・、「長崎の鐘」「白鳥の歌」・・など含めてすべて、扱いは「歌謡曲」です。

「クラッシック」ではありません。
 
 混同してはいけません。

 エセ・クラッシックはだめ!。


(最も、昔、「歌謡曲」とは、もともとクラッシックのリートを意味したものだが。)

64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:18
古関先生には、残念ながら一貫したテーマと言えるものがみあたらない。
山田耕筰とかと話をする、話の出来る人ではなかったと思われる。
そして、クラッシクといってもクラッシク紛いでは話にもならない。
だから、チマチマしていてヒット曲というものも数の割には見当たらない。

65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:46
山田に言わせればテーマも持たない単なる作曲の職人はいらないということか。

66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 14:14
テーマがないと、あちこち手を出し中途半端で大成がままならない!。


67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 13:32
>>62
スポーツは万人の讃える崇高なものとしがちだが、実際は、野球やサッカーその他、オリンピックを含めて、スポーツそのものが嫌いだ、関心がない、オリンピックの間が苦痛という人も少なくないという。
スポーツ中継報道の、興奮し言葉を長〜く、引き延ばしながら絶叫するすのはやめてほしいものだ!。




68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 22:52
名曲とは・・

「名曲」であるためには、一義的には何といっても、詩ほど大切なものはないでしょう。

詩の内容が、誰でも、簡単にできない詩、短くも、簡潔なな中に、詩が重厚で凄みがあり、内容が薄っぺらで、ありきたりで一般的で、ただ受けの良いだけの、幸せだけの、美辞麗句を並べただけのものでなくて、青春の苦悩を秘めた、軽いものでないもの。
やはり、「叱られて」とか「影を慕いて」のような歴史の重みを、歴史を凝縮したような曲、「青い山脈」みたいなものでないもの、・・すばらしい!!。

「白鳥の歌」というのがある。そもそも、それ自身が短歌で完結した「歌」(短歌)であり、短歌自体が完結した歌であるのに、それを別の「歌」(歌謡曲)にしてしまう意味が分からない、歌として中途半端な歌。(「白鳥の歌」はれっきとした「歌謡曲」です。)
短いので、他の同じ短歌を二つ持ってきて、長さはかせいだものの、まだ「寂しさ」で完結してしまっていて、肝心の知りたい、その先が見えない、歌としては、詞として中途半端。

だったら、短歌のまま詠めば、もっといいのではと思ってしまう!。
曲は詩を超えることはできないのだ。


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 15:25
参考

2013-07-12 03:37:07

エッセイ:『青い山脈』を考える@西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1
h ttps://ameblo.jp/metyagojira/entry-11570970839.html


70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 15:54
>>68-69

2013-07-12 03:37:07

エッセイ:『青い山脈』を考える@西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1
h ttps://ameblo.jp/metyagojira/entry-11570970839.html

●なぜ『青い山脈』なのか

先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小 百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみ後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)
肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。

2.永遠の青春歌謡としての『青い山脈』

い つだったか、NHKが歌謡オールタイムベストテンを募集したところ、『青い山脈』がベストワンであったという調査結果が出たという事を聞いたことがある。 残念ながらその際、記録しておかなかったので、いつの調査でどんな番組だったかは筆者は記憶していない。今世紀に入ってからだと思う。いずれにしても西條 八十作詞、服部良一作曲のこの映画主題歌は1949年に国内で大ヒットしてからというもの日本人の心の中に刻み込まれている名曲であることは確かだ。毎年 の夏に放映されているNHKの『思い出のメロディー』でも、1970年代後半頃、最後の取りは藤山一郎を中心に参加歌手全員が歌う『青い山脈』や『丘は花 ざかり』だった。最初にレコードが発売されたのは1949年。東宝が石坂洋次郎の新聞連載小説『青い山脈』を映画化した折、その主題歌として作られたもの で、映画では合唱のみだがレコードでは藤山一郎と奈良光枝のデュエット形式。映画は都合1988年まで初作も含めて5作品作られたが、全ての作品の主題歌 がこの服部良一作曲、西條八十作詞による『青い山脈』が使用された。現在では原作小説や映画がほとんど影を潜めてしまったのに対して、この歌は今も日本人 の心の中に青春歌謡の代表作として生き続けている。

歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。
レ コードは映画封切りよりも3ヶ月前に先行発売されており、映画よりも早く全国でヒットしていた。この曲は服部良一お得意のジャズ調ブギウギものとは違い、 戦前から戦時下に流行した映画主題歌同様のマイナー音階で、例えば『愛染かつら』や『純情二重奏』などに近い、日本人にとって馴染みやすくヒットし易い要 素を持ったものだった。主題歌を先行発売して映画を盛り上げようと考えたのは東宝の名プロデューサー藤本澄一の商戦法だった。予想通りのこの歌のヒットは 主題歌が映画宣伝とその観客動員への役割も果たしたのである。
明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡とし


71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 16:06
明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。

ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。筆者自身は西條八十の『青い山脈』は新しく始まる戦後民主主義文化の始まりを封切るものではなく、過去との決別を意味しているのではないかと思えてな らないのだ。

『青い山脈』 西条八十作詞 服部良一作曲

1.
若く明るい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて
今日もわれらの 夢を呼ぶ

2.
古い上衣よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの旅の乙女に 鳥も啼く

3.
雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ見れば涙が またにじむ

4.
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る



72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 16:12
>>69-71

・先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。

・肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。

・ 歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。

・明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。

・ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。

73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 17:48
11.石坂洋次郎 『青い山脈』 2006年3月

往年のベストセラー作家、石坂洋次郎の作品が読まれなくなって久しい。かつては本屋の書棚 を埋め尽くしていたものだが、今ではそれが懐かしい。『青い山脈』も、せいぜいその映画主題歌 がしばしば思い出のメロディーとして歌われることで記憶に残っている人が多いのではないか。 この作品が発表されたのは昭和22年。女学校で起きたにせラブレター事件を解決しようと動い た女性教師島崎雪子は、まさに戦後民主主義の申し子といった存在である。 彼女は、この事件の背後に女学生たちの野卑な精神を嗅ぎ取り、それを教室での問題として糾 弾しようとした。教室で首謀者を特定し、その非を諭すというのは彼女の論理からすれば「間違い のない」やり方であったはずだ。ましてや、首謀者が自分の行為を「学校のため」と言い逃れした のであれば、雪子にとってこれは看過できない事柄だったのである。 この事件を教室で問題として取り上げようとしたとき、これに反対したのは校医の沼田であった。 この環境で暮らす女学生たちの背景を踏まえない、直接的な方法は反感を招くばかりであること を、彼は土地の人間として十分すぎるほど知っていたのである。 『青い山脈』は戦後まもない時代の中、民主主義を謳歌した作品として受け取られがちだが、事 情はそう単純ではない。作者は戦前『若い人』を発表した際、右翼団体から不敬罪の被疑者とし て睨まれ、一時期沈黙を余儀なくされた経験がある。彼はむしろ多くの人々が「民主主義万歳」を 叫ぶ当時の風潮に違和感を覚え、読者に警鐘を鳴らそうとしていたフシがうかがえる。それは、 作品中の女学生が実に安易な形で「民主主義」を唱え、その言葉が一人歩きして島崎雪子の進 退問題にまで発展していった経緯からも明らかだ。あるいは、寺崎新子が家の窮乏を救うべく、リ ンゴの密移出を企てる場面が描かれているのも、日本版の『桜の園』とも言える太宰治の『斜陽』 とは明らかに対極的な生き方が志向されている。人間はとりあえず生きなくてはならない。欲望 や嫉妬、あるいは競争心をもった個人が混乱した時代状況の中でいかにして他者と共存し、本当 の意味での民主主義国家を築いていけるのか。作者はそのことを問いかけている。 『青い山脈』は、ヒロイン島崎雪子がこの土地の風土を理解していく物語でもある。その点で彼 女がこの土地の人間である沼田のプロポーズを受け入れるのは、いかにもこの作品の結末にふ さわしい。 しかし、当時の読者はこの作品をどの程度まで理解しえていたのであろうか。この作品が空前 の大ブームとなったことが、長い目で見ると逆に不幸だったと言えるかもしれないのだ。


74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 18:36
>>69-72

「青い山脈」・・「自由奔放」!!   自由奔放/騒動=若く明るい

石坂洋次郎によって書かれた学園の集団男女交際を主題とした長編小説である。戦後間もない田舎町での、偽のラブレターに端を発した恋愛騒動を描く。物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる自由奔放な学園騒動をさわやかに描いた青春小説である。

東北地方の高等女学校で起こった偽ラブレター事件をきっかけに、男女交際について、古い慣習に捉われる旧派と自由を主張する新派の町をあげた騒動に発展していく物語で、若さ、恋愛、自由などがユーモラスを交えて描かれた代表的青春映画。

「青い山脈」・・その代表とする言葉、それは「自由奔放・騒動・戦後民主主義」でしょう。

これまでたくさんの名曲を残してきた詩人・西条八十・・困り果てた西条八十は「自由奔放、騒動」を「若く明るい」という言葉で・・言い換えているのです。

それ以外で「青い山脈」に関係する言葉は「青い山脈」という言葉しか出てきません・

「若く明るい」とは戦後民主主義の「自由奔放」ということと理解すればいいでしょう。

霧島昇・松原操の歌った昭和23年の「三百六十五夜」(西条八十作詞・古賀政男作曲)を最後に、世の中は大きく変わって、歌の世界も飲み込まれて、大きく変わってゆく、、その転換点の歌なのです。

一方、《 「若く明るい」だけでは軽い! 》>とも言われるのも事実!。

それが「青春歌謡」であるならば、そこに「青春の苦悩」が込められていないと・・

それほど明るい歌というわけでもないし。

なお、松原操は、時代の変化を感じ取ったのか、この「三百六十五夜」を最後に、歌手生活を離れ、二度と歌うことはなかった。

藤山一郎も昭和29年にレコード歌手を引退。

歌は真に真心がこもったものでない限り、真に名曲として長く愛されることは決してないでしょう。

昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)、同じ年には、同じ服部良一の「東京ブギウギ」が出ている。

しかし、それも年月とともに変わってしまうのです。



75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 19:24
>>71

この「青い山脈」の歌詞には、「青い山脈」、という言葉以外、小説や映画についての
関係する言葉は認められていません。

つまり、不可欠な情緒・情感に関することは一切なく、情景に、情景だけで逃げてしまっているのです。

自由奔放では八十でも書きようがないはずです。

美辞麗句をうまく並べて使っているので、それだけに、一般受けは決して悪いわけではないようだが、誠に残念ながら、これまでの八十の重厚さというものが見られない、軽い!。

それ故、「青い山脈」が名曲とは言い難い!。





76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 21:45
>>72
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。

77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 22:01
三百六十五夜

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操


 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君


 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ


 鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る

昭和23年、三百六十五夜

《蛇足》 昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。映画は雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の恋愛小説の映画化で、出演は上原謙、山根寿子、高峰秀子、堀雄二など。
 古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなりました。
 霧島昇と松原操は、『旅の夜風』をいっしょに歌ったのが縁となって結婚、多くのヒットを飛ばしました。松原操は子育てをするため、この歌を最後に引退して、専業主婦となりました。
 
翌年、昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)を比べてみると、もの。美辞麗句を並べただけの「青い山脈」はただけの味もそっけもない女学生の合唱コンクールのようなもの。

同じ西条八十の詩とは思えない!。

78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/22(Fri) 22:04
翌年、昭和24年の「青い山脈」(西条八十作詞、服部良一作曲)を比べてみると、美辞麗句を並べただけの「青い山脈」は同じ西条八十の詩とは思えない味もそっけもない女学生の合唱コンクールのようなもの。



79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/23(Sat) 21:10
>>68-78
>>74-78

歌の世界も戦後、昭和23年あたりを境に大きく変わることとなってしまった。石坂洋二郎の「青い山脈」とは、昭和22年から新聞に連載された小説で、学園における若者の奔放な男女交際をめぐる騒動を描いた、これまでにない、たわいもないもの。これまでの、淑やかな恋愛や「価値観」が「民主主義」の名のもとに覆されてゆく。
「恋愛」というより、学園における奔放な「騒動」。
戦後の典型的な作品は「青い山脈」(1947年、石坂洋次郎)で、「自由恋愛」のもとに、明治生まれの年寄りを、若い世代が「民主的でない」と非難する場面が頻繁に出てくる。

ドラマや映画でも「お父さんは封建的」「家族会議を開くべきよ」といったせりふがよく聞かれたが、作家の関川夏央さんに言わせれば石坂作品は良くも悪くも、「戦後民主主義」を流布させる思想小説となる。そんな作品で強調されたのが「自由恋愛」だった。
『愛染かつら』三部作など、これまで数知れない沢山の名作の歌を書いてきた西条八十も困ってしまったことでしょう。
情景にすり替えられて、昭和23年の」「三百六十五夜」のように、中身,情感の部分に、あまり触れていない。

中身の情感の部分が貴いのであって、小説を知れば「若く明るい」だけでは軽い。

真の大人の歌になるためには苦悩とか心の襞もないと、西条八十もおもったはず。

確かに。自由奔放な戦後若者の恋愛騒動じゃ、若く明るいと書くくらいしかなかったのだろう。

[青い山脈」・・詩がありきたり、「若く明るい」だけでは軽い!。

曲は詩を超えることが出きない・・


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/10(Mon) 11:35
>>71

ドラマや映画でも「お父さんは封建的」「家族会議を開くべきよ」といったせりふがよく聞かれたが、作家の関川夏央さんに言わせれば石坂作品は良くも悪くも、「戦後民主主義」を流布させる思想小説となる。そんな作品で強調されたのが「自由恋愛」だった。
『愛染かつら』三部作など、これまで数知れない沢山の名作の歌を書いてきた西条八十も困ってしまったことでしょう。
情景にすり替えられて、昭和23年の」「三百六十五夜」のように、中身,情感の部分に、あまり触れていない。

中身の情感の部分が貴いのであって、小説を知れば「若く明るい」だけでは軽い。

真の大人の歌になるためには苦悩とか心の襞もないと、西条八十もおもったはず。

確かに。自由奔放な戦後若者の恋愛騒動じゃ、若く明るいと書くくらいしかなかったのだろう。


西条八十の「青い山脈」に殆ど小説や映画の内容はみあたらない。

このあたりは西条八十もどうすべきか考えた末、一番欠けた部分を創作したのだろう。

4番の歌詞・・

4.
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る

この小説映画は古い上着よさようならとあるように、古くからの貞俶、淑やかさ(古い上着)を排斥し自由奔放を勝ち取ろうとする奔放な若者に対する苦言を、八十の言葉で言い表したものだろう。

なんか古い道徳が悪いもので、それを排斥(自由奔放)してと、封建制度に立ち向かうかのように聞こえるが、決してそうではなく逆である。

それは今までの八十の作品と違った奇異なものである。

それは今、この作品(小説)がほとんど顧みられていないことに表れている。


81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/11(Tue) 08:14
参考までに戦後、[青い山脈」(1948)当時、服部良一が書いた45曲のうち、タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は以下の15曲である。編曲もすべて服部良一による。作詞者の「村雨まさを」は服部良一のペンネーム。

東京ブギウギ ???? 鈴木勝作詞????????年1月(発売時期)
さくらブギ ????? 藤浦洸作詞????????年2月
ヘイヘイブギ???? 藤浦洸作詞????????年4月
博多ブギウギ ???? 藤浦洸作詞????????年5月
大阪ブギー ????? 藤浦洸作詞????????年9月
ブギウギ時代 ???? 村雨まさを作詞??????年11月
ジャングルブギー?? 黒沢明作詞????????年11月
ホームランブギ?????サトウハチロー作詞???年7月
ジャブジャブ・ブギウギ?天城万三郎作詞?????年8月?
名古屋ブギー ???? 藤浦洸作詞??????年11月
ブギウギ娘???????村雨まさを作詞?????年12月
買い物ブギ???????村雨まさを作詞?????年7月
黒田ブギー ?????? 村雨まさを作詞???? 1950年10月

アロハブギ ?????? 尾崎無音作詞?藤浦洸補作?年2月

七福神ブギ ?????? 野村俊夫作詞???????年4月

82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/11(Tue) 08:27
参考までに戦後、[青い山脈」(1948)当時、服部良一が書いた45曲のうち、タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は以下の15曲である。編曲もすべて服部良一による。作詞者の「村雨まさを」は服部良一のペンネーム。
まさに、ブギの嵐!。

東京ブギウギ ????
さくらブギ ?????
ヘイヘイブギ????
博多ブギウギ ????
大阪ブギー ?????
ブギウギ時代 ????
ジャングルブギー??
ホームランブギ?????
ジャブジャブ・ブギウギ??
名古屋ブギー ????
ブギウギ娘???????
買い物ブギ???????
黒田ブギー ??????

アロハブギ ??????
七福神ブギ ??????

83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/06(Sun) 19:15
【服部良一】1907年10月1日―1993年1月30日
日本の作曲家、編曲家。また作詞家として村雨 まさを(むらさめ まさお)の名がある。大阪府大阪市東住吉区(現・平野区)出身。天王寺区出生。
ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
「東京ブギウギ」、「銀座カンカン娘」、「青い山脈」ほか、当時最先端のジャズなど洋楽のリズムやビートを歌謡曲に大胆に持ち込み、日本の音楽を創り上げていった”日本ポップスの父”的存在。
最新のものを単に輸入するのではなく、日本人の感性で消化し、日本独自の新しい音楽を確立していった。手がけた楽曲は3,500曲を超える。
第二次世界大戦後は、コロムビアを中心に旺盛な作曲活動を行い、戦前に実験済みだったブギのリズムを取り入れ『荒城の月ブギ』を編曲、笠置シヅ子との提携で『東京ブギウギ』『ヘイヘイブギ』、戦後のプロ野球ブームを歌った『ホームラン・ブギ』、大阪弁をモチーフにした『買物ブギ[3]』などのブギウギの名曲をヒットさせた。このほか主要な作品には、藤山一郎、奈良光枝による『青い山脈』、二葉あき子が歌った『夜のプラットホーム』(1939年に淡谷が吹き込んだが、「出征兵士の士気を殺ぐ」という理由で発禁処分)、霧島昇が歌った『夢去りぬ』・『胸の振り子』、近江敏郎と二葉あき子によるタンゴ調の『黒いパイプ』、ビクターでは灰田勝彦が歌った『東京の屋根の下』、市丸の『三味線ブギウギ』などがある。



84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/06(Sun) 19:20
1932年、当時のヒット曲「酒は涙か溜息か(歌:藤山一郎)」を剽窃したような「酒は涙よ溜息よ(歌は黒田進こと楠木繁夫)」なる曲をタイヘイの指示で書かされるが、こういった仕事をすることに嫌気がさし、1933年2月ディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。翌1934年2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。

コロムビアの専属作曲家に
1936年コロムビアの専属作曲家となった。入社第一回の作品が同年1月23日吹き込みの淡谷のり子が歌う『おしゃれ娘』で、当時最先端の音楽であったスウィングジャズのイデイオムをふんだんに取り込んだ斬新な作品であった。1937年3月吹き込みによる淡谷のり子『別れのブルース』は、黒人ブルースをベースにした作品で、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷が服部の意向を汲みアルトの音域で歌い、南里文雄に認められて一流の作曲家の仲間入りを果たす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。代表作としては、淡谷の『雨のブルース』、霧島昇・渡辺はま子の『蘇州夜曲』、中野忠晴の『チャイナ・タンゴ』、モダンの余韻を残す霧島の『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』、機知にとんだコロムビア・ナカノ・リズムボーイズの『山寺の和尚さん』、渡辺の『いとしあの星』など、いずれも大ヒットし、服部メロディーの黄金時代を迎えた。だが、太平洋戦争が始まると服部が手がけるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。そんななか、1942年に渡辺はま子の『風は海から』、1943年に李香蘭の『私の鶯』などの佳曲を発表し、軍歌一色の中で数少ない抒情性あふれる作風が評価された。

85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/17(Thu) 20:59
>>75-80

ベートーヴェンの三大ピアノ・ソナタと呼ばれているものに、「月光」「熱情」と合わせ、「ピアノソナタ第8番 悲愴」というのがある。、歌には、単なるハッピーなもだけでは平板で名曲とはいえない。
「名曲」たりうるためには、悲壮性、嘆きの要素を秘めていることは重要なものとなりうるはず。
日本の名曲「叱られて」「影を慕いて」のように。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 19:46
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)

もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、テレビで」『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。



87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:01
映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:13
■佐藤惣之助と古賀メロディ

現代の飽食の時代を満喫している現代人にはわからない言葉がある、

故郷を捨てる・・この言葉は何のことやらわからないだろう!。

昔の日本は草深い農村だった、そして人の人生は12歳で決まってしまったのだ。

そんな中で必死で幼くして人生を切り拓くべく人生を賭した多くの青春があっただろう。

あの福島県会津の野口英世の生家の柱には、「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」の自筆で刻んだ字が。

母の力で篤志家の援助で高等小学校を出た英世、そして医学を学ぶため東京に出る時、決意を刻んだもの。

昔は自身の未来を切拓くことは、貧しい故郷を捨てることだったのだ。

実はこれは昭和30年代、集団就職もその一つ。

「古賀メロディ」とは青春の、人生の苦悩をテーマとしたものということができる。

「青春、人生」「青春の苦悩」・・・いつの世でも時代を超えて普遍性を持つ、いつの時代でも新鮮でありうる、だから時代を超えて歌われる。

詩人・佐藤惣之助の青春を見事に謳った多くの名詩。

戦後「青春歌謡」というのがはやったが、実は

「古賀メロディ」とは元祖青春歌謡。


昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。

封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。

デイックミネ27歳のときである。

古賀政男はジャズしか歌ったことのなかったデイックミネに口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。

そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校(東京音楽学校)出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」(きよおとめのうた)は藤山一郎。

主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。

最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。


おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。




89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:27
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄     (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記  (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938









90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 20:44
人生の並木路

作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。  映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。



人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/19(Sat) 21:06
>>87
>昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

日本がまだ貧しかった時代・・貧しいとはこういうことだった!。・・(年齢は数え)



昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。



92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/01(Thu) 08:16
当時の状況と欠食児童の社会問題化

当時日本は昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)に直面していた経緯がありました。世界恐慌の波が日本経済を危機的な状況に陥れており戦前の日本における最も深刻な恐慌でした。

当時の日本は生糸をアメリカ輸出をしていましたが生糸価格が暴落し、他の農産物も価格が崩壊、昭和5年(1930年)の豊作により農業恐慌も本格化しました。

そして、昭和6年(1931年)は一転して東北地方・北海道地方が冷害によって大凶作になりました。不況のために兼業の機会も少なくなっていた上に、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家の経済は疲弊していました。

その時全国的な規模で「欠食児童」が発生し、深刻な社会問題となっていたのです。


「欠食児童」とは特に学校へ弁当を持参できず食生活に問題を抱える子どもを指して用いられることが多くあります。


学校校給食ノ実施ニ当タリテハ貧困救済トシテ行ハルモノタルガ如キ威ヲ興フルコトナク寧ロ養護上ノ必要ニ出ヅルモノナルガ如クシ周到ナル注意ヲ払フコト(學校給食臨時施設方法に関する件より抜粋)



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 22:32
江戸時代の飢饉もさることながら昭和には言ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。(東北大凶作)
稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。

宮沢賢治の「雨にも負けず風にも負けず]も、この時の手帳に残されたメモ。
これは亡くなってから発見されたものだが、この昭和6年の東北大凶作に依って多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
この「東北大凶作」は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。

その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。

岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ「藤坂五号」という
冷害に強い品種ができた。それが昭和40年代後半だった。










3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:27
やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。

昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。



4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:32
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
 子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
 凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
 「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
 「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。


94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 22:48
江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。

 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。


 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。


 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?


95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/02(Fri) 23:09
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして

「9月18日未明、満州事変勃発。」


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
  [写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)


96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/07(Wed) 21:03
(参考)

〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治の有名な詩、宮沢賢治は昭和8年に亡くなったが、これは死後、手帳の中から発見された。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ・・



この部分は有名だが、この詩は昭和6年(1931)の冷害を叙述したもの。
最後の方に、サムサノナツハオロオロアルキとある。


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/08(Thu) 13:42
直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。



98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/08(Thu) 14:40
■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 

  平成元年1989 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級の大歌手・声楽家が好んで
歌い広めた歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。


99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:17
童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、
口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、
ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。


壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、


「二十四の瞳」 1954 
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:31
童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。

昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。

映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で卒業を待たずに、奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。
あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3〜4の、小学校を出たばかりの女の子。

昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。
「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だったのだ。


新聞の連載[私の履歴書」に、自らの栄光の学歴と出世が書かれている。
なんとか高校(旧制)をでて、なんとか帝国大学をでて・・・

でも、その陰で、小学校を出たばかりで奉公に出されたもの、中学に進めず涙を飲んで高等小学校〈二年制)に進み世に出たものもたくさんいたでしょう。
昔はどんなに優秀でも、勉強がしたくても進学できなかったり、無理解で進学させてもらえなかったものはたくさんいたはず。

有名高校(旧制)、大学に進学できたものも、頭がよく勉強もしたでしょう。でもことによると、もっと勉強ができて、もっと学びたい者も沢山いたでしょう。
バンカラ衣装に、いい歳をした老人が集まって寮歌祭とかばか騒ぎをしているが、そうした青春を謳歌する陰に沢山の埋もれた有能な才能があったことでしょう。

日本がまだ貧しかった時代、そうして幼くして世に出た沢山の有能な才能の人たちがいて、そうした名もなき底辺の人々の支えの中に今日の日本の繁栄の基礎がある、そうした事に想いを致す事も意義が有るでしょう。

こうした飽食の時代を謳歌しているものにはわからない、日本の歴史を凝縮したような日本の名曲は良い。

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/10(Sat) 11:48
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる日本の名曲「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また同じく日本の名曲「影を慕いて」はこの昭和3年(1928)に作られたものである。(昭和6年1月発売、ビクター盤。佐藤千夜子歌)

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/13(Tue) 20:47
最近、「昭和歌謡」「昭和」というと、昭和末期、昭和50年代頃をさすようだ。

「昭和」とは大正15年(1926)12月25日から昭和64(1989)年1月7日まで、

61年と2週間余り。

昭和とは、明治、大正を合わせた60年より長く、日本の歴史はもちろん、中国を含めた世界のどの年号より長い。

だから、「昭和」とは60年を俯瞰したものでなければならない。

このうち前半の昭和30年代までは、日本は貧しい時代だった、そして飢饉と飢え、戦争に明け暮れた時代。

昭和6年、東北大凶作による飢饉によって、農業試験所は冷害に強いコメの研究を行い、2000種のコメを掛け合わせ藤阪五号という冷害に強いコメが出來たのは戦後も20年以上たった昭和46年だった。日本にコメが余るなどと言われるようになったのは昭和46年、50年前、つい最近だった。
農業関係者の弛まぬ努力の賜物とされる。

この昭和、・・「昭和」の初めから、昭和30,40年代・・を一貫して支えているのは50年の歴史を持つ「古賀メロディ」ただ一つ。

古賀政男の亡き後、重石をなくして、どんどんタガが外れて素人化、詩がなくなり散文化、訳の分からない、聴きとれない歌、それに、素人歌手化、ヘタクソ、グループサウンズ化、ライブ化が進む。歌というより、素人がなんか調子をつけて、訳の分からぬことを喚いているとしか言えないものに。


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